第百二十五話 凸 凹 (だくぼく) Ⅰ
市場のある対岸側に戻るべく、エデンとローカは大河に架かる橋を渡っていた。
たとえ無自覚であったとしても、ラバンと交わした約束を破ったことに対する良心の呵責はエデンの足取りを鉛のように重くさせていた。
ふと傍らを見れば、隣を歩くローカが物言いたげな視線が目に留まる。
橋の中ほど辺りで足を止めて向き合うと、彼女は衣服の袖口に収めた手を伸ばし、エデンの頬を拭った。
袖に付着した微量の血を目にし、自身が頬に傷を負っていたことを知る。
「……ありがとう、ローカ」
努めてさりげなく口角を上げて感謝を述べた。
広場に戻った二人は、茶色の羽毛の小柄な嘴人を捜す。
周辺には茣蓙や籠などを広げて即席の露店を出している行商人たちや、地元の住人であろう人々の姿が多く見られたが、件の嘴人は辺りを少し見回っただけですぐに見つかった。
彼は一人ではなく、別の人物と一緒だった。
同じく嘴人であろうもう一人に向かって、茶色の嘴人は何やら熱心に語り掛けていた。
「なあ、元気出せって。似たようなやつ探してまた買ってやるからさ」
「……でもー、あれは特別なんだー、あれじゃないと駄目なのー……」
「今更そんなこと言っても仕方ないだろ。それにさ、しっかり管理してなかったのはお前なんだから」
「うんー、そうだけどー……」
小柄な茶色の嘴人が業を煮やしたように言うと、もう一人の身体の大きな緑色の嘴人はしゅんと肩を落として項垂れてしまう。
今にも泣き出しそうな表情をたたえてうつむく彼に、茶色の嘴人はもどかしげに言い添えた。
「だろ? だからもう泣くなって。あんまり辛気くさい顔してると、縁も運も逃げちまうぞ?」
声を掛ける時機を逸してしまったエデンは、足を止めて二人の嘴人のやり取りを眺めていた。
顔を見上げ、次いで掌を指さしてみせるローカに無言のうなずきで応えると、二人の嘴人たちの元に向かって歩を進めた。
「あ——っ!!」
近づくエデンに気付いたのだろう、茶色の嘴人は声を上げて小さく飛び跳ねる。
小走りで間近まで駆け寄ってくると、彼はエデンとローカを交互に見上げて口を開いた。
「お、お前ら! なあ、どうだった!? どうなった!?」
「その、これで……よかったのかな」
立て続けに問いを発し、期待と緊張に満ちたまなざしで見上げる嘴人に対し、エデンはいくばくかの気後れを覚えつつ掌の中のものを差し出す。
盗まれたのは大切なものだと彼は語っていた。
ローカが取り返してくれた白いかけらは、どうひいき目に見ても値打ち物には思えない。
もしも見当違いの品を持ち帰ってきたのだとすれば、目の前の人物の期待を裏切ることになるだろう。
茶色の嘴人は爪先立ちになってエデンの手の中をのぞき込む。
その表情が一瞬のうちに固まり、全身が硬直したかのように動かなくなるところを目にし、エデンは抱いていた懸念が的中してしまったことを悟る。
「や、やっぱりこれじゃ——」
恐る恐る口を開こうとした瞬間、掌に添えられた茶色の嘴人の翼につと力がこもる。
直後、一転して顔を明るくさせた彼は勢いよく後方を振り返ると、がくりと肩を落として座り込む緑色の嘴人に向かって大声で叫んだ。
「おい——っ!! ホカホカ!! 来てみろ、こいつらが取り返してきてくれたぞ!!」
何も耳に入らないのだろう、悲嘆に暮れる緑色の嘴人は興奮する茶色の嘴人とは裏腹に、両の翼で顔を覆うようにしてふさぎ込んでしまっている。
肩を揺らして泣き続ける様を見かねたのか、茶色の嘴人は彼の傍らまで駆け戻ると、翼を取って強引にエデンたちのそばまで連れてきた。
「いいから早く来いって、早く早く!!
「ん-、なあにー……?」
翼で目をこすりつつ気抜けしたように呟く緑色の嘴人だったが、エデンの手の中のものに気付くと、たちまち驚きと喜びの色を顔に表して大声を上げる。
「あああああーっ!!!! それー!! それー、おいらの——」
目いっぱいに涙を浮かべ、震える翼を差し伸ばす。
エデンの手から白いかけらを受け取ると、緑色の嘴人はそれを両の翼でさも愛おしそうに包み込む。
しばし感慨にふけるように瞑目したのち、嘴人は潤む瞳でもってエデンを見詰めた。
「これー、きみがー……?」
「自分じゃ——」
「……ありがとー!!!!」
何もしていないと伝えるより早く、緑色の嘴人は声を上げながらエデンの身体を抱き寄せる。
「——じ、自分じゃなくて、ローカが——この子が捜して——くれたんだ」
強く抱き締められながら、傍らの少女の名を呼んで事実を伝える。
嘴人はエデンを解き放したのち、次いでローカの身体を大きな翼で抱き締めた。
「ありがとうー!! ほんとうにー、ありがとうー……」
ほろほろと涙を流しながら、何度も繰り返し感謝を口にする。
「苦しい」
「あー!! ご、ごめんよー……!!」
息を詰まらせたローカのうめきを耳にし、嘴人は慌てて彼女の身体を解放する。
翼を持って涙を拭った彼はエデンとローカを順に見詰め、改めて深々と頭を下げてみせた。
「二人ともー、ありがとうー!! 本当に——ありがとうー!!」
そのあまりの喜びように、おのずと笑みが浮かんでくる。
隣を見てみれば、ローカの表情もいつもより得意げであるように思えなくもない。
滂沱と涙を流して感激する嘴人の姿を前にすると、交わした約束を破ってしまった罪の意識が少しだけ和らぐ気がした。
「本当によかったよ。大切なものだって、聞いてたから」
問題は先送りにしたに過ぎなかったが、ひとまずは安堵に胸をなで下ろす。
「大切な……ものー?」
緑色の嘴人は小首をかしげるようにしてエデンを見詰め、いかにも不思議そうに繰り返す。
「うん。彼からそう聞いて——」
「……お、お前っ!! よ、余計なこと言うんじゃ……!!」
割り込むようにして声を上げる茶色の嘴人だったが、緑色の嘴人の潤んだ瞳に見詰められ、はたと言葉を詰まらせる。
「マフタ、さっきはあんなのーってー、それに新しいやつ買えばいいーってー……」
「う、うるさいな……!! こうして返ってきたんだから、そんなことはどうでもいいだろっ!!」
茶色の嘴人は小さな翼を胸の前で組み、大げさなしぐさで顔を背けてしまう。
緑色の嘴人はそんな反応に構うことなく、小柄な身体を強引に引き寄せる。
「マフタもー、ありがとー!!」
「や、やめろよ……! おい、お前!! こんな人前で——おいっ!!」
激しく身をよじって抵抗を示す茶色の嘴人だが、感極まった様子の緑色の嘴人は左右の翼をもってより強く彼の身体を抱き締めた。




