第百三十九話 大 事 (だいじ) Ⅰ
ラヘルの苦しみを取り去るため、ラバンが散々手を尽くしたであろうことは想像に難くない。
何も知らない立場である自身があれこれ考えたところで、事態がどうにかなるものかと思う部分もあった。
だが、夜の路上で身を寄せ合っていたところを見つけてくれたラバンのためにも、深い慈しみをもって迎え入れてくれたラヘルのためにも、今何ができるかを考えずにはいられなかった。
「たとえば、もっと腕のいい医者を探す——とか……」
何度も医者に見せた、とラバンは語った。
何人の医者を訪ねたのかは聞いていないが、もし十人であるなら十一人目を、百人であれば百一人目の医者を探せばいい。
自由市場の外を探せば、どこかにラヘルに治療を施してくれる——呪いを解いてくれる医者がいるかもしれない。
「それには……そうだ、まずは——お金だ」
何かを得るためには相応の対価を支払わなければならない。
世に生きる以上、それが至極当然の道理であることは身に染みて理解しているつもりだ。
医術という特殊な職能であれば、なおさら支払う対価が高額になることもだ。
そこへきて腕の立つ名医を探そうというのだから、まとまった量の先立つものが必要になるだろう。
当初に立てた目的のために使うことはなかったが、働いて蓄えた日当に鉱山の皆とアシュヴァルが上乗せしてくれた少なくない額のそれは、異種討伐の対価として支払っており、今はもう手元にない。
旅立ちに当たって、餞別にとラジャンから幾らかの金額を託してもらってはいたが、おそらくそれでは腕の立つ医者を探すという目的には足りないだろう。
「——何か、何か。お金になりそうなもの……」
うなるように呟いて自らの身を見下ろし、腰帯に差した剣に目を留める。
「……だ、駄目駄目、これは駄目!」
言ったそばから、自ら否定してみせる。
それが身に余る立派な品であることは十分過ぎるほどにわかっていた。
武具としても工芸品としても高い価値を有するであろう剣は、もしも売りに出したとしたなら、相当の額で買い取ってもらえることだろう。
だが、ラジャンから預かった剣はただの武具などではない。
今は時折野菜や果物を切るために使い、腰回りを飾る装飾品の域を出ないそれだが、ローカを守ると決めた自身に彼が託してくれた思いの形だ。
飽きたから——とは彼の弁だが、それが剣を持ち出した盗人に対して与えてくれた赦免だったのだろうと今では思える。
これを手放すとしたら、それはどんなときだろう。
もしもラヘルを助けるために売りに出したと知ったら、ラジャンはどう思うだろう。
人の思いを完全に推し量ることなどできようもないが、下した選択を笑い飛ばしてくれるのではないかと考えるのは身勝手だろうか。
「これを売って、お金に——」
呟きながら剣の柄を握り締める。
好都合にも、市場には武具を扱う区画も存在している。
売る売らないは別にし、取りあえず相場を探るために市場を訪ねてみるのはどうだろうか。
「——ね、ローカ、明日なんだけど……」
自らの考えを伝えるべく、傍らを歩く少女を見下ろす。
「……そ、それ——」
足を止めたのは、彼女が頭上に見覚えのある金色を乗せていたからだ。
ローカの頭上にあったのは、彼女が彪人の里で身に着けていた頭飾りだった。
ラジャンの傍らに侍る女たちのものと同じ、きらめく石を配した黄金の装身具だ。
エデンの手を握ったまま、ローカは片手で無造作に頭飾りを取り外す。
今までどこにしまい込んでいたのかわからないそれを、彼女はエデンに向かって差し出した。
「何か、あったらって」
差し出された金の飾りを受け取ることもできず、ただぼうぜんと立ち尽くすエデンを見上げて彼女は言う。
「何かあったら——ラジャンがそう言って持たせてくれたの……?」
尋ねるエデンを見上げて小さく首肯すると、ローカは手にした頭飾りをぐいぐいと押し付けてくる。
「で、でも……」
「何か」
思いあぐねるエデンを見上げ、ローカは断然として言い切る。
見上げる視線に宿る力強い光を目にし、ローカが今この瞬間こそが何かだと主張しているのだと理解する。
さまよい着いた自分たち二人を受け入れてくれ、子とまで呼んでくれた恩人が、深刻な状況に置かれていることを知った。
それを何かと言わずしてどんな場合を何かと言えるのかと、ローカはそう語っているのだ。
強引に押し付けられた掌の中のそれに目を落とし、再び少女に視線を戻す。
「——うん、使わせてもらおう。ラヘルを助けるために」
掌の上の頭飾りを見下ろしながら言うエデンを見上げ、ローカもまた深々とうなずいた。
◇
小声で帰宅を告げ、二人並んでラヘルの寝室をのぞく。
そこには先ほどまでと同様に眠る彼女と、椅子に座ったまま寝台にもたれ掛かるようにして寝息を立てるラバンの姿があった。
ラヘルを連れての久しぶりの遠出で、さしものラバンも気を張り通しだったのだろう。
思い返してみれば、彼の寝姿を見るのはこれが初めてだ。
寝台に移動させてあげたいのはやまやまだったが、二人力を合わせてもラバンを運ぶのは難しいだろう。
物音を立てないように寝台まで歩み寄ると、エデンは眠るラバンの背を掛け布で覆い、二人の眠る寝室を後にした。
ローカと共に屋根裏の自室に戻り、敷布の上に身を横たえる。
今日一日でいろいろなことがあった。
それまで知らなかったさまざまなことを知った。
頭の中を整理するには時間はかかりそうだが、全てが捨て置くことのできない大切な問題だ。
ひとつずつ、順番に受け入れていくしかない。
ふと隣を見れば、横になったローカが指先で何か白いものをいじっている。
ラヘルがローカのために編んだ、桜草の花冠だ。
「気に入ってるんだね」
エデンの言葉に、彼女は背を向けたまま小さくうなずく。
手にしたそれを枕元に置き直すと、少女は寝返りを打ってエデンに身を寄せる。
「おやすみ、ローカ。また明日」
就寝のあいさつに、少女もまたささやくような声で「おやすみなさい」と返す。
逃亡の日々の名残か、ローカが寝息を立て始めるのを聞いて眠りに就くのがエデンの常であったが、この日はなぜか彼女よりも先に眠りに落ちてしまったのだった。




