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百从(ひゃくじゅう)のエデン  作者: 葦田野 佑
第二章  自由市場(じゆういちば) 篇   第三節 「小さき嘴、優しき嘴」
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第百三十三話  神 餐 (しんさん) Ⅰ


 上着を脱ぎ去って着物の裾を端折ったと思うと、ラバンは足音を忍ばせて水の中へ踏み入っていく。

 小川の流れに逆らうように足を踏ん張った彼は、息を凝らすようにしてじっと水中をのぞき込む。

 エデンもまた固唾をのみ、黙ってその様子を見詰めていた。

 数分ほど経ったところで、ラバンは勢いよく川の中に両手を突き入れる。

 直後、水の中から引き上げられた両手には、エデンが見たこともない塊のようなものが握り締められていた。

 逃げ出そうとしているのだろうか、()()は猛然と身をよじるが、ラバンもまた離すまいと両の手に力を込める。

 ざぶざぶと音を立てて川から上がった彼は、手の中で蠕動するように動くものをエデンの眼前へと突き出した。


「見ろ」


「こ……これが——」


 顔の前で身をくねらせる()()を、まじろぐことなく注視する。


「——じ、自分たちの食べてる……」


 大きめの果物くらいはあるだろうか、内側とその向こう側が透けて見える半透明のそれは、確かに見慣れた肉の塊とよく似ていた。

 扁平につぶした円筒形の身体には手も足もなく、前後のどちらが頭部なのかも判別できない。

 それが足——なのだろうか、底面から無数に伸びる小さな突起は、おのおのが自ら意思を持ったかのように波打っていた。

 色味や質感といった特徴から、目の前のそれが自身を含む人々の命の糧であることは直感的に理解できたが、異様極まりない姿形はエデンにとってお世辞にも気味の良いものには見えなかった。


 ラバンは川辺に平坦な石を見つけると、手にしたそれを底面を下にして押し付ける。

 身を暴れさせて逃げ出そうとするところを左手でしっかりと固定したのち、腰帯に収めていた鞘から小さな短剣を抜き放つ。


「よく見ておけ」


 反射的に目をそらそうとするエデンに対し、ラバンは有無を言わさぬ口調で言った。

 エデンが薄目で見守る中、ラバンは右手に握った短剣を半透明の生き物の背にあてがい、ゆっくりと刃を滑らせていく。

 脈打つ身体から自身の拳大の肉をえぐり取ると、彼は傍らに置いた籠の中に切り取った塊を放り込んだ。

 次にラバンは、透明の生き物を押し付けていた左手の力を緩める。

 自らが束縛から解き放たれたと知るや、それは身をよじってラバンの手を抜け出した。

 その特異な形状の身体からは想像もできない俊敏な動きで逃げ出したかと思うと、透明な生き物は川の中へと飛び込み、瞬く間に水になじんで見えなくなってしまった。


 あっという間の出来事にエデンがぼうぜんと川面を見詰める中、ラバンは()()の名であろう言葉を口にした。


「ケナモノ——その名も覚えてはいまいか」


「ケナ——モノ……」


 ラバンの呼んだ名を繰り返してみるが、記憶の中に引っ掛かりを感じる部分は一切ない。

 過去と同じく、目の前のそれについての知識も完全に抜け落ちているようだった。


「……うん。覚えてない、みたい」


「そうか」


 肩を落として呟くエデンに対し、ラバンは普段と変わらぬ調子で答える。


「知らないのであれば、今から知ればいい」


 言いながら川の水で刃をすすぐと、ラバンは軽く振って水滴を飛ばした短剣を鞘へと収めた。


「歩くぞ」


「う、うん……!」


 言葉を発したときにはすでにラバンは歩き出しており、慌ててその後を追う。

 エデンが自身の横に並ぶのを見て取ると、彼は歩みを進めながら口を開いた。


「ケナモノはどこにでもいる。川底をはいずりもすれば、土の中にも潜る。草むらに、樹の上に、この世界のありとあらゆる場所に生息する生き物だ。俺たち人は、その命をもらって生きている」


「どこにでも……」


 それ以前の記憶がないとはいえ、すでに不毛の荒野での目覚めから一年弱の月日が経っている。

 決して短いとは言えないその間、ケナモノの姿を目にしたことなどただの一度もなかった。

 それどころか、日々なんの疑問も抱かずにその肉を口にしていたことに、大きな衝撃を受けざるを得ない。

 給仕としては調理されたそれが乗った皿を運び、市場では切り身として売られているところも幾度となく見てきた。

 それにもかかわらず、それがなんであるかに考えを向けたことは一度としてなかったのだ。


「——全然、知らなかった」


 がくぜんとしてうつむくエデンに対し、ラバンは顔を正面に向けたまま平然と言う。


「生まれたばかりの子供でもない限り、当たり前のことを教えてもらえる機会などそうはない。今こうして知ることができたのだ。何も遅くはないだろう」


 ラバンはそう言うと、立ち止まって一本の樹を見上げる。


「見ろ」


「あ……」


 頭上を示す彼の視線と指先を追ったエデンは、樹上に一匹の半透明の生き物を認める。

 それ——ケナモノは、枝葉に身を潜めでもするかのようにじっとして動かない。


「あ、あんなところにも……」


「今度はお前が取ってみろ」


 口を開けて樹上を見上げるエデンに対し、ラバンはさも当然のようにさらりと言い放つ。


「じ、自分が!? そ、そんなのやったこともないよ……!」


「——大きい声を出すな。逃げられてしまう」


 両手を慌ただしく振って声を上げるエデンに顔を寄せて注意を促すと、ラバンは諭すような口調で続けた。


「やったことがないなら、やってみればいい。今がその機会だと考えればいいだけだ」


「う、うん。……そ、そうだね。自分にできるかな、その——道具も何もないのに——」


「なに、道具のない昔から人はその手でケナモノを取って暮らしてきた。お前にも立派な手足があるだろう」


「……うん」


 平然と言うラバンに向かって小さくうなずきを返したのち、エデンは戸惑いを覚えつつも樹上を見上げた。


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