第百二十九話 弁 疏 (べんそ) Ⅰ
広場からの帰り道を歩むエデンの足取りはひどく重かった。
結果的にラヘルから頼まれた糸を手に入れはしたが、そこに至るまでの経緯があまりにも複雑だったからだ。
嘴人マフタとの偶然の出会いを経て、彼が相棒と呼ぶホカホカの宝物を取り返すことができた。
その謝礼として、行商人である彼らの扱う糸を譲り受ける運びとなったのだが、ラヘルから預かった金で買った糸束を紛失してしまったこと、そして橋の向こう側に行くなというラバンの忠告を破ってしまったことは紛れもない事実だった。
何も言わずラヘルに糸を渡せば、今日起きた出来事を隠し果せるかもしれない。
しかしながら二人に隠し事をすることは何より心苦しく、ローカに口裏を合わせることを強いるのも忍びなかった。
「ね、ローカ。どうしようか……?」
隣を歩く少女に尋ねてみるが、見上げる彼女の顔からはやましさや後ろめたさといった後ろ向きな感情は一切伝わってこない。
それどころか、どこか成果でも誇るような得意げな表情さえ浮かんでいるように見える。
「……うん、そうだね。約束は破ることになっちゃったけど、こうして無事だし……ホカホカもあんなに喜んでくれてた。それにマフタも——」
——恩人と、自分たちのことをそう呼んでくれた。
強くなりたい、誰かの力になりたい。
そんなふうに願って旅に出たのが数か月前の出来事だ。
ローカの持つ特異な力があってこそとはいえ、誰かを助けられたことに満足感や達成感を覚えてはいないかと問われればうそになる。
「ラバンも……きっとわかってくれるよね」
あえて楽観的な見解を口にしてみるが、鬱々とした気分はそう簡単に晴れるものではない。
いかにしてこの状況をやり過ごすか、考えを巡らせつつエデンは帰途を歩む。
「先にラヘルに話をして、それで——うまくラバンに伝えてもらうっていうのはどうだろう。……でもうそはつきたくないから、やっぱり正直に言ったほうがいいのかな——」
独り言つように呟きつつ隣を見下ろせば、手の中にある糸束をじっと見詰めるローカの姿が目に映る。
「——うん……! 正直に言おう、やっぱりうそは駄目だ」
一度腹をくくると気分はいくらか楽になった。
ラバンから叱責を受ける覚悟を決め、エデンは帰り道を急ぐ。
歩きながら考えることといえば、マフタから聞いた大河の向こう側の話と、実際に橋を渡った先で見た子供たちの姿だった。
鋭い目でにらんできた、塀の上から石を投げてきた、腰の剣の鞘に触れてきた——周囲を取り巻くようにしてこちらの様子をうかがっていた子供たちの姿を思い浮かべて寒気立つ。
明日は我が身と語るマフタだったが、それが決して他人事などではないことは十分過ぎるほどに理解できる。
剣の柄に触れ、思いを巡らせる。
たとえどんな事情があろうと、人のものを盗むのは駄目だと彼は言った。
その言葉を耳にした瞬間、胸の中の負い目のようなものがうずく感覚を覚えていた。
後に許しを得たとはいえ、彪人の里長ラジャンの元から彼の宝である剣を持ち去ったのは紛れもない事実だ。
もしも渓谷に架かるつり橋を落としてこの自由市場に流れ着いていたとしたら、自身とローカも河の向こう側の住人になっていたかもしれない。
追っ手の影に怯え、いつ冷めるとも知れないほとぼりが冷めるのを、身を潜めて耐え忍ぶ自身らの姿を想像して身を震わせる。
「——やっぱり、ちゃんと向き合わないといけない」
剣の柄を固く握り締め、今一度自らに言い聞かせるように呟いた。
◇
帰途を歩みながら積み上げた覚悟は、いともたやすく打ち砕かれることになった。
二人の帰宅を認めるや否や、ラバンは脇目も振らず真っすぐに歩みを寄せる。
無言で見下ろす視線が自身の顔に注がれているのを察したエデンは、半ば無意識的に頬の傷を掌で覆っていた。
「こ、これは——その……」
約束を破ったことを正直に伝えて謝ろうと考えていたにもかかわらず、刺すような視線に気おされて言葉が出てこない。
手首をつかみ上げられ、頬を覆う手は問答無用で引きはがされていた。
「い……痛——」
「これはなんだ」
「か、かすり傷だよ、ぜ——全然痛くないから……!」
手首を締め付けられる痛みに思わず声を漏らすエデンだったが、ラバンは手を握ったまま問い詰めるように言う。
言い訳の言葉がとっさに口を突いて出るが、それがまったくの見当違いだと自分でもわかっていた。
負っているのがかすり傷だろうと擦り傷だろうと、約束を破って河の向こう側に行ったことの理由になどならない。
エデンの言い逃れに取り合うそぶりも見せず、ラバンは再度問いただすように言った。
「行ったんだな。橋の向こうに」
「——う、うん……! 行った、行ったよ! でも聞いて、ラバン! その……自分たちで困ってる人を——」
「そんなことは聞いていない」
取った行動の正しさを理解してもらおうと弁明を重ねるが、ラバンは一切表情を変えることなく切り捨てるように言う。
エデンの手首を固く握り締めたまま、彼はまばたくことなく見上げるローカを横目で一瞥した。
「連れていったんだな」
「う……うん。い、一緒に行ったよ」
自身がその後を追ったというほうが状況的には正確なのだろうが、それでは彼女に責任を押しかぶせる形になってしまう。
「じ、自分が悪いんだ。その……ローカを巻き込んだのは自分で——」
「当然だ」
申し開きの言葉は、ラバンによって再び断ち切られる。
「守るんじゃなかったのか。お前が世話になった者たちがしたように、この子を守ると言いはしなかったか。それが——この傷はどうだ。けがをしたのがお前でなかったのなら、お前は何を思う。今と同じようなことが言えるのか。——何ごともなかった、後からならばどうとでも言える」
「そ、それは……その——」
返す言葉を持たないエデンには、黙ってうつむく他に取るべき行動はなかった。




