第百二十四話 越 境 (えっきょう)
「な、なんだよ……! お前ら……!」
獣人らしき人物は長く伸びた上下一対四本の前歯をむき出しにし、食って掛かるように言った。
今にも飛び掛かってきそうな勢いに、思わず尻込みを覚えそうになる。
「き、君は——」
獣人であることの証である灰褐色の被毛は波打つように逆毛立ち、丸みを帯びた鼻先から伸びる洞毛は周囲を警戒するかのように小刻みに動いている。
頭部に頂く円形の耳が一音も聞き漏らさじと反り立てば、鞭を思わせるそこだけ被毛を欠いた細く長い尾は憤りを表すようにゆらゆらと揺れ動いていた。
「——こ、子供……?」
知らずのうち、思ったことを口に出していた。
世界に無数に存在するという種の中には、成熟しても身体が小さいままの者たちも多く存在することは聞いている。
先ほどの茶褐色の羽毛の嘴人はおそらくその部類だが、目の前の獣人がそこに該当しないであろうことが直感的に感じ取れる。
人ごとではないどこか危うさを感じる振る舞いも、声音も口調も、明らかに年端のいかない子供のそれだった。
「子供で悪いかよ!? だったらなんだってんだ!」
獣人の少年は感情をあらわに吐き捨て、エデンをぎろりとにらみ付ける。
憤りに満ちた視線は子供にしてはあまりに鋭く、気を抜けば怖気づきそうになるほどだった。
だが、このまま引き下がっては、力の行使を申し出てくれたローカの思いを徒労に終わらせることになる。
加えて、もしも目の前の少年が本当に先ほどの嘴人の所持品を奪った相手ならば、見つけてくると約束した以上はここで見過ごすわけにはいかない。
「き、君、さっきまで市場のほうに——」
「なんだよ!! 知らないって!!」
尋ねるエデンを遮り、獣人の少年はひどくいら立った様子で声を荒らげる。
続けてエデンとローカの二人に交互に視線を走らせた彼は、重大な変事に気付きでもしたかのように表情を硬直させた。
「お、お前らの、その顔……」
「顔が——どうしたの?」
目を見開いて呟く少年に対し、エデンは今一度問い掛ける。
だが、少年は質問に答えることなく、自らの周章の度をごまかすように声を張った。
「……な、なんでもいいだろ!? それより、何しに来たんだよ! 向こう側のやつらがさ——!!」
「向こう——側……?」
少年の口にした、聞き覚えのある単語を繰り返す。
エデンの反応がよほど意想外だったのか、少年の顔にあきれとも怒りとも付かぬ色が浮かぶ。
「お前、よそ者かよ!! よそ者がのこのここっち来るな!! 何も知らないくせに——!!」
一段と語気を強める少年を相手にして、エデンは気後れを自覚していた。
恐怖心に由来するものかと内観するが、湧き上がる恐れ以上に心を動かすのはそれとはまた別の感情だ。
部外者が余計な騒ぎに首を突っ込んでいるだけなのかもしれないという躊躇の念に襲われるとともに、少年の憤りの裏に垣間見える悲哀の相が心を激しく揺さぶった。
胸の内に生じた迷いが判断を鈍らせたのだろう、エデンは少年が地面を蹴って走り出す瞬間を見逃してしまっていた。
「……ま、待って!!」
とっさに声を掛けるが、当然ながら少年の足は止まらない。
だが、袋小路の行き止まりを取って返す彼の行く手に立ちはだかったのは、先ほどまで傍らにいたはずのローカだった。
進ませまいとして両手を広げた彼女は、頭部の毛の合間からのぞく片方の瞳で少年をじっと見据える。
そして、静かだが断固たる口調で告げた。
「返して」
端的な物言いと冷然と光る視線に気おされたのか、獣人の少年は彼女から距離を取るように一歩、二歩と後ずさる。
「こ……こんなもん——」
怯えといら立ちの入り交じった口調で言い捨てると、何かを握り込んでいるであろう掌を頭上高く振りかざす。
「——いるもんかっ!!」
声を上げて手の中のものを地面にたたき付けるようなそぶりを見せる少年だったが、その腕は最後まで振り下ろされることはなかった。
変わらず視線を投げ掛け続けるローカをちらりと一瞥したのち、彼は中空に静止していた腕を力なく弛緩させる。
次いで指を開いて掌の中を一瞥すると、ローカに向かって何か小さなものを下手に放り投げた。
山なりの軌跡を描いて飛んだそれは折よくローカの両手に収まったが、隙を突いて駆け出した少年は二人の脇をすり抜けるようにして走り去ってしまった。
