第百三十六話 花 冠 (はなかんむり) Ⅱ
◇
「まずはね、こう二本を垂直に交差させて……下側のお花の茎を上に巻き付けて——」
食事を終えたのち、ローカはラヘルから花冠作りの教授を受けていた。
ローカは器用に茎同士を編み進めるラヘルの手元に目を凝らし、四苦八苦しつつ自らも手にした花を編み上げている。
「——そう、それで茎をそろえたら次に三本目を乗せて……そうよ、上手じゃない」
食後の茶を片手に、エデンは花冠作りを楽しむ二人をなんとはなしに眺める。
ふと隣を見ればラバンの視線も二人に注がれており、その顔にはいつにない穏やかな表情が浮かんでいる。
あまりに幸せに満ちた空間と時間に、なぜだろうか目頭の熱くなる感覚を覚える。
不意に頬に滴が伝うのに気付くと、三人に背を向けるようにして立ち上がった。
「ちょ、ちょっと歩いてくるよ」
ラバンに向かって短く告げ、速足でその場を離れる。
辺りを散策しながら周囲に視線を巡らせれば、つい先ほどまでは存在すら知らなかったケナモノの姿がそこかしこに見受けられる。
草木の陰や岩場の隙間、あらゆる場所にその姿はあった。
先ほどラバンと一緒に捕まえた数匹は大きめの個体だったようで、辺りに見られるそれらはエデンの掌に収まる程度のものから、爪の先ほどの大きさの物までさまざまだった。
よく目を凝らしてみれば、なお小さな個体もいるのかもしれない。
ふと立ち止まると、逃げ去るケナモノを目で追いながら呟いた。
「こんなところにいたんだね」
「そうだ」
独り言のつもりだったが、いつの間にか近くまでやって来ていたラバンに言葉を拾われてしまう。
ラバンはそのままエデンの隣に並ぶと、誰に言うともなく口を開いた。
「どこにでもいるが、その詳しい在り方は誰も知らない。漫然と口に運んではいるが、よく考えれば奇妙なものだな」
「誰も——知らない……?」
「そうだ。俺たちはケナモノに生かしてもらっているにもかかわらず、その在り方を何一つ知らない。あれらが何を食べて生きているのか、それ以前に食を必要とするかどうかもわかっていない。どれほどの知性を有しているのかも、どこからやってくるのかも、どのように増えるのかも知る者は誰もいないのだ。そこに加えて、俺たちがケナモノから分けてもらっているのは肉だけではないという事実も認めねばならない。言うなれば、この世界の全てがケナモノからの授かりものだということだ」
「全て……? 全てって、どういうこと……?」
エデンの問いを受け、ラバンは腰を落としてその場に膝を突く。
おもむろに大地に手を伸ばした彼は、ひと握りの土をつかみ上げた。
「朽ちた草木が大地に返るのは、土の中に俺たちの目では見えないケナモノがいるからだと言われている。それだけではない。植物が花を付けるのも、種子や果実を実らせるのもケナモノあればこそだ。もしもその存在がなければ、俺たち人はこの世界に生きることすらままならないだろう」
「そんな力が……」
「だが俺たちは知らない。ケナモノがいかにして死した命を土に返すのかも、花々に新たな命を宿すのかも——その光景を誰も見たことがないのだからな」
「誰もって……本当に誰も——?」
立ち上がったラバンが手を開くと、指の隙間から土がこぼれ落ちる。
彼は掌に残った土を拭い落しながら「誰もだ」と重ねて言った。
