第百三十二話 野 掛 (のがけ)
◇
「あのね、私も一緒に行きたいの」
ラヘルが思い立ったように言い出したのは、狩り当日の朝方のことだった。
突然の申し出にエデンは不意を突かれ、ラバンもまた険しい顔をして黙り込んでしまった。
「そ、その……無理はしないでほしいよ」
エデンは何度もラヘルを諭し、ラバンも無言をもって彼女の求めを拒絶する。
「ここのところ身体の具合がいいの。だから、きっと大丈夫よ!」
しかし、思いの外頑固な彼女は「大丈夫」の一点張りで、エデンたちが何を言おうが決して考えを曲げようとはしなかった。
いつにない張り切りぶりを見せ、ローカに指示を出しながらラヘルが用意するのは四人分の昼食だ。
朝早くから作り始めた料理を鼻歌交じりに金属製の弁当箱に詰め込むラヘルは、完全に行楽気分といった様子だった。
彼女を心変わりさせることを諦めてしまったのか、ラバンは自室代わりにしている納戸の中で種々雑多な道具類を収めた長持を引っ繰り返していた。
後ろを向けた背に、エデンは助けを請いでもするかのように声を掛ける。
「……ね、ラバン。ラヘル、本当に大丈夫なのかな……?」
「あれも子供ではない。自分の身体のことは自分が一番よく理解しているはずだ」
道具類を探る手を止めることなく、ラバンは至って素っ気ない口調で答える。
「そう——なのかな。……でも、やっぱり心配だよ」
重ねて言うエデンに対し、手を止めた彼は振り返ることなく言った。
「好きにさせてやってくれ。ラヘルはああ見えて強情な奴だ。一度言い出したら頑として譲らない。皮肉なもので——そういうところは俺とよく似ている」
ラバンは長持の中から引っ張り出した小ぶりな弓の具合を確かめるように弦を引くと、「これも使い物にならないか」と呟き、小さなため息とともに放り出した。
立ち上がった彼はエデンの間近まで歩み寄り、顔を見下ろすようにして口を開く。
「気を使わせる」
「き、気とか……そ、そんなんじゃないよ。ただラヘルが心配なだけで……」
出し抜けに発せられた殊勝な言葉に取り乱すエデンだったが、ラバンは構うことなく続ける。
「取ったばかりの新鮮な食材ならば、少しくらいは口にしてくれるかもしれない。そう考えて狩りに行くことを決めたが、ラヘルの気持ちもまったくわからないわけでもない。ここ数年は遠出もさせてやれず、家と市場と河を往復するだけの毎日だったのだからな。気も滅入ろうというものだ。今日のところは、あれのわがままを許してやってほしい」
「う、うん……」
言って頭を垂れるラバンに、エデンはうなずかざるを得なかった。
◇
支度を整え、四人は家を出る。
長く手入れを怠っていたためだろうか、弓を含む狩りの道具は軒並み使い物にならなかったようで、ラバンが手にしているのはラヘルの用意した四人分の弁当と空籠のみだった。
荷物はラバンに任せ、エデンとローカは左右からラヘルに寄り添うようにして歩く。
小路を抜け、大路を過ぎ、四人は自由市場の外へと足を進める。
ラバンの語る目的の場所は、市場からそれほど遠くない距離にあるという。
それでもいくらか道の険しい部分はあり、起伏や勾配のある箇所では、二人でラヘルの手を取って進んだ。
足取りは軽快とはいえないものの、ラヘルは自ら宣言した通りにつらそうな顔を見せることなく歩き続けた。
頻繁に休憩を入れつつ、細流に沿ってなだらかな丘陵を進む。
そうして二時間ほど進んだところで一行の前に現れたのは、谷合に位置する草原だった。
周辺一帯に丈の低い柔らかな草木が生い茂り、水のほとりには目にも鮮やかな野花が咲きそろっている。
小さな流れを目で追えば水しぶきを上げながら流れ落ちる滝へとたどり着き、滝つぼ周りには辺り一面にわたって白い花弁を持った花が群生していた。
目の前に広がる一幅の絵のような素晴らしい眺めに、エデンは今日の外出の目的が狩りであることを忘れてしまいそうになった。
「美しいところだろう。市場に暮らす住人でも知る者は少ない。言うなれば——秘密の場所といったところか」
言葉を失うエデンの傍らで、ラバンが周囲を見渡しながら口を開く。
その言葉からは、どこか感慨深げな響きが感じられる。
「以前は二人でよく来たものだ」
呟く彼に、ラヘルもまた「ええ、本当に」と感じ入るように同意する。
「……また来られるとは思わなかった。ここはあの頃と何も変わらないわ。ここに来ると、いつも私はお花を摘んで……貴方は——」
そこまで言って、ラヘルは唐突に言葉を詰まらせる。
にわかに目を伏せる彼女を見て取ると、ラバンは大層らしいせき払いを一つ放った。
「今日は遊びに来たわけではない」
切り捨てるように言って、強引に話を終わらせる。
続けて鼻先をしゃくるようにしてエデンに合図を送ると、ラバンは間も置かず歩き出す。
若干の戸惑いを覚えるエデンだったが、見送るローカとラヘルの二人をその場に残して彼の後に続いた。




