第百四十七話 書 痴 (しょち) Ⅱ
「取りあえずこちらへどうぞ、お話は中で聞くとしましょう!」
言うや先生は開け放たれた扉と散らかった書物をそのままに、そそくさと部屋の中に戻ってしまう。
「こ、これ……このままでいいの——?」
「後で片付ければいいでしょう」
背中に向かって尋ねると、先生は振り返ることもなくさらりと言い放った。
エデンもまた積み上げられた書物の山をまたぎ、今にも倒れそうな書物の壁の隙間をかいくぐるようにして先生の後に続く。
書斎だろうか、玄関以上に雑然とした部屋に足を踏み入れた先生は、書物の合間にうずもれるように置かれた文机に向かう形で腰を下ろした。
「ささ、掛けてください」
足の踏み場にも難儀する部屋の中で所在なく立ち尽くすエデンに対し、先生は手を差し伸ばしてみせる。
示された先にあるのは当然のごとく書物の山で、まさかその上に腰掛けろとでもいうのだろうかとエデンは我が目を疑う。
救いを求めるような視線を投げ掛けても、先生は笑顔を崩すことなく「どうぞどうぞ」と促すように言う。
仕方なく自身の膝ほどの高さまで積み上げられた書物を数冊どかしてみたところで姿を現したのは、木製の座面を持った小さな丸椅子だった。
丸椅子に腰掛けて文机の方向に向き直ったエデンは、先生が机の上に置かれていた紙か何かを折り畳んで引き出しにしまうところを目に留める。
ずいぶんと古びて色あせたそれは、小さな子供の描いた絵か何かのように見えた。
「さて——」
両手をもって引き出しを押し閉めると、先生は気を取り直すかのように口を開く。
「——それではご用件をお聞きしましょう。わざわざご足労いただいたからには、私も相応の誠意をもってお応えしなければなりません」
先生はエデンに向かって手を差し出し、訪問の目的を語るように促した。
「うん、ありがとう。それじゃあ、最初に聞きたいのは——」
身を乗り出し、端的に質問の言葉を口にする。
「——先生は医者?」
「いいえ、私は医者ではありません」
先生もまた、もったいぶることなく即答する。
落胆の度合いは小さくなかったが、それでも期待感を抱かせるような言い方よりもよほど有難かった。
玄関から書斎に至るまで隙間なく積み上げられた書物から、彼が医者でないことはうすうす感じていたからだ。
「じゃあ、学者……とか?」
「いえいえ、そんな大層な身分ではありませんよ」
周囲を見回しながら尋ねるエデンに対し、先生は謙遜気味に左右に頭を振ってみせる。
「そうですね、私という個を名状する言葉があるとすれば……そう、一介の学究の徒——といったところでしょうか」
尖った口の根元を挟み込む形で固定された円環を、扁平な手で押し上げながら先生は言う。
学者と学究の徒、両者にどんな差異があるのかはわからない。
だがたとえ医者でなくとも、これだけの蔵書を有する人物であれば求める情報を持っている可能性も否めない。
「先生に聞きたいことがあって……」
「先生」
エデンが本題を切り出そうとしたそのとき、玄関とは反対側に位置する戸口から一人の人物が姿を現す。
「——先ほどから何を騒いでいるんですか。そんな暇があるなら、水もご自分で浴びてください。子供じゃないんですから、これ以上私の手を煩わせるような——」
説教じみた口調で言いながら現れたその人物は、エデンの姿を見て取るや、驚愕の表情を浮かべて凍り付いてしまう。
次の瞬間、音を立てて足元に落下したのは、左右の手に握られていた木製の手桶と柄杓だった。
落差は小さいものの、水で満たされていた手桶は床を打つと同時に激しい水しぶきを上げる。
吹き上がった飛沫は周囲の書物を濡らし、横倒しになった手桶からこぼれ出た水は、はうように床へ広がっていった。
水がじわじわと足元を濡らし続ける中にあっても、エデンは部屋の奥から現れた人物に目を凝らさずにはいられなかった。
相手も——少女も同じなのか、その場に立ちすくむかのように固まってしまっている。
身動き一つせずに見合う二人を硬直から解き放ったのは、先生の口から放たれた気ぜわしいひと言だった。




