第百二十七話 彼 此 (ひし) Ⅰ
「な、何がって——お前、本当に知らないのか!?」
よほど衝撃だったのだろう、マフタは口を開け放ったまま硬直してしまう。
押し黙ったまま何やら思考を巡らせるようなそぶりを見せたのち、彼はエデンとローカを交互に見上げた。
「さっき言ったように俺たちもこの町の住人じゃない。間違ってるところもあるだろうから、話半分に聞いてくれ」
念押しをし、マフタは語り始める。
「河のこっち側もあっち側も自由市場って名前の同じ一つの町、運営に関わる市場のお偉方もそこに明確な区別はないって言い張ってる。けどな、それはあくまで薄目で見ればの話だ。こっちとあっち、そこには明確な差があるんだ。実際に暮らしてる住人連中は当然ながら誰でも知ってるし、旅の奴らだってほんの少し滞在すればすぐにその厄介な事情に気付くだろうさ。お前たちがどれくらいの間ここにいるのかは知らないが……どのくらいになる?」
「ええと、今日でちょうど——」
エデンは自由市場で過ごした日数を指を折って数え、この地にたどり着いて半月ほどであること、その間は仲仕を務めるラバンという男に世話になりながら荷役に従事していたことを伝える。
話を聞いたマフタは天を仰いで小さく嘆息すると、「知らなくてもいいことを知らずにいさせてくれたのかもな」とどこか含みのある口ぶりで呟いた。
「もう一度聞くけどさ、 お前のその——保護者があえて話さなかったこと、今日会ったばっかの俺なんかが話しちまっていいのか? お前にはもちろん知る権利もあるけど、このまま知らずにいる権利だってある。口滑らせた俺が言えた義理じゃないが、そこはお前が決めてくれると助かる」
「うん——」
重ねて釘を刺すマフタと、その隣で重苦しい表情をたたえるホカホカを順に見やり、エデンは傍らのローカを見下ろす。
小首をかしげて見上げる彼女に首肯を送り、今一度マフタに向き直る。
「聞かせてほしい」と伝えるエデンを前にして、マフタは観念したように話し出した。
「河のこっち側に住んでいる奴らのことを正市民、あっち側に住んでるのは準市民——お偉方連中はそう定めてる。それで建前上は正市民が暮らすこっち側を正市民区、あっち側を準市民区なんて言っちゃいるけど、誰もその名で呼んじゃいない。橋を渡った河のあっち側のこと、こっち側に暮らす奴らは貧民区って呼んでる」
「貧民区……?」
「ああ、そうさ。もっとも——あっち側、こっち側、で十分話は通じるんだけどな」
衝撃のあまり絶句するエデンに対し、マフタは補足するように言い添える。
「こっち側に暮らす正市民は安くない税を納めているが、準市民たちは納税の義務を怠ってる。言い方は良くないが、勝手に住み着いてるって言えばわかりやすいだろう。もともとは芥場——ごみ捨て場だった場所に住み始める連中が出てきて、それでだんだん増えていったのが始まりらしいな」
語られる自由市場という町の仕組みに、エデンは黙って耳を傾ける。
「俺だって差別はしたくない。今はなんとかやりくりできてはいるけど、明日は我が身ってやつだ。行商人の稼ぎなんて、しょせんは水物でしかないからさ。いつ路頭に迷うかもしれない俺たちだ、あっち側に住まざるを得ない奴らの事情も痛いほどわかるよ。けどな——」
小さな翼を固く握り締め、マフタは断固として言い切る。
「——人のものを盗むのは駄目だ。たとえ自分たちが奪われる側だからって、誰かから奪っていい理由になんてならない。悪意ってのはなかなかに執念深い奴でさ、必ず巡り巡って本人のところに返ってくるんだ。初めは小さかったとしても、人の間をぐるぐる渡り歩いているうちにどんどんでかくなって——それで取り返しが付かなくなることも少なくない」
努めて感情を抑えるマフタだったが、語るひと言ひと言には強い心情がこもっている。
自ら進んで故郷のことを語ろうとしなかったアシュヴァルと同じで、彼にも何かしらの事情があるのだろうか
語るマフタをひどく心配そうに見詰めるホカホカだったが、つと視線をエデンに移し、ためらいがちに口を開いた。
「小さな子、だったよねー……」
ホカホカの呟きを受け、マフタもまたやりきれない気持ちを表情ににじませる。
行き場のない思いを「ち」と舌打ちをもって小出しに放出すると、彼は話を再開した。
「正市民として税を払い続ける限り、そいつらは守ってもらえる権利を得る。何か困ったことがあっても、声を上げれば耳を傾けてくれる奴らもいる。旅人連中や俺たちみたいな行商人が悪くない扱いを受けられるのは、少なくない金を落とす金づるだからなんだろうな。……けどな、準市民には守ってくれる相手なんてどこにもいやしない。あっち側にいる限りは何しようと見て見ぬふりだが……こっち側で悪さでもしてみろ、取っ捕まって折檻されたとしても誰も助けちゃくれない。なんだったら——」
そこでいったん言葉を切ったマフタは、眇めた瞳でエデン見据えて言った。
「——殺されても文句は言えないんだ」
「え……!? 殺さ——そ、そんなっ!!」
放たれるにわかには信じ難い言葉に、思わず大声を上げてしまう。
広場を行き交う人々の中には何事かと振り返る者もいたが、誰一人足を止めようとはしなかった。
「お、おい……っ!! 落ち着けって! 例え話だよ!! 何もすぐにそうなるわけじゃないし、そんな物騒なことなんてめったに起こるわけじゃない!! ……ただあれだ、子供の頃から盗みなんてやってたらさ、この先命が幾つあっても足りないって、そう言いたかったんだよ」
自ら話をまとめ、仕切り直すようにせき払いをすると、マフタはエデンとローカを順に見上げる。
「——いいか。エデン、ローカ。言ったそばからなんだが、俺からの老婆心だと思って聞いてくれ。もしお前たちが遠からずこの町を離れるってんなら、今の話はすぐにでも忘れたほうがいい。ここの奴らには、ここの奴らの事情がある。それはそういうものであって、俺やお前たちがどうにかできる問題じゃない。けど……もしもまだこの町にとどまり続ける予定なら、まずはここの在り方を受け入れるんだ。それはそれと割り切って、自分たちの安全と財産を守ることだけに専念しろ。助けてもらった俺らが言うことじゃないけどさ、あんまりよそさまの事情に首突っ込むとやけどしちまうぜ」
ひと通り語り終え、おどけるように肩をすくめてみせるマフタの顔に浮かぶのは、どこか諦観じみた表情だ。
行商人として各地を放浪するうち、これまでも己一人の力ではどうにもならない状況に直面してきたのだろうか。
何も知らない自身と違って、目の前の小さな嘴人がいかに世の習いに通じているのかを、エデンは強く思い知らされた気がした。




