第百五十五話 絡 垜 (たたり)
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目覚めたエデンがローカと共に寝室を尋ねると、寝台の上にはすでに身を起こしたラヘルの姿があった。
膝の上に編み物の道具を乗せてはいたが、糸を繰る手は止まっている。
起床を告げて具合を尋ね、次いで辺りに姿の見えないラバンの所在を問う。
昨日の今日にもかかわらず朝一番から仕事に出ていると聞かされ、驚きを禁じ得ない。
彼の心情を推し量れば、朝寝をしてしまったことに気がとがめる思いを抱かずにはいられなかった。
「お腹すいてるでしょう、朝食の用意があるから食べて」
ローカは二人、ラヘルの用意してくれた遅めの朝食を取る。
片付けを済ませて寝台の脇に椅子を引くエデンの顔を正面からじっと見詰め、ラヘルは小さく微笑んで言った。
「何か言いたいことがあるんでしょう」
「え——」
「エデン、貴方ってとってもわかりやすい子。そういうところはラバンとよく似ているのね。そんなに難しい顔をしてどうしたの?」
全身で動揺をあらわにするエデンをよそに、ラヘルはいかにも得意げな訳知り顔で続けた。
ローカと一緒に行きたいところがあると請えば、彼女が一も二もなく許しをくれることはわかっていた。
事実、昨夜のうちは許可を得て再び先生の元を訪ねるつもりだった。
しかしラバンが不在の今、とてもではないが彼女を残して二人で家を出る気にはなれない。
それも以前に、ラバンと交わした約束を破ってまで行ったのが大河の向こう側とあればなおさらだ。
先生との約束は見合わせるべきかと考えていた矢先の鋭い洞察に、茶を濁すような答え方はどうしてもできなかった。
「……そ、その、今日じゃなくてもいいんだ」
「何かお約束かしら? 前に話してくれた行商人さん?」
「ち、違うよ。その二人じゃなくて——」
「いいのよ、私は一人で大丈夫。会いたい人がいるのなら気にせずに行ってらっしゃい。……ラバンには内緒にしておいてあげるから」
なんとかしてはぐらかそうと試みるが、どこか面白がるような笑みを浮かべたラヘルは一向に引き下がる様子を見せない。
「で、でも、やっぱりラヘルを一人で残して——」
「いいのよ、一人には慣れているわ。ずっとそうだったんですもの」
まるで他人事のように彼女が言い放つと、返答に窮するよりほかはなかった。
二の句の継げないエデンが無言で見詰める中、ラヘルはあくまで優しい笑顔をたたえて続けた。
「ごめんなさい、そんな顔をしないで。……今朝ね、ラバンとたくさん話したの。こんなに話すのなんて何年ぶりかしらっていうぐらい。どこを目指そうとか、どんな支度が必要とか、着の身着のままで飛び出したときと違って、ちょっぴり胸も躍っているわ。東か西か、どちらへ向かうかは決まっていないけれど、この市場よりもっと大きな集落を目指そうって。人がたくさんいるところに行けば、いいお医者さまも見つかるんじゃないかしらって。——うふふ、ラバンのことだから、すぐに出発なんてことにもなりかねないわ。帰ってきたら『仕事を辞めてきた』なんて言い出したりしてね」
事の重大さなど意に介する様子もなく、ラヘルはさも愉快そうにころころと笑う。
「……そんな悲しそうな顔をしないでほしいの。笑顔で見送って。私、そう易々と死ぬつもりなんてないわ。死に場所を探すためじゃなくて、生きるためにこの町を出るんだから。もちろん簡単な道なんかじゃないことは承知しているつもり。生きることを怠けていた私にとって、とってもつらい旅になるのはわかってる。でも私ね、頑張ってみる。頑張って生きてみるから。だから——」
いったん言葉を切った彼女はエデンとローカを順に見据え、自らの胸にそっと手を押し当てる。
「——いつの日か、もう一度会いましょう」
そしてひと呼吸を置き、誓いを立てでもするかのように宣言した。
「ラヘル……」
言って大仕事を終えでもしたかのように満足げな表情を浮かべたラヘルは、名を呼んで見詰めるエデンの腕に触れ、ちゃかすような口ぶりで続けて言う。
「ほら、約束しているなら遅れちゃ駄目よ。お相手はどんな方? もしかして女の子かしら?」
「ち……違うよ!! ちが——違わ、やっぱり違うって!!」
両手を振り乱して異を唱えるものの、完全に見込み違いではないことがますます気を焦らせる。
「まあ! 隅に置けない子ね! こんなにかわいい子がそばにいるのに」
「ち、違うっ! だ、だからそうじゃなくて……!!」
激しくうろたえつつ否定の言葉を並べ立てる。
何やら視線を感じて傍らを見下ろせば、いつにない冷ややかな視線で見上げるローカの姿がそこにあった。
「ロ、ローカ——!! き、君まで!? だから違うよ、違うんだ!! 何が違うかわからないけど、とにかく違うからっ……!!」
ぷいと顔を背けてしまう少女に対し、必死に弁明を繰り返す。
「逃げられないように、ちゃんと紐で結んでおかないと」
不満げに頬を膨らませるローカと顔を見合わせてラヘルが言えば、少女もまた調子を合わせるようにうんうんとうなずいてみせる。
「……帰ったら仕上げをしましょうね。そろそろ完成させないと間に合わなくなるわ」
紐を編む見慣れた手つきを見せるラヘルに、ローカも今一度深い首肯を返す。
何のことやらわからずに一人ぼうぜんと二人のやり取りを眺めていたエデンを横目に眺め、二人はくすくすと小さく笑い交わした。
「それにしても、ここを出るなら全部片付けていかなくちゃならないわね。まさか持っていくわけにもいかないし……どうしましょう」
寝室を見回し、辟易とも感慨とも付かぬ口ぶりでラヘルは呟く。
改めて見れば、壁や天井など、彼女の作った紐細工は部屋中の至る所に飾られている。
寝室だけでは収まらず、居間や土間にまで溢れ出ていそれが、彼女の独りで過ごしてきた時間の産物と思うと言い知れぬ寂寥のようなものを感じる。
「……そうそう買い取ってもらえるようなものでもないでしょうし、誰かもらってくれる人がいたらいいのだけれど」
「自分も探してみるよ」
ほうと吐息交じりの困り顔で呟くラヘルに告げ、エデンはローカと二人寝室を後にした。