後を追うべきか否かを逡巡するが、この場は盗まれたものを取り戻すことができただけで十分だと判断を下す。
深いため息とともに少年が姿を消した先を眺めたのち、傍らのローカへと視線を移す。
自らの掌をまじまじと見下ろすローカに倣って、エデンも彼女の手の中のものに目を落とした。
「こ、これが——」
あぜんとして呟き、ローカの掌から小さな白いかけらをつまみ上げる。
「——これが、大切なもの? ……あ、もしかして——」
不意に頭をよぎるのは、自身が大きな失態を演じてしまった可能性だ。
白いかけらは小柄な嘴人の捜していたものなどではなく、本物の「大切なもの」は少年に持ち逃げされてしまったとも考えられる。
つまみ上げた白いかけらを矯めつ眇めつ眺めるが、いくら甘く見積もってみても価値のある貴石や宝石の類いには見えないからだ。
当然ながら少年の姿は辺りになく、改めて捜すとなれば再びローカの力を借りる必要がある。
今一度白いかけらを空にかざすようにして眺めたのち、エデンはローカに向かって若干気落ちしたように告げた。
「一度戻ろうか。もしかしたら、本当にこれが捜し物なのかもしれないし。——ありがとう、ローカ」
声を掛けて帰途に就こうとしたところ、エデンは小さな物音を聞き留める。
はたと顔を上げて周囲を見回せば、少なくない数の視線が自分たち二人に注がれていることに気付く。
建物の陰からのぞき見る者、屋根の上から見下ろす者、行く手を遮るように立つ者。
全員ともに同じ種なのだろう、先ほど逃げ去った少年と似通った姿の子供たちだった。
「じ、自分たちに用かな……?」
尋ねてみても答えは返ってこない。
それどころか、食い入るように見詰める視線がより強い疑念の色に染まった気さえする。
本能が告げるままに身構え、ローカを背にかばう形で後ずさろうとしたところ、不意に感じた気配に足元を見下ろす。
目に映ったのは知らぬうちに忍び寄って剣の鞘に触れる、ひときわ幼い子供の姿だった。
「……な、何をして——」
ローカの手を握り、剣に手を伸ばす子供から逃げるように距離を取る。
「——痛っ……!」
直後、どこかからか飛来した小石が頬をかすめる。
石の飛んできた方向をとっさに見上げれば、塀の上では一人の子供が掌の中の小石をもてあそんでいた。
塀の上の子供と目が合った次の瞬間には、エデンはローカの手を取って走り出していた。
子供たちの間をかいくぐるようにして路地を抜け出し、前だけを見てひたすらに走り続ける。
見通しのよい場所までたどり着いたところで足を止め、振り返って後方を顧みる。
誰も追い掛けてきていないことを確認したのち、肩を落として安堵のため息をついた。
「——はあ、よかった……」
人心地ついたのもつかの間、瞬間的に感じ取ったのは辺りに漂う異様な雰囲気だ。
ローカの後を追って無心で走っていたときはわからなかったが、気付かないうちに大通りから遠く離れた見知らぬ場所に迷い込んでしまっていたようだ。
人々の暮らす家屋だろうか、周囲に見える建物は大通り周辺の住宅街とは大きく様相が異なり、壊れた木材に布切れを巻き付けて建てたそれらは、とても住居とは呼べないような代物だった。
建物の間にはごみや瓦礫などが足の踏み場もないほどに散乱し、水はけの悪い路地は人が歩くたびに濁った飛沫を上げている。
屋内屋外問わず、そこここに襤褸をまとった人々が力なく座り込んでおり、胡乱な視線を投げ掛けてくる。
思い返せば先に出会った少年も、その後に遭遇した子供たちも、身に着けた衣服はあちこちが擦り切れ、色あせ、ちぎれていた。
直感的に危険を察知したエデンは、休む間もなくローカの手を引いて走り出す。
今にも崩れ落ちそうな家々の間を必死に走り抜けると、眼前に広がる大河に行き当たった。
「ここは……」
視線の先にあるのは、日々の水浴びを行う河辺だった。
見慣れた護岸の景色を遠く対岸に認めたのち、大河に架かる一本の橋を視界に捉える。
その段になってようやく、先を行くローカを追って走るうちに河の反対側までやって来てしまっていたことに思い至る。
それはラバンと交わした約束を、「絶対に河の向こうに行くな」という戒めを破ったことを意味していた。