「多くの知恵ある者がその在り方を詳らかにしようと試みたが、全てが徒労に帰した。ケナモノが不可思議な力を発揮するのは、人の観測の外にある場合のみらしい。朽木はいつの間にか土に返り、草木はいつの間にか実を結ぶ。またあるとき、肉をいつでも得られるようにとの考えの元、人の間でケナモノの生を管理しようとした者がいた。数百のケナモノを集めてひと所に押し込めたのだ。肉をそいだのちも野に放つことはせず、その身が癒えるのを待った。しかし翌日、集めたはずのケナモノは全て消え失せていたそうだ。まるで煙が立ち消えるように——跡形もなくだ。ケナモノは人に明かされることも、飼い慣らされることも良しとしない。幾度の挑戦と失敗を経て人はそれを学んだ。今なお人とケナモノを結ぶ関係は古来から何一つ変わらないままだ。狩りをして、命の一部をもらい受ける——それだけの話だ」
「命を——」
あまりの衝撃に、エデンはあぜんとして言葉を失っていた。
そんな様子を一瞥して小さくうなずいてみせると、ラバンは何ごともなかったかのように言葉を続けた。
「人が知ることはその程度だ。寸刻前のお前とさほど変わらない。それを知って心が動くならば——思うところがあるならば、どう向き合うかをよく考えるといい。全てはお前次第だ。ケナモノを断って生きようとする者たちもいると聞く。否定はしないが、俺はそれをしない。食べ過ぎることや粗末な扱いをするのはもっての外だが、肉を口にすることで俺は世界の一部であることを教えられている気がする。ケナモノを食べ尽くせば人は滅ぶ。しかし理性と節度ある限り、人はそれをしない。その感覚を失った時が人の世の終焉だ。それにだ、人とて絶対的な強者ではない。一方的に奪う側に身を置いていられるわけでもないのだからな」
ふと思い当たる節を感じたエデンは、はじかれたようにラバンの顔を見上げる。
「それって——い、異種の——こと……?」
「そうだ。俺たち人が常に食う側に回れるとは、うぬぼれも甚だしい。食わねば命を永らえさせることもできなければ、たやすく食われて命を落とすほどに弱いのも人だ。食い食われ、この世に生きる命であることを知る。案外うまくできていると感心もしようものだ」
そこまで話し、ラバンは考え込むエデンの肩に軽く触れる。
「戻るか」
歩を進めながら言うラバンの背を追い、エデンもまた歩き出す。
ローカとラヘル、二人の待つ場所に向かう中で視線の先に認めたのは、左右の手に草花か何かを握り締めて走る少女の姿だった。
彼女は岩に背を預けて座り込むラヘルの元へ駆け寄ると、手にした草花の束をその眼前にうれしそうに突き出す。
「まあ——!」
両手で口元を覆ったラヘルは、面食らったような驚きの表情を見せる。
「だ、駄目よ、ローカ……! 駄目——」
たしなめるように言うラヘルだが、こらえ切れない笑いが喉の奥から漏れ出ている。
彼女は懸命に笑いを噛み殺しながら、何がおかしいのかわからず首をひねるローカの手元を指差してみせた。
「——それは、駄目よ」
ローカの手の中にあったのは、川辺に黄色い花を咲かせていた植物だった。
おそらく花冠を作るために捜してきたのだろう。
ラヘルの指摘が花の選別にあるのではなく、採取の方法であることはエデンにも容易に見て取れた。
ローカは花を手折るのではなく、根ごと引き抜いていた。
ひとつかみに束ねて握られたそれが揺れるたび、根からぱらぱらと土がはがれ落ちる。
「根っこを抜いちゃったらもう生えてこないのよ。——ほら、一緒に戻しに行きましょう」
おかしさにこぼれた涙を拭って立ち上がると、ラヘルは変わらず不思議そうな表情を浮かべるローカに向かってその手を差し伸ばした。
渋々といった表情でうなずき返したローカも彼女に応えるように手を伸ばしたが、二人の掌が重なり合うことはなかった。
ラヘルの手はローカの脇を擦り抜け、ローカの指もまた何もない虚空をつかむ。
身体を前方にぐらりとかしがせたと思うと、ラヘルは糸の切れた人形のようにその場に倒れ伏してしまった。




