第百五十二話 差 縺 (さしもつれ) Ⅱ
「この町から出ていく」
せき込むラヘルの背をさするさなか、エデンが聞いたのは我が耳を疑うようなひと言だった。
「え——」
悪い冗談か何かとただすような視線をもってラバンを見上げるが、その表情は普段通と一切変わりない。
もとより彼が冗談を飛ばしたり軽口をたたいたりするような人柄でないことはよく知っている。
それならば聞き間違いだったのかもしれないと瞬間的に思いを巡らせるも、一縷の可能性を断ち切るように否定したのはラバン当人だった。
「俺とラヘルは二人でこの町を出る。そう言った」
「町を出るって——え……どういうこと……?」
「言葉通りの意味でしかない」
しどろもどろになりながら尋ね返すエデンに対し、ラバンはあくまで冷静な口ぶりで応じた。
共に暮らす中で、少しずつだが彼の性格や気質を理解できるようになってきたつもりだった。
誰にも相談なく大切なことを決断してしまうところや、前触れなく突発的に行動するところにも慣れてきた。
そして、彼が常にラヘルのことを第一に考え、彼女のためならば躊躇なく自らを犠牲にできる人物であることも理解し始めている。
そんな彼が自己の都合で具合の悪いラヘルを連れて町を出ようなどと考えるはずなどない。
ラバンがかくなる結論に至った契機に心当たりがあるとすれば、それはただひとつしかない。
「……やっぱり医者を探しに行くんだね」
「そうだ。黙って死を待つより、どこまでもあらがうことにした」
「ラ、ラバン!! そんな言い方……!! それにラヘルを連れてなんて……」
本人の前であるにもかかわらず、平然と不吉な単語を口にする。
ラヘルの心持ちを思って焦りを覚えるが、当の彼女は小さく左右に首を振ってみせるだけで、目立って挙措を失したような様子は見せない。
自らの胸に手を添えた彼女は、乱れた呼吸を落ち着かせるように深く息を吐いた。
「いいの、エデン。どんな言い方をしても、言葉を選んでも、真実は変わらないわ。私は自分が長くないことを知っていて……それを受け入れていた。命も未来も全部ラバンに預けて、ただその日が来るのを待っていたの。だからこの町を出るって聞かされたときも、今までみたいに黙ってうなずいていればよかっただけなのに……それなのに——」
そこまで言ったところで、ラヘルの目頭に再び涙がにじみ始める。
こらえようと懸命に息を止める彼女だったが、目いっぱいにたまった涙は努力のかいなく頬を伝って流れ落ちる。
それまでじっと立ち尽くしていたローカが寝台によじ登るようにしてしがみ付くと、ラヘルは涙を拭いもせず、その身体を両の手で抱き締めた。
「——嫌だって……思ったの。出ていきたくないって……そう思ったら、ラバンに言い返していたの。感情に任せてものを言って——困らせていた」
「困ってなどいない」
変わらずの抑揚のない口調でラバンは答える。
そして寸時考え込むようなそぶりを見せた彼は、わずかに目を伏せて言い添えた。
「困ってはいないが、お前がどうしたいのかが俺にはわからない」
「……ごめんなさい。私も私がわからないの。でも——それはそう。貴方が知らない私を、私なんかが理解できるわけなんてないわ。怖いものから逃げるために考えることをやめていた私が、この期に及んで私をわかってあげたいだなんて……都合がいいにも程があるわよね。でも……ローカと——」
ラヘルは胸元にしがみ付くローカの頭に掌を乗せ、不安げに見詰めるエデンと視線を交わし合う。
「——エデン。貴方たちのことを思うと胸が締め付けられるの。今という一瞬にとどまっていたい気持ちと、一秒でも長く生きたい気持ちが私の中で戦っているのがわかるわ。貴方たちと離れたくない。……でも、大人になった貴方たちにも会いたいの。そんなわがままが許されるわけなんてないのに……どうしても——両方ともかなえたくて——それで……」
「ラヘル……」
思いの程を知って万感胸に迫る感覚を覚えつつも、手放しで喜ぶことができないのは彼女の置かれた境遇に対する憐憫のためだろう。
状況に即した言葉をもって抱える痛苦を取り除いてあげたいと強く願うものの、 お世辞にも豊かとはいえない語彙の中からでは掛けるべき言葉を見つけ出すことはできなかった。
ややあってラヘルは顔を上げ、両の手背で頬を伝う涙を拭い取る。
エデンと胸元に顔をうずめるローカとを順に見やったのち、彼女は傍らに立つラバンを見上げ、寝室に垂れ込めた重々しい沈黙を打ち破った。
「——ラバン。貴方と行くわ。私、この町を出る」
それは先ほどまでの憔悴した彼女からは想像もできない、固い決意の込められた宣言だった。
思いを定めた彼女の言葉を受け止めたラバンが放つのは、相も変わらず飾りけのない「そうか」のひと言だ。
「貴方に言われたからじゃない。私は私の考えで行くの。何があっても後悔なんてしないわ」
「ラヘル、でも身体の具合は……」
「何かを得ようと欲すれば、相応の代償を支払わなければならない——そうよね」
エデンの口にした気遣いの言葉に、ゆっくりと左右に首を振って応じる。
続けて寝台の上で居ずまいを正したラヘルは、見下ろすラバンの純乎たる視線を見返して切り出した。
「……ラバン、あれを手放したのよね。——私のために」
「ああ。俺にはもう必要のないものだ」
「あれって……?」
二人の口にした言葉の示す対象に思いを巡らせる中、脳裏に今朝方ラバンが手にしていた硝子の小瓶が浮かぶ。
「それって、あの青い粉……?」
「そうだ」
ラヘルの切実な物言いとは対照的に、ラバンは何事もないかのごとく平然として答える。
必死に感情を押し殺し続けていたラヘルだったが、平常通りの振る舞いを貫き通すラバンを前にして歔欷の声を漏らす。
だが彼女は再び涙を流すことはなく、喉の奥から込み上げるおえつをこらえ、ひと言ひと言思いの糸を言葉に紡ぎ始めた。
「いつか貴方がもう一度絵筆を握ってくれる——そんな日が来ることを願っていた。願っていたけれど……心のどこかで二度と訪れはしないんじゃないかとも思っていたわ。私といたら、私がいたら……私と一緒の貴方には、絵と向き合う心の余裕なんて決して生まれはしないって。それでも……あの青色が貴方の手にある限り——いつか……いつかって——そう思っていたわ。でも貴方はあれを——ずっとずっと大切にしてきた宝物を手放した。だから私も——」
思いを決したひときわ力強いまなざしをもってラバンを見上げる。
「——生きるために、命を懸けてみようと思うの」
そう言って無言のままラバンと視線を寄せ合うと、次いでラヘルはローカとエデンを順に見やる。
「エデン、ローカ。貴方たちには知っておいてほしいの。私の生きた証、それから……私とラバンの身体を流れる血の呪いについて」
優しく背中を押すかのようなラバンの首肯を受け、ラヘルはひときわ大きな深呼吸をひとつする。
そして一頁一頁、記憶をたどるかのように訥々と語り始めた。




