第百四十八話 遭 逢 (そうほう)
「シオン!! 拭くもの、何か拭くものを持ってきてください!! これは一大事ですよ!!」
「——は、はい! 直ちに……!」
シオンと呼ばれた少女ははじかれたように先生を見やり、急ぎ足で奥へと取って返す。
去っていく後ろ姿を見送ったのち、先生は自らの頭をさすりつつ遠慮がちに口を開いた。
「これはさて、お騒がせしてしまって申し訳ない限りです」
「う、うん……」
少女が拭くものを持ってくるまでの間、エデンは先生と二人で書物に対する取りあえずの処置を行った。
床に積み上げられていた書物の中から濡れてしまったものを探し出し、ひと所に集めていく。
こぼれた水の大半は石造りの床の目地に流れ込んだため、被害はそれほど広範囲に及んではいなかった。
だが、最下部の書物については完全に水浸しになってしまっている。
濡れてしまったそれらを選別する中で、不意に背中に先生の声を聞いた。
「驚いたでしょう」
「あ……う、うん——」
書物を抱えたまま振り向くが、後ろを向けたままの先生は衣服の袖をもって濡れた表紙を拭っている。
「——すごく……驚いた」
「さもありなん、ですね」
背を見詰めて答えると、先生は納得したように深くうなずいた。
「貴方が驚いたように、シオンが驚くのも無理もない話です。あの子にとって貴方は、初めて出会った同じ種の同胞なのですから」
言って先生は部屋の奥に視線を投げ、水気を拭い終えた書物を机の上に置いた。
「……うん、そう——だよね」
ローカと出会った際に覚えた感動を思い返し、深く同意するように首肯する。
目覚めてそれほど経っていない自身ですら、同種との邂逅には大きな衝撃を受けたものだ。
もしも彼女が他種の間で短くない時間を過ごしていたとしたなら、驚きは途方もないものであったに違いない。
「きちんと紹介するつもりだったのですが、言い出す機会を逃してしまった私の落ち度です。事後報告になってしまって恐縮ですが——」
そこまで言うと、先生は弧を描く瞳孔を有するつぶらな両眼でエデンを見据える。
どこか愛嬌のある面立ちの先生だが、優しげなまなざしの奥には確かな思慮深さが宿っている。
「——あの子はシオンといって、私の娘です」
「む、娘……!? 娘って……でも——」
突然飛び出した驚くべき事実に、思わず叫びにも似た声を上げる。
とてもではないが、先生と彼女が親子であるように見えない。
外見の共通点といえば、そろいの長衣、そして顔部に金属の円環を身に着けているところぐらいで、身体的に似通っている部分はまったくない。
エデンの抱く疑問を見て取ったのだろう、先生はかすかに笑みを浮かべてみせた。
「もちろん実の子ではありません。教え子であり娘……娘のようなもの——といったところでしょうか」
先生がしみじみと感じ入るように呟いた直後、奥側の戸口から数枚の布を抱えた当の少女が姿を現す。
手を止めて言葉を交わしていた二人を交互に一瞥したのち、彼女は鋭い視線を先生に向かって投げ掛けた。
「先生。口を動かす暇があったら手を動かしてください」
「は、はい! わかりましたよ! ちゃんとやります、やりますとも!」
少女は先生の手に押し付けるように布を握らせる。
とぼとぼと作業に戻っていく背中を見送ったのち、次いで彼女はエデンの間近までつかつかと歩み寄る。
「貴方もです」
「う、うん」
眼前に突き出された布に手を伸ばしながら、見上げる少女の視線を正面から受け止める。
先生とそろいの透明の板越しにのぞく濃紫色の瞳は、それもまた先生とよく似た——深沈とした知性の輝きを宿しているように見えた。
それからしばしの間、三人は無言で濡れてしまった書物の片付けを続けた。
黙って作業を行う中でも、エデンは己やローカとよく似た姿形を有するシオンのことが気になって仕方がなかった。
手を止めて彼女の様子をこっそりとうかがうが、同じく自身に視線を注いでいたシオンと自然と目が合う形になる。
「何を見ているんですか」
「そ、それを言ったら君も——」
叱り付けるような厳しい口調で言う彼女になんとか異を唱えようと試みるが、鋭い目つきでにらまれて思わず口をつぐむ。
「——な……なんでもないよ」
慌てて視線をそらすと、動揺を押し隠すように拭いたか拭いていないかの定かではない書物の表紙を適当に拭ってみせた。
再び聞こえる叱声に振り返って見たのは、作業を中断して書物を読みふける先生と、物言いを付けるシオンの姿だった。
書物の表紙を上の空で拭いながら、エデンは今一度彼女の姿形を横目で盗み見るように熟視する。
先生とよく似た仕立ての丈長の衣服からのぞく手足からは被毛が生えておらず、かといって先生のような滑らかな灰褐色の表皮とも異なっている。
身を覆うのは、自身やローカと同じ薄皮のような皮膚だ。
異なるのはその肌色が、桂皮や丁子を思わせる褐色だということぐらいだ。
頭部から伸びるやや癖のある毛は夜の深い闇を映したような黒色で、長く量の多いそれを幾つかの房に分ける形で結わえていた。
「もう結構です。邪魔なので先生はあちらで本でも読んでいてください。残りは私がやりますから」
いら立ちを多分に含んだシオンの声を聞き、はたと我を取り戻す。
まじまじと見詰めていたことを悟られないよう、とっさに視線を手元の書物に逃がした。
「おお、怖い怖い……! わかりましたよ、おとなしくしていますよ。していますとも」
数冊の書物を手にし、先生はしおしおと部屋の奥へと歩を進める。
「元はと言えば私の責任ですから」
去っていく後ろ姿に向かってシオンが呟くと、振り返った先生は穏やかな表情で左右にかぶりを振る。
次いでエデンに向かって小さく微笑みを浮かべてみせたのち、手にした書物を開き、足元に積み上げられた山を崩しながら部屋の奥へと消えていった。
「シ、シオン——でいいのかな? ええと……」
じっと先生を見送る彼女の背に、恐る恐るながら声を掛ける。
「そ、その、自分も手伝うよ……!」
「当然です。貴方が驚かせるから悪いんです。そんな——」
振り向いたシオンは申し出を遮るように言って足早に詰め寄ってくる。
頭の天辺から足の爪先までくまなく観察するように視線を走らせた彼女は、エデンの鼻先へと指先を突き付けた。
「——私と似たような姿をして現れるから」
「そ、そんなこと言われても……」
不条理極まりない言い分にたじろぐ部分もあったが、エデンもまたどこかで彼女の思いを理解していた。
世界にたった一人だと思っていた己に、鋭い牙も爪も、被毛も羽毛も鱗甲も持たない仲間がいることを知ったときの衝撃。
彼女よりも先に、自らの身をもってそれを経験していたからだ。




