第百三十七話 宿 痾 (しゅくあ) Ⅰ
「ラヘルっ!!」
名を呼んで駆け寄るエデンよりもひと足早く、くずおれる彼女を機敏な動きで抱き留めたのはラバンだった。
慣れた様子で顔色や息遣いを確かめ、憂慮をあらわに様子をうかがうエデンとローカの二人に向かって口を開く。
「大丈夫だ。心配ない」
気を失ってしまったラヘルの身体を背に負うと、彼は立ち尽くすエデンに向かって荷物をまとめて帰り支度をするよう告げた。
三人は終始無言のままに帰路を歩み、日没を間近にして自由市場に帰り着く。
依然として意識の戻らないラヘルを寝台に横たえると、枕元にローカを残し、エデンはラバンと二人寝室を後にする。
居間に戻ったのちは、ラバンと差し向かう形で腰を下ろした。
「……ラヘル、大丈夫かな」
「いつものことだ」
呟くエデンに、ラバンは事もなげに答える。
「でも……最近調子がいいって言ってたのに」
今朝方、ラヘルは狩りに同行すると言い張って聞かなかった。
支度を進める様子を不安げに見詰めていると、彼女は勇ましげに胸を張ってみせた。
「も、もしかして……調子がいいっていうのは、本当のことじゃなくて——」
力なく肩を落とすエデンだが、ふと思い立って反射的に顔を上げる。
ラヘルが倒れた際のラバンの一連の動作は、まるでそうなることが予期できていたかのように素早く、的確だった。
驚くそぶりなど一切見せずに淡々と彼女の状態をうかがい、力なく弛緩した身体を背に負って歩き出した。
変わらず無言を貫くラバンを前にし、エデンは自身の考えが思い違いではないことを確信する。
「ラバンは知ってたんだよね……? ——それは……そうだよね」
自ら口にした問いに自身で答え、エデンは再び肩を落とす。
行き場をなくした思いが胸の中でぐるぐると渦を巻き、やがてやり切れなさはいら立ちとなって込み上げてくる。
「……じゃあ、どうして? 無理して遠出すれば、こうなるかもしれないって——」
湧き上がる思いを伝えようとするうち、己の身が徐々に熱を帯び始めていることを理解する。
それがまったくの門違いであることはわかっているものの、一度高まり始めた気持ちを抑えることはできなかった。
「ラバンはっ……! ラヘルのことが心配じゃないの……!?」
思わずそんな言葉が口を突いて出る。
失言だと即座に悟るものの、放たれた言葉を引っ込めることなどできるはずもなかった。
「ち、違う……その——」
「お前の目にそう映ったのなら、それがお前の見た真実だ」
エデンの勢い任せの言葉を受けてなお、答えるラバンの声音は普段といささかも変わらない。
気に障ったようにも見えなければ、特段機嫌を悪くしたような様子も見られなかった。
「——ラバン、ご、ごめん。……その、勝手なことを言って」
「気にすることはない。お前たちがラヘルを思ってくれていることがわからないほど俺も愚かじゃない」
ようやく謝罪の言葉を絞り出したエデンに対し、ラバンは静かに頭を振って答える。
浅慮極まりない発言だったにもかかわらず、彼はその裏にある気持ちまでくみ取ってくれている。
心身を苛む罪の意識と悔恨の念に深く項垂れるエデンの肩に、ラバンは不器用ながらもあくまで優しい手つきで触れた。
「お前たちと一緒に暮らすようになり、ラヘルはよく笑うようになった。息の詰まりそうな暮らしの中でもうかなわぬ願いと諦めていた円居のひととき——それをお前たちはラヘルに与えてくれた」
普段と変わらぬ一本調子の中に秘めた不器用な慈しみに、失言を恥じるようにうつむいていたエデンも思わず面を上げる。
「お前たちが現れなければ、俺はあいつに何もしてやれないままだったに違いない。ラヘルも——幸福を知らぬまま死んでいただろう」
緩みかけていたエデンの表情は、続けて飛び出した不穏な言葉に再び凍り付く。
胸を突かれて言葉の見つからないエデンだったが、どうにか腹の底からひねり出すようにして声を上げた。
「死——って……そ、それって……」
「こういうところなんだろうな。お前の言うのは」
エデンの反応を前にし、ラバンはいかにも自嘲気味に呟いてみせる。
「俺はいつでもラヘルを送り出せる心積もりをしている。覚悟している——と言えば聞こえはいいが、実情は少しばかり違う。いずれ訪れる一人の時間に備えるため、来たるべき孤独から逃れるため、事実から目を背けようとしているだけだ。俺自身の心を守るための方便であるそれが、お前の目に薄情で心無いように映ったとしても、それは致し方のないことだ」
絶句するエデンに向かって、まるで自らの犯した罪を告解でもするかのようにラバンは続ける。
「心を失って久しい。明日か明後日か、思い続けて今日に至る。いつからか俺の思いに気付き始めたのだろう、ラヘルは一切の望みを口にしなくなった。泣き言も涙も己のうちに閉じ込め、笑い顔を見せることもめったになくなった。俺から心残りを削り落とそうとしてくれているのがわかった。それがラヘルなりの死に支度なのだということもな。俺たちは互いの考えを受け入れ、心を殺して無為な毎日を生きていた。やがて来るであろうその時を待つだけの俺たち二人の前に現れたのが……お前たちだった」
「それがあの日……君が見つけてくれた日……」
「そうだ。お前たちは似ていた。命からがらでこの町にたどり着いた、いつかの俺とラヘルに。何も持たず逃げるようにして故郷を飛び出した俺たち二人にだ。そこからお前たちと共に暮らし、少しずつラヘルは——ラヘルと俺は変わっていった。愛すべき者の待つ家の、笑い声が溢れる日々の心地よさ、久しく忘れていた感情を取り戻した気がした。葛藤もなかったわけではない。ラヘルの心が動いてしまうのではないか、決意と覚悟が揺らぐのではないかと恐れた。だが——」
そこまで言っていったん言葉を区切り、ラバンは深々と息をつく。
エデンはその顔を見上げ、恐る恐る繰り返した。
「だが……?」
「——そんなことはどうでもよくなってしまった。お前たちはラヘルが願ってやまなかった希望をかなえてくれた。それを望んでいることを知っていても、俺では決して贈ることのできなかったもの。お前たちはラヘルに——子を想う母の気持ちを抱かせてくれた。それがたとえ仮初めの絆であったとしても、身勝手で一方的な情の押し付けであったとしても、お前たちはラヘルの想いに応えてくれた。今日あのとき——」
ラバンは今一度押し黙り、自らの言葉を訂正するようにゆっくりと左右に首を振る。
「——昨日今日の話ではないのだろうな。あの日あの晩、偶然出会って同じ屋根の下に暮らし始めたとき、お前たちはそれをくれていたんだ」
諦念を色濃く映していたラバンの表情の端に、エデンはかすかな光明を認めた気がした。




