第百二十三話 追 駆 (ついく)
「——わ、悪い、よそ見してた」
呟いておもむろに身を起こしたのは、一見すると丸い塊のような姿の人物だった。
腰をさすりながら立ち上がる様を見て、エデンは目の前の人物が嘴人であることを理解する。
既知の嘴人とは大きく外見を異にするものの、楕円形の身体に乗った頭部からは細く長い嘴が突き出ていたからだ。
濃い茶色の羽毛に包まれた体躯は極めて小柄で、背丈はエデンの膝上ほどしかなかった。
胴の脇からはその名で呼ぶにはあまりに小さな翼が伸びており、身を起こした嘴人は左右のそれで頭を抱えるようにして声を上げた。
「あああああ、しまった!! 見失っちまったー!!」
天に向かって悲痛な叫びを発したかと思うと、小柄な嘴人は尻もちをついたままのエデンの元に駆け寄ってくる。
「なあ、どっち行った!? あいつ、どっち行った!?」
「あいつ……? あいつって——」
必死の形相で詰め寄る嘴人の問いを、意図をのみ込めないままに繰り返す。
「そうだよ、あいつだよ!! 泥棒の奴、こっちに逃げてきただろ!? どっち行ったか教えてくれ!! 頼む、大切なものなんだ!!」
ぐいぐいと押し込むように膝の間に割り入った嘴人は、顔に嘴の先が触れんばかりの距離で言い立てる。
「……ご、ごめん、こっちのほうに走ってきたのは見たけど、そこから先は——」
小柄な嘴人の探す「あいつ」が、自身とローカの間を擦り抜けるようにして走り去っていった何者かであることは理解したが、どこに向かったかまではさすがにわからない。
勢いにのまれつつも正直に事情を告げると、嘴人は意気消沈したようにがくりと肩を落とし、足の間から抜け出した。
「……そうか、そうだよな。こっちこそ悪かった」
気の毒なほどに落ち込んだ様子でエデンのそばを離れると、嘴人は付近の人々に対して同じように聞き込みを始める。
「泥棒だよ、見てないか?」「なあ、俺ぐらいの背丈の奴で——」「頼むよ、見てたら教えてくれ!」
往来を行き交う通行人や広場で憩う人々に対して次々と声を掛けるが、「あいつ」に結び付く手掛かりはなかなか得られない様子だった。
それどころか足元を動き回る小柄な影に気付かず、蹴飛ばしてしまいそうになる者も少なくない。
ついには急ぎ足で道を歩んでいた通行人に蹴飛ばされ、嘴人は再び毬のように転がった。
「——だ、大丈夫!?」
あまりに気の毒な様相を黙って見ていられず、エデンは小柄な嘴人の元に駆け寄っていた。
膝を突いて手を差し出せば、嘴人も小さな翼を伸ばし返す。
「……俺なら大丈夫だ。気を使わせたな」
その身を引き起こしたところで、エデンは裾を引かれる感覚を覚える。
振り返って目にしたのは、見上げる少女の物言いたげな表情だった。
「ローカ、探してくれるの……?」
「ん」
言わんところを即座に理解し、確認するように呟くエデンに力強くうなずきを返すと、少女はおもむろに目を閉じた。
「お、おい、どうしたんだ……? なんなんだ——!?」
一人状況のわからない嘴人だけが、困惑の表情を浮かべてエデンとローカを交互に見やる。
「こっち」
「ま、待って! ローカ——」
数秒の間を置いて目を見開くと、ローカは一人先に走り出した。
慌てて彼女の背を追ったエデンは、数歩走ったところで立ち止まって後方を振り返る。
「——捜してみる!! 見つけられるかはわからないけど、少し待ってて!!」
訳がわからないといった様子でぼうぜんと立ち尽くす嘴人に向かって叫ぶと、再びローカを負って走り出す。
進むべき道筋が見えているのだろう、雑踏の間を擦り抜けて走る彼女を追うのは至難の業だった。
それでも見失うわけにはいかないと、必死にその背に食らい付く。
露店の並ぶ大通りを抜け、そこから続く狭い路地を突っ切って走る。
幾度となく通行人と接触しそうになり、そのたびに「ごめん」と謝罪を口にしながら通り過ぎた。
数分にわたって走り続けたところで、視線の先で少女が立ち止まる様子を捉える。
ようやく追い付くことのできたエデンは、彼女の隣に並ぶようにして足を止めた。
「ローカ……急に……走るから——」
膝に手を置いて身を屈め、激しく肩を上下させて乱れた呼吸を整える。
気息の落ち着きを待って顔を上げると、前方を見据えるローカの横顔が目に映る。
わずかに息遣いを乱してはいたが、まじろぎもしない目が凝然と見詰める先を追ったエデンが見たのは、一人の獣人らしき人物の姿だった。
先ほど数言を交わした小柄な嘴人と同程度の小柄な身体の持ち主は、路地の突き当たりに背を向け、憎々しげに少年と少女をにらみ付けていた。




