第百四十九話 喃 喃 (なんなん)
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シオンの指示を仰ぎながら、水に浸かってしまった十数冊の書物を玄関から外へと運び出す。
濡れた書物を次々と開いては、乾いた布を使って染み込んだ水を吸い取っていく。
あらかた水を吸い終えた書物は木板で挟み込み、重し代わりに手頃な大きさの石を載せる。
そうして日の光が直接当たらない場所で風にさらすことにより、完全に元通りとはいえないが、幾分か復元が見込めるのだとシオンは語った。
「慣れてるんだね」
「よくあることですから」
作業の傍ら感心したように言うと、隣り合って腰を下ろしたシオンは事もなげに答える。
「飲み物をこぼしたり、本を持ったまま水浴びをしたり、雨が降り出したことに気付かず屋外で読み続けていたり——そのたびにこうして乾かすのは私の仕事なんです。毎回注意しているにもかかわらず、いつまで経っても改めてくれないのでほとほと閉口しています」
不服そうに眉間に皺を寄せて言ったのち、彼女は書物を拭う手を止めて呟いた。
「……今回に限っては私の責任ですが」
つい先ほどまで強気な態度を崩さなかった彼女の殊勝な表情が妙におかしく、エデンは思わず含み笑いを漏らしてしまう。
「——ふふ」
「何がおかしいのですか?」
「ううん——」
笑みをこぼすエデンに対し、シオンは身を乗り出すようにして言い返す。
身を後方にそらして距離を取ったエデンは、手にした書物に視線を落としながら言った。
「——なんかね、シオンのほうが先生の保護者って感じがする」
「ほ、保護者……!?」
室内での二人のやり取りを見たときから感じていた偽らざる本音だった。
だがそれは彼女にとってはよほど不本意な所感だったのか、はじかれたように顔を背けてしまう。
「し、知りませんっ……!!」
「ご、ごめん! その、悪い意味じゃなくて——」
「別に怒っていませんし、気にもしていません! 悪いも良いもないです! だから謝らなくていいです!」
謝罪の文句を遮り顔を背けたシオンは、対話を断ち切るかのように一方的に言い放った。
「う、うん……」
剣幕に押されたエデンはいったん彼女から視線を外し、書物を乾かす作業に戻る。
シオンもまたいかにもわざとらしいしぐさをもって背を向け、休めていた手を動かし始めた。
会話を途切れさせてしまったことも、軽はずみな発言から不興を買ってしまったことも事実だが、間の持てない居心地の悪さにはどうにも耐え切れない。
しばらくは押し黙って作業を続けていたエデンだったが、幾度目かの横目ののち、恐々ながら再び口を開いた。
「そ、その……仲、いいんだなって思ったんだ」
一瞬手を止めるシオンだったが、すぐに何事もなかったかのように作業を再開する。
発言に対して否定的な様子を見せるでもなく、あえて横槍を入れるようなこともしない。
それを許可と受け止め、エデンは小さく安堵の吐息を漏らして話を続行した。
「先生から聞いたんだ。血はつながってないけど親子みたいな……親子なんだって。親子とか家族って、見た目とか種とか……そういうのが違ってもなれるのかな……? 自分にはわからなくて——」
「突き詰めれば自分以外は他人——親であろうと子であろうと、異なる思考を持った他人です。生命誕生の神聖さという不確かな価値に依拠することなく判断すべきなんです。慣例的に用いられてはいますが、血を親子関係の隠喩として捉えることも無意味な行為です。血液は人の体内を巡る体液の一つでしかありません」
「う——うん……」
その言わんとするところを理解せんと努めるが、せきを切ったように語られるシオンの言葉に思考が追い付かない。
「人が貴方の仰る親子愛や家族愛という観念を生得的に備えているとするならば、それは自己保存のための本能です。片や生まれ落ちた脆弱な命が縁として身を寄せ、片や養育の対価として複製たる子に理想や欲求を投影する権利を得る。親子とは生存と繁殖のための互恵的な契約、そう言い換えても過言ではないでしょう。親子や家族といった共同体が利害の一致によって成り立つ以上、仕組み自体が利己的なものであることは明白です。しかし時に人は自己の損失を顧みず他者の利益を優先します。この不合理な行動は親から子に向けられる慈愛や、子が親に抱く孝心のみならず、情愛や友愛、信頼や結束といった形でも表れます。共同者のために不利益を被ることのできる個体の属する集団は、他より持続繁栄する確率が高いという例も存在しています。自己保存の真逆に位置する自己犠牲とも呼べる利他的な行為が、結果として種や集団の存続につながっているとも考えられるのです」
