第百三十四話 神 餐 (しんさん) Ⅱ
「よしっ……!」
気を引き締めるように声を張り、ケナモノが身を預ける樹の真下まで歩み寄る。
四肢で幹を挟み込むようにして身体を支え、枝や瘤を見付けては手掛かり足掛かりにしてよじ登っていく。
数分をかけて樹上のケナモノに手が届きそうな高さまでたどり着くと、片手で枝を握ったエデンは、もう一方の手を枝先に向かって伸ばした。
「も、もう少し……!」
身を乗り出すようにして一心に手を伸ばすエデンだったが、握っていたはずの枝が突然支えを失い、全身が宙に浮くような感覚を覚える。
「あ——」
枝が音を立てて折れるのに気付いたときには、すでに身体は地上に向かって落下していた。
「——うわあっ!!」
とっさに受け身の姿勢を取って目をつぶるが、いつまで経っても身体に衝撃が訪れることはなかった。
恐る恐る目を開けたエデンが目にしたのは、両手をもって自身を受け止めてくれているラバンの姿だった。
「あ……ありがとう、ラバン」
「惜しかったな」
感謝の言葉に端的な慰めを返し、ラバンは抱き留めていたエデンの身を足から大地に下ろす。
続いて頭上を見据える彼に倣って樹上を見上げるエデンだったが、先ほどまでそこにいたはずのケナモノは知らぬうちに姿を消していた。
「逃げちゃったんだ……」
「次だ」
無念がるエデンに短く告げ、ラバンは樹下を離れる。
エデンはその後もラバンの指示のままに草むらをかき分け、石や岩をどかし、再び川に踏み入り、ケナモノの姿を探し続けた。
大小さまざまな大きさのそれを見つけては逃しを繰り返し、ようやく一匹の小ぶりな個体を捕まえることに成功する。
「や、やった……!! 捕まえたよ——!!」
「初めてにしては上々だ。少しばかり小さいが——まあいいだろう」
嬉々として両手でケナモノを掲げるエデンに歩み寄ると、ラバンは手の中のそれをじっと見定めながら言った。
続けて腰の鞘から短剣を抜いた彼は、その柄をエデンに向かって差し出した。
「お前がやってみろ」
「やるって——さっきの切る……ところ?」
「そうだ」
「じ、自分が……」
目を伏せての逡巡ののち、意を決するように顔を上げる。
「……うん! や、やってみる!!」
先ほどラバンがやってみせてくれたように、まずは平坦な石を探してケナモノを据え付ける。
身をよじるそれの背に見よう見まねで刃をあてがいはしたものの、手の震えを止めることができず、いったん短剣を下げることにした。
「焦らなくてもいい。お前の呼吸でやれ」
「……うん」
後方から見守るラバンの言葉に背を向けたまま答え、もう一度手中のケナモノに視線を注ぐ。
押さえ付けた身体を見据えつつ、大きな深呼吸を二度、三度と繰り返した。
「ケナモノの肉——膏肉とも呼ぶが、それは五穀や蔬果と並び、俺たち人の身に豊かな滋養を授けてくれる自然の恵みだ。生息する環境や土壌によって食感も食味も違えば、調理の方法も土地土地によってさまざまだ。人の生きるところにはケナモノがあり、ケナモノがあるところに人もまたある。そして人がその恩寵を賜るためには、一つの約束を守らねばならない」
「約束……?」
「そうだ。かさに見合った分量の肉を切り取ったのちは必ず野に返す——それが人がケナモノから肉を譲り受ける上で守らなければならない決まりごとだ。どれほど飢えていようとも、決して食い切ってはならない。捕えた個体が身を欠いているようならば、それ以上の肉をそぐことは許されない。必ず生かして返すのが習いだ。野に返れば、数日ののちには元通りに肉を付けて現れる。そうしてケナモノは人に尽きぬ慈悲を与えてくれるのだ」
手を止めたエデンに対し、ラバンはケナモノという存在について語る。
今日という日まで自身が当然のように享受していた恵みの裏に、そんな事実があるなどとは考えもしなかった。
思慮不足を恥じ、思案に暮れそうになるエデンを、続くラバンの言葉が引き戻す。
「少し喋り過ぎたが、とにかくやってみろ。ケナモノが苦痛を感じているのかどうかは知らないが——それが俺たち人にできる最低限の情であり敬意の表し方だ」
「う、うん……! わ、わかった!」
ひときわ大きな深呼吸をしたのち、エデンは手の中にあるケナモノの背に短剣の刃を添える。
「切り取る分量は、身体の三割程度と考えておけばいい。中央にある骨を避けて肉をそげ」
「三割ぐらい——骨を避けて——」
背に受けるラバンの助言を繰り返しながら、ケナモノの身体に刃を差し入れる。
肉は想像以上に柔らかく、短剣の刃はなんの抵抗もなく吸い込まれていった。
彼の言った通り、透明な身体の真ん中には丸く小さな骨のようなものが浮いている。
それを避けるように刃先を滑らせ、エデンは自身の手に収まる程度の大きさの肉をそぎ取った。
「こ、これでいいのかな……?」
振り返って尋ねれば、ラバンは無言の首肯でもって応じる。
片手に切り取った肉を握ったまま、エデンは反対側の手で固定していたケナモノの身体を解き放った。
束縛を解かれて草むらへと消えていく様子を安堵のため息とともに見送ったのち、エデンは掌に残った肉の塊に目を落とした。
つい先刻まで全身をのた打たせていたケナモノから切り離された、透明な肉。
奇怪に感じられて仕方なかったそれが、今はこの上なく畏れ多いものに見える。
「……ありがとう。いただくね」
掌の中の肉に視線を落として呟き、ケナモノの消え去った方向に視線を送る。
「初めてにしては上出来だ」
そんなエデンの様子を目にし、ラバンは満足げな調子でうなずいた。




