第百三十話 弁 疏 (べんそ) Ⅱ
浅はかな選択が、抱く願いと真逆の結果を招きかねないことは知っていたはずだった。
大河の向こう側の路地裏において、塀の上の子供の投じた小石は確かに頬をかすめた。
深手を負わずに済んだことに安堵していたが、おそらくあの一投は彼らの領域に立ち入ったことに対する牽制だったのだ。
思い返してみれば、あの子供の手にはまだ幾つかの石が握られていた。
もしも彼がローカを標的に選んでいたら、あるいは傷つけようという明確な意志をもって二投目を放っていたとしたら、ラバンの言った通りに取り返しのつかない状況を招いていたに違いない。
もうローカが傷つくところを見たくない、痛い思いや苦しい思いをさせたくないと願う気持ちにうそはない。
だが、彼女のことを守ると約束しながら、それを不意にしようとしたのは他ならぬ自分自身だったのだ。
「全てお前の責任だ。お前が——」
「ラバン……! それ以上はやめて……!!」
さらなる追及をしようとするラバンに対し、部屋の奥から制止の声を放ったのはラヘルだった。
壁に手を添える形で身体を支えた彼女は、玄関に向かってたどたどしい足つきで歩みを進める。
「お願いだからそれ以上エデンを責めないで——! 私が……私が悪いの、私が頼んだから……!!」
ラヘルの声を背に受けてなお、ラバンは手首を握り締めたまま離そうとしない。
「ラバン! エデンは優しい子よ……! 貴方も知ってるわよね。……そう——貴方と同じ——」
小揺るぎもしないラバンの背に向かって語り掛け続けるラヘルだったが、言葉の途中で息をのむと、掌で壁に擦るようにしてその場にうずくまってしまった。
「ラ、ラヘル……!!」
慌てて彼女に駆け寄ろうとするエデンだが、固く握り締めるラバンの手がそれを許さなかった。
動くことのできないエデンに代わり、彼女の元に走ったのはローカだ。
一目散にラヘルの元に駆け寄ったローカはその場に膝を突き、掌を口元に添えてせき込む彼女の背をさすった。
ラバンはおもむろに振り返り、ラヘルを労わるローカを静かに見下ろす。
次いで握り締めていたエデンの手を解き放った彼は、ローカの手から擦り抜けて音もなく床にこぼれた糸束を拾い上げた。
手首を押さえて立ち尽くすエデンに粗雑な手つきで糸束を押し付けたラバンは、そのまま戸口へと向かい、何も言わずに出ていってしまった。
その背をぼうぜんと見送ったのち、エデンはローカと協力してラヘルを寝台に運ぶ。
「……ごめんなさい、ごめんなさい——」
左右から身体を支えられている間も、寝台に横たえられている間も、彼女はうわ言のように幾度となくその言葉を繰り返していた。
◇
十数分が経ち、ラヘルはようやく落ち着きを取り戻していた。
エデンとローカは寝台の脇に椅子を寄せ、彼女の求めに応じて今日あった出来事を話して聞かせる。
「何もわかっていなかったのは私のほうだったのね……」
傷を隠すための首飾りは必要ないとローカ述べた件に話が及ぶと、ラヘルは悄然として肩を落とす。
ローカは寝台の上に身を乗り出すようにして彼女の手を取り、その顔を見据えて短く言った。
「あなたの、作ってくれたものだったら」
それを聞いたラヘルの頬にはまたもや涙が伝い、彼女もまたローカの手を握り返しながら何度も繰り返しうなずいてみせた。
「——これなんだけど、どうかな」
エデンは寝台の上のラヘルに糸束を握らせる。
結局使わなかった首飾りの分の金と釣り銭は、彼女が財布代わりにしている紐細工の袋に戻しておく。
「……まあ」
ラヘルはマフタとホカホカから譲り受けた白色の糸束をひと目見るや、息をのんだように押し黙ってしまう。
手に取ったそれをさまざまな角度から見詰め、手触りや強度などを確かめたりしたのち、感服したかのようにほうとため息をついた。
「これ、とてもいいお品よ。本当に頂いてもいいのかしら……?」
遠慮がちに言う彼女に、エデンはマフタの言葉を一言一句たがわずに伝える。
「——そうだったのね。お礼を言わなくちゃ」
感じ入るように呟いたラヘルは手製の手巾で涙を拭い、掌の上の糸束を愛おしげになでる。
続いて何かを思い出したかのように表情を曇らせると、彼女は糸束を両手で握ったまま口を開く。
「エデン。……ラバンのこと、許してあげてほしいの」
「ゆ、許すなんて!! わ、悪いのは自分のほうだよ、約束を守らなかったんだから……! だから——その……ラバンは何も悪くないんだ」
「ありがとう。……優しい子。あの人のこと——わかってくれて」
左右に頭を振って答えるエデンに、ラヘルは穏やかな微笑みを浮かべて応じる。
「口下手なだけなの。あの人ね、本当は貴方たちにとっても感謝してるのよ。もちろん私もだけど——きっと私以上に」
「ラバンが……自分たちに……?」
感謝をされる覚えなど、一つとてありはしない。
礼を伝えなくてはならないのはむしろ自身のほうだ。
その日の宿さえ見つけられず、ローカと二人で路頭に迷いそうになっていたところを拾ってもらった。
いつかアシュヴァルがそうしてくれたように、住む場所と仕事まで与えてくれたのは他でもない彼だ。
してもらうばかりの身で、何を感謝されるというのだろう。
不思議でならないといった様子で傍らのローカと顔を見合わせるエデンに対し、ラヘルは頬を緩めて言った。
「ねえ、エデン。ラバンね、時々貴方のことを話すのよ。あいつは見どころがある、これからが楽しみだって。本人に伝えてあげたらって言うと、途端に話をそらしてしまうのだけど」
「ラバンが……?」
くすくすと声を抑えて笑う彼女を見て、エデンは知らずのうちにその名を呟いていた。
直後、玄関の方から扉を開け放つばたんという音が聞こえてくる。
わずかの間を置いてエデンたち三人の前に姿を現したのは、つい先ほど出ていったばかりのラバンだった。
下ばきに上着を引っ掛けただけの彼は、全身の被毛から水を滴らせたまま部屋に踏み入ってくる。
「頭を冷やしてきた」
三人の見詰める中、エデンを見下ろすように立ったラバンが口を開く。
「説明もなく一方的に条件を突き付けた俺にも非があった。これからは今以上にお前たちの意思を尊重する。そういられるように——努力する」
エデンの反応を待つことなく、ラバンは言うだけ言って踵を返す。
歩いた道筋に身体から滴った水滴を点々と残し、彼はそそくさと居間へと戻ってしまった。
その突然の言動に言葉を失っていたエデンたちだったが、居間から聞こえた盛大なくしゃみを耳にして顔を見合わせる。
それをきっかけにして、せきを切ったように笑い出したのはラヘルだった。
「……まあ、ふふふ」
そんな彼女の様子を目にし、エデンもつい笑い声を漏らす。
ラバンに悪いとは思うものの、込み上げてくるおかしさを止めることはできない。
隣を見れば、いつも無表情のローカの顔にもうっすらとではあるが笑みが浮かんでいるような気がした。