「そ、それはつまり——どういう……」
困惑気味に尋ねるエデンに対し、作業の手を止めたシオンは早口でまくし立てるように続ける。
「端的に言えば、この愛という不確かな想念は親や子といった特定の属性や関係性に対して向けられるものではないということです。有限である人が自らが到達し得ない未来との関わりを求めるとき、子を持つことは最も手軽な手段です。しかし自己の半身たる子を成そうとすれば、人は自らの理解の埒外にある他者と交わる必要があります。これを大いなる矛盾と言わずしてなんと言いましょう。ですが自己とかけ離れた相手、欠落した部分を補い合える相手を伴侶として欲するのも人の本能です。まこと幸いなことに、私たちはその曖昧にして非理性的な感情を相手に伝えるすべを持ち合わせています。他者と親和を図りたいと願うなら、言葉を交わすより他に手立てはありません。相慈しむ間柄を築くことができるのか、どうしても相容れないと悟るのか。愛も——その行き過ぎた相である憎も、人と人との関わりは全て言葉を尽くした先にあるのです」
「え、ええと……」
左右の手で頭を抱え、言葉を失ったように呟くエデンを見返し、シオンはわずかに語調と表情を緩めて言った。
「人の愛は貴方が思うよりも懐が深いもの、と——そう言っています」
「……う、うん。それはわかるかも。じゃあ、シオンは先生に対して親和——親しみを覚えてるっていうふうに受け止めていいのかな……?」
「そう解釈していただいても構いません」
手にしていた書物を閉じ、何気ない口調で答える。
拭い終えた書物を脇に積み上げ、手慣れた手つきで木板と石を載せる。
そしてまた新たな一冊を手に取った彼女は、水の滴るそれを頭上高く掲げながら言った。
「先生は教えてくれました。人が真に理解し合うためには百万言を費やす必要があるのだと。言葉は人が人であるための証なのだから、と。それでも理解し合えないのであれば——」
「——であれば……?」
求めるような視線を受け、シオンはいかにもおかしそうに続ける。
「お互いがなぜ理解し合えないのかを、納得できるまで話し合わなくてはならないのだそうです。たとえ千万言を尽くしても、です。簡単に言いますよね。それができたのなら人の歴史も絶えず波穏やかな凪の中にあったでしょうに。そんな子供じみた理想がかなうのであれば、人が平和への祈りを込めて著した書の数々も世に生まれ落ちることもなかったかもしれません」
言って小さく含み笑いを漏らし、手にした書物の表紙を掌で拭う。
「先生の残念がる顔が目に浮かびます」
「……やっぱり仲いいんだね」
感慨を込めて言うエデンを横目に一瞥すると、唇を尖らせたシオンはすねたような口ぶりで答える。
「よくなければ一緒に暮らしてなどいられません。出会って数年、いったいどれだけの言葉を交わしてきたでしょう。侃々諤々《かんかんがくがく》とでも言うべきでしょうか、議論を戦わせたことも一度や二度ではありません。言った言わないの稚拙な水掛け論で終わったことも幾度となくありました。それでも、交わさないほうがよかったと思える言葉はただのひと言もありません。もしも……私と先生が血や種という垣根を越えて親子と呼べる関係を結ぶことができているのだとしたなら——貴方にそう見えたのならば——それは言葉に乗せて交わし合った思いの総量がそうさせているのでしょうね」
シオンの口から語られた内容はいささか難解ではあったが、確かにその通りだと受け止められる部分も数多く存在する。
いったん胸の内に納め、自らの置かれた境遇と照らし合わせる。
閉じていた目をゆっくりと開くと、エデンは書物を手にしたまま上体をひねって彼女に向き直った。
「うん、少しだけわかった気がする。——ありがとう、いろいろ話してくれて」
「はい。お役に立てたのなら幸いです」
新たな書物を開き、布を当て始める少女の横顔を見詰めていてふと気付いたのは、大切なことを伝えられていないという事実だ。
「……そ、そうだ! まだ言ってなかったよね、自分の——」
初対面の相手に対してすること。
一人一人に付される名前という呼称を伝え合う儀式——挨拶だ。
先生に対して名乗りはしていたが、シオンにはいまだ名を伝えられていない。
こうして会話を交わしていながら、互いに正しく名乗り合うことのないままであったことに思い至る。
「——エデンさん、ですね」
荒れ野に目覚めた際は手元から失われてしまっていたが、幸いにも今は名乗るべき名を持ち合わせている。
確かめるように復唱すると、少女は自らも改めて名を名乗った。
「シオンです。もうご存知とは思いますが」




