第百五十話 諤 諤 (がくがく)
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水を吸い終えた書物に見まねで木板と重し代わりの石を載せると、エデンは次の一冊に手を伸ばす。
黙々と作業を続けるシオンの姿を濡れた書物をもてあそびつつ横目にうかがい、おもむろに問い掛けの言葉を口にした。
「ねえ、シオン——」
「なんでしょう」
「——先生にね、医者の知り合いっているのかな? できれば腕がいいほうがいいんだけど……」
想定外の問いだったのだろうか、作業の手が一瞬止まる。
だが、すぐに気を取り直したようにシオンは濡れた頁に布をあてがい始めた。
「この町にはいないのではないでしょうか。もちろんかかりつけの医師がいないわけではありませんが、見てもらうのは数年に一回程度です。私も数度診てもらったことがありますが、取り立てて名医だと感じたことは残念ながらありません。それに先生はこの家から出ること自体まれですし、することといえば本を書くか読むか、後は写本の仕事や教師のまね事ぐらいです。元々は漂泊の学者として旅を続けていた先生の故郷は遠く離れた場所だと聞いています。知り合いが訪ねてくることもなければ、新たな人付き合いを増やそうとする姿勢も見せません。……そう、私を除く知り合いといえば——町の子供たちぐらいのものです」
「そっか……」
「どこか悪いのですか?」
聞きたかった以上を語ってくれるシオンを前にして、力なく肩を落とす。
露骨に消沈したそぶりを見せるエデンを、ずいと顔を寄せた彼女は気遣わしげな視線で見詰める。
「ううん、違うんだ! 自分じゃなくて、お世話になってる人のことを見てもらいたかったんだ。今日もこっちに偉い先生がいるって聞いて、それで訪ねてみたんだけど……先生は先生でも先生違いだったみたい」
「……そうだったのですね。お力になれず申し訳ないです」
「い、いいんだ。医者はまた探すよ。それより——」
書物を手にしたまま立ち上がり、手を止めて視線を落とす少女を見下ろす。
「——シオンと先生に会えて本当によかったって思ってる。だからね、来た意味は十分過ぎるくらいあったかな」
「は、はい。それなら……」
「エデン君!! エデン君——!!」
続けて何か言おうとしたのだろうか、シオンが口を開きかけたそのとき、後方から先生のものであろうすっとんきょうな声が響く。
声を上げながらぱたぱたと走り寄ってきた先生は、腰を屈めてエデンを見据え、さも名案とばかりに持ち掛ける。
「どうでしょう? ご一緒に夕食はいかがですか?」
「ゆ、夕食……?」
「ええ! エデン君さえよろしければぜひ食べていってください! シオンも打ち解けている様子ですし、この子が初対面の方にこんなに心を許すなんてめったにないことなんですよ! 親としてこんなにうれしいことはありません! ほらシオン! 貴方からもお願いしてみてはいかが——」
「せ、先生っ……!!」
声を上げて勢いよく立ち上がった彼女は、興が乗って話し続ける先生に向かって噛み付かんばかりの剣幕で食って掛かる。
「勝手なことを言わないでください!! どこの誰がそう簡単に打ち解けなんてするものですかっ! こ、心だって許した覚えもありません! そんな言われ方、心外です!! それに夕食だって作るのは私じゃないですか!! 先生が作るわけじゃないでしょう!?」
「そ、それはそうですが——」
「三人分の食材の用意もありませんし、誰かに振る舞うための食事を作るのなら事前の心づもりも必要です! 理解したのであれば思い付きの発言は慎んでくださいっ!!」
激しく憤るシオンと、勢いにのまれて及び腰になる先生。
両掌を差し伸ばしたエデンは二人の間に無理やり割って入る。
「シオン、いいんだ!! じ、自分はいいから! それに——その、今日はもう帰らないと……!!」
とっさに口を突いて出るが、決してその場しのぎの間に合わせなどではない。
家を出たのは昼過ぎだったが、見上げればすでに日は落ち始めている。
もしも先生の勧めに応じて夕食をともにすれば、ますます帰る時間が遅れてしまうだろう。
待ってくれているであろうラヘルやローカに心配を掛けたくもなければ、再び言い付けを反故にする形で大河を渡ったことをラバンに知られるわけにもいかない。
約束を破るに至った経緯を伝えるのであれば、それは腕のいい医者の情報や、それにつながる手掛かりを得られたときに改めてだ。
「……そうですか。それは残念です。シオンもこんなに喜んでいるのに——」
「だ、だから喜んでなんていませんっ!! 何を根拠にそんな戯言を——」
「せ、先生!! シオンも!!」
放っておけばいつまでも続きそうなやり取りを遮るように声を上げる。
「そ、そのっ……!! 明日! 明日、また来てもいいかな……? ふ、二人に会わせたい子がいるんだ」
「明日——ええ! もちろん構いません、構いませんとも! しかし——エデン君がそう言うからにはその子も——」
意味ありげな口ぶりから事情を察したのか、先生の向けるまなざしは真剣だ。
無言のうなずきを送ると、先生とシオンは驚きの表情を浮かべて互いの顔を見合わせた。
「明日はその子と——ローカと一緒に来るよ。……それから最後まで手伝えなくてごめん」
幾冊か残った手つかずの書物を見下ろし、謝罪の言葉を口にする。
「いいえ、助かりました。残りは私がやりますのでどうぞお気遣いなく」
「……うん。それじゃあまた明日。いろいろありがとう」
二人に別れを告げ、踵を返してその場を後にする。
ちらと振り返って見れば再び言い合いを始めている様子だったが、立ち止まることなく家路を急ぐ。
往路にて案内された道はとてもではないがたどれる気がしなかったため、まずは大河に出ることを目指してひた走る。
岸辺に突き当たったのちは流れをさかのぼる形で河沿いを進めば、正市民区に続く橋に行き着くことができるだろう。
休みなく走り続けるのは懐に大金を忍ばせたまま日の暮れ掛ける準市民区にとどまることに対する恐れからでもあったが、それ以上に今日起きたことを早くローカに教えてあげたい気持ちが強かったからだ。
自分たちとよく似た姿形の持ち主の存在を知ったとき、いったい彼女はどんな顔をするだろう。
寡黙なローカと雄弁なシオン。
性格は正反対の二人だが、案外良い友人になれるのではないだろうか。
そんなとりとめのないことを考えながら、エデンは大河に沿う形で走り続けた。




