第百四十話 大 事 (だいじ) Ⅱ
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翌朝、天窓から差し込む日の光を浴びて目覚めたエデンは、取るものも取りあえず、ラヘルの様子を見に梯子を伝い下りる。
屋根裏部屋に姿がなかったことから、ローカも彼女のところに向かってるであろうことは察しが付いた。
ラヘルはすでに目を覚ましており、寝室に駆け込んでくるエデンの姿を認めるや、開口一番「昨日はごめんなさい」と謝罪の言葉を口にした。
「謝らないでほしいよ」
左右に首を振ってそう応じ、彼女と寝台の脇の椅子に腰掛けるローカに向かって「おはよう」と声を掛ける。
ラヘルに身体の具合について尋ねたのちは、ラバンが居室として使用している納戸へと向かった。
納戸の中からは昨日と同様に、がさごそと何やら引っかき回すような音が聞こえてくる。
戸を開けて納戸の内をのぞき込んだエデンは、ラバンが木箱の中から瓶か何かを取り上げるところを目に留める。
ラバンの手に収まった硝子製の小瓶の中身、それは空を思わせる鮮やかな紺碧の粉末だった。
「おはよう、ラバン」
「ああ」
短く応じるとともに、ラバン手にした小瓶をエデンの視線から遠ざけるように背に回す。
「それ——」
小瓶の中身について尋ねようとするエデンだったが、ラバンは問いを遮る形で質問を投げ掛けた。
「昨夜は眠れたか」
「うん、眠れたよ」
「そうか」
答えるエデンに短く返すと、周囲を見回しながら誰に言うでもなくラバンは呟く。
「見ての通りだ。片付けをしていてな」
「片付け……」
辺りにはさまざまな品々が散乱しており、とてもではないが整理や整頓をしていたとは思えないありさまだ。
なんなら、昨日よりも散らかっているようにさえ見える。
「……これ」
「ああ」
腰を落とし、床に転がっていた道具の一つを拾い上げる。
ラバンは背に隠していた小瓶をそっと懐に忍ばせると、エデンの差し出した道具を受け取った。
「これは、筆だ」
「……うん。——筆」
拾い上げたそれが、その名で呼ばれる道具であることはもちろん承知していた。
筆だけではない。
辺りに散乱している道具類が、絵を描くための画具や画材であることもおおよそ見当が付いていた。
応じるエデンの声音と表情から釈然としないものを感じ取ったのだろう、ラバンは珍しく居心地悪そうな表情を浮かべる。
「昔のことだ。手慰み程度に絵をたしなんでいた時期があってな。なに、部屋が狭くなってきたから片付けをしようと思い立っただけだ」
次いでラバンは手にした筆でエデンの足元を示し、注意を促すように言った。
「刃物や尖った道具も転がっているから危険だ。用がなければ後にしてくれ」
「……う、うん、わかった。ラバン、今日の仕事は——」
「今日は休みにした。野暮用ができてな。片付けを済ませたら少し出てくる。お前も今日のところは休むといい」
素っ気なく言い放つと、エデンに背を向けたラバンは辺りに散らかった道具類を雑な手つきで木箱に収め始めた。
「——うん、ありがとう。そうする」
いささか拍子抜けしたような気持ちを感じつつも、エデンは礼を言って納戸を後にした。
その日、ラヘルに代わって朝食の支度を務めたのはエデンだった。
ラバンは宣言通り出掛けていったため、彼の分の食事は小分けにして残しておく。
三人で食事をし、後片付けを済ませたのちは、ラヘルの元にローカを残して家を出た。
可能であれば彼女も一緒であってほしかったが、昨日の今日でラヘルを一人にするわけにはいかない。
一人で行うには不安の残る大仕事だが、それでもと意を決する。
大通りに向かう途中、ローカから預かっていた金の頭飾りを懐から取り出してみる。
いつかの糸束と同じ末路をたどらせぬよう、握る手ごと頭飾りを懐に収めて歩き出した。
足を向けたのは以前も訪れたことのある、装飾品を扱う市場の一画だった。
貴金属や宝石類、それらを加工して作った装身具など、扱われているのは高額な品ばかりだ。
同じ市場と軽く考えていたが、やはり食材や日用品を買うようにはいかない。
どの店を選べばいいのか、誰にどう声を掛けていいのかもわからない。
買い物をするでも商品を見るでもなく、行きつ戻りつしているところを怪しまれたのだろう、露店の店主たちから向けられる視線が徐々にいぶかしみを帯びてくるのがひしひしと感じられる。
大事な品を紛失しないようにと、懐に手を忍ばせたままだったことも災いしたのかもしれない。
何やらささやき交わした店主たちが守衛らしき人物を連れてきたところで、危機を察したエデンは一目散にその場から逃げ去った。
区画の行き止まり近くまで走ると、露店の陰に隠れ、誰も追ってきていないことを確認する。
肩を落として嘆息するエデンだったが、気付けば見覚えのある場所にたどり着いていた。
「あ……ここって——」
商品の並ぶ陳列台の奥には通りに背を向けて座る老齢の店主がおり、足元には見切り品の詰まった木箱が無造作に置かれている。
そこはラヘルから頼まれ、ローカの首飾りを買おうとした際に訪れた店の前だった。




