第百四十五話 縁 起 (えんぎ) Ⅲ
橋の向こう側に住むという、先生。
いったいどのような人物なのかは、実際に訪ねてみないことには何もわからない。
医者か学者か、あるいはそれ以外か。
たとえ探し求める医者でなかったとしても、マフタからもたらされたその知らせは、なんの手掛かりも持たないエデンにとって間違いなく朗報といえた。
単独で河の向こう側に赴くことに対し、恐れを感じていないわけではない。
だが、もしもローカと一緒だったなら、この状況に臨んでどんな選択を取っていただろうかと考えてみる。
これ以上彼女を危険な目に遭わせるわけにはいかないと、橋を渡ることを見送っていたかもしれない。
かといって、厚意から同行を申し出てくれたマフタとホカホカにこれ以上甘えてしまおうという気分にはどうしてもなれなかった。
力になってくれると語る二人の言葉にうそがないのはわかっていたし、世故に長けた彼らが一緒であればどれほど心強かったろうとも思う。
だが、騒ぎに巻き込んでしまう可能性を鑑みれば、とてもではないが付いてきてくれなどとは頼めない。
金の頭飾りを露店の店主の付け値で売ってしまいそうになったところを止めてくれ、相場以上の価格で買い取ってくれ、探し求めている相手につながるかもしれない情報を教えてくれた。
ラヘルが感嘆するほどの品質の糸を譲ってもらえたことも含めれば、ホカホカの蝋石を取り戻したことに対する恩は十分過ぎるほどに返してもらっている。
それに何より、彼の宝物の行方を捜し出したのはローカだ。
あの場に出くわしたのが己一人だったなら、何もできずじまいだったことだろう。
世事に疎く、特別な力を持たない今の自身にできるのは足を使うことだけだ。
家で待つローカたちに良い知らせを持って帰るため、まずは一人で動くことから始めてみる。
それで駄目だったときは、もう一度マフタたちに相談してみようと思う。
そんな考えを胸に、エデンは一人大河に架かる橋へと向かった。
「おい、そこの! ——止まれ!」
橋へと足を踏み出そうとした瞬間、どこかから呼び止めの声を聞く。
足を止めて振り返ってみれば、声の主は木製の棒を携えた橋番らしき男だった。
検分するような目つきでエデンの身なりを眺めると、彼はいぶかしげな口ぶりで問いを発した。
「昨日も見かけたが、旅の者か?」
「……う、うん」
少しの逡巡を置いて、エデンは肯定の意を示す。
今現在は自由市場の正市民区でラバンの世話になっている立場だが、ここまで旅してきたのは紛れもない事実だ。
うそを言っていることにはならないはずだ。
「橋の向こう側に渡るということが、どういうことかわかっているんだな?」
「わ、わかってる——と思う」
大河の両岸に位置する正市民区と準市民区、両区の違いは昨日マフタから聞いたばかりだ。
動揺を覚えつつ答えるエデンに対し、橋番は定位置である橋のたもとへと戻りつつ、いかにも億劫そうに告げた。
「あまり面倒を起こしてくれるなよ」
「……うん」
正市民区側から橋の中ほどまで進んだところで、対岸の風景が飛び込んでくる。
家並みといえば聞こえはいいが、隙間なく軒を連ねているのは今にも崩れ落ちそうな、とても家屋とは呼べない建物の数々だ。
だが、それらが住む者のいない廃屋などではなく、人の暮らす住居であることは知っている。
河辺には手把や目濾し笊などを手にした人々の姿が多くある。
流れ着いたごみを拾い上げ、まだ使えそうなものを選別している様子が見て取れた。
目に映る橋の向こう側——準市民区の景色と、振り返って見える活気に満ちた正市民区の景色を改めて見比べる。
大河を挟んで隣り合った二つの区画が、同じ自由市場の名でひと絡げにされていることが、とてもではないが信じられなかった。
ちょうど河を渡りきったところで、エデンは自らの早合点に気付く。
先生と呼ばれる人物が準市民区に住んでいるという情報だけを聞き、勢いよく飛び出してしまったため、肝心の居所を聞きそびれてしまっている。
以前、そうと知らずに訪れた際は規模を認識する前に離れてしまったが、こうして歩いてみれば準市民区は想像以上に広い。
一切の手掛かりもなく居所を探ることは容易ではないだろうし、よそ者がさまよい歩いていてはまた要らぬ騒ぎに巻き込まれかねない。
辺りを少し歩いてみてそこに思い至ったエデンは、それもまた正しい手段であるか否かはわからないまま、近くの住人に声を掛けてみることにした。
「その……ごめん、ちょっといいかな」
先生と呼ばれる人物の居所を尋ねて歩く。
住人たちの多くは無反応を決め込み、先生の名を出すだけで露骨に嫌悪感をあらわにする者もいた。
なんの手掛かりも得られないまま歩き回るうち、周囲の人々が自身に対してまとわりつくような視線を向けているのを感じ始める。
懐に秘めた十五枚の金貨すら見透かされているような感覚に陥り、気付けば衣服の上から衣嚢を強く押さえ込んでいた。
日を改めて出直すことを考え始めたそのとき、目の前に一人の子供が飛び出してくる。
「き、君は——」
丸く大きな耳と細く尖った鼻先を持った獣人らしき少女、以前路地裏で自身とローカを囲んだ子供たちの中にその姿があった気がする。
子供たちの中でもひときわ小さな彼女が、腰に差した剣に手を伸ばしていた少女であることを不意に思い出す。
鞘に触れて剣を遠ざけるエデンだったが、獣人の少女はそれに興味を示すそぶりもなく、ただ無言で上向きの掌を差し出した。
「——な、何かな……?」
若干のおびえを抱きつつ尋ねると、彼女は催促するかのように執拗に手を突き出してくる。
少し思考を巡らせたところで、エデンはその意図に気付く。
「あ……」
懐に収めた財布代わりの巾着袋から、金貨を避けるようにして銅貨を一枚だけ取り出す。
エデンが差し出すより早く、ひったくるようにして銅貨を奪い取ると、獣人の少女は背を向けて走り出した。




