第百二十二話 聖 痕 (せいこん)
二人押し黙ったまま、エデンとローカは装飾品を扱う区画を後にした。
食料品区に立ち寄って二人分の食事を買い求め、大通りからやや離れた場所にある広場へと足を向ける。
休息のひと時を過ごす人々に交じって地面に腰を下ろすと、エデンはまだ温かい揚げ麺麭を隣に座る少女に手渡した。
ぎこちない雰囲気の中、二人して黙々と食事を進める。
日頃から無口なローカだが、彼女のまとう沈黙が普段とは異なる意味を持っているように思えてならない。
先ほど目の当たりにした明らかな拒絶の意に、エデンは自身でも意外なほど大きな衝撃を覚えていた。
広場に向かって歩を進めていた際、自分なりに原因に考えを巡らせた。
たどり着いたのは、ローカは傷痕の残る首に触れられることを嫌ったのではないだろうかという推論だった。
装飾と束縛——用途に天と地ほどの差はあれど、長きにわたって己を縛り付けていた首輪と似た形状のそれを身に着けることは、彼女にとって忌避すべき行為だったに違いない。
そのことに気付けず、半ば強引に首飾りを押し付けた。
ラヘルからの依頼だったとはいえ、それが本当にローカのためであるのかを自らの頭で勘案することなく行動に移したのは事実だ。
考えを巡らせるうち、改めて深い後悔と自責の念が交錯していた。
一切の言葉を交わすことなく、二人は食事を終える。
半ば無意識に揚げ麺麭の包み紙を受け取って衣嚢へ突っ込んだのち、エデンは意を決して彼女に向き直る。
居住まいを正し、両手を膝の上に乗せ、深々と頭を下げながら謝罪の言葉を口にした。
「ローカ……! その、勝手なことをしてごめん——!!」
少女もまた身体ごと向き直ったことで、二人は膝を突き合わせる形になる。
表情を覆い隠すように伸びる頭部の毛の、その隙間からのぞく右目がじっとエデンを見据えていた。
「い、嫌だったんだよね、あれ——首飾り。き、気がつかなくて、本当にごめん……!!」
謝罪の言葉を口にし、顔を伏せて下唇を固く噛み締める。
考えれば考えるほど、自らの行動が配慮に欠けたものであったと再認識させられる。
膝の上に置いた拳を力いっぱい握り締め、目を閉じて反応を待った。
責めるでもとがめるでもなく、少女は無言のままエデンの両手に触れる。
「ローカ……?」
そして手首を握って持ち上げたエデンの手を、引き込むようにして自らの首にあてがってみせた。
少女の取った思いも寄らない行動に、少年はかつてないほどの当惑を覚える。
「ロ、ローカ!? ……な、なな……何して——」
武骨な鉄の輪に縛られ続けてきたか細い首には、ぐるりとひと巡りする形で傷痕が残っていた。
間近で目にし、手でもって触れることで、蝋のように白い肌の上に刻まれる赤黒く変色した傷痕の痛ましさを改めて思い知らされる。
自らの首にエデンの手を押し当てたまま、ローカは静かに口を開いた。
「隠さなくていい。ぜんぶ——わたしのもの」
いつか、彼女が口にした言葉を思い出す。
彪人の里を発ってまだ間もない頃、ローカは足に生じた傷をさすり、痛みは自分のものだと語った。
思えば目覚めて以降に体験した幾つかの記憶も、痛みとともにあることをエデンは認識する。
初めて挑む鉱山の仕事は、身体のあちこちに浅からぬ傷痕を刻み付けた。
少女と共に逃げ続けた数日間は、心身に深い疲労と痛苦をもたらした。
新たな地で過ごす日々の中でそのことを忘れてしまっていたのは、痛みを乗り越えた先に、それ以上の意味と価値が待っていたからだ。
「自分の……もの——」
呟き、掌に目を落とす。
負って癒えてを繰り返し、硬くなった掌をじっと見詰める。
重大な思い違いをしていたのかもしれない。
彼女が首に触れられることを嫌がっていたわけでも、鉄の首輪に似た首飾りを身に着けることを避けていたわけでもなかったとしたらどうだろう。
自らの送ってきた過酷な半生を歩みの一部として受け入れていることは、共に過ごした短くない時間の中で少しずつ知るに至った。
受け入れざるを得なかったというほうが妥当かもしれないが、傷と痛みの全てが今のローカを形作っていることは間違いないだろう。
傷痕という目に見える上辺のみに気を取られ、彼女の抱く思いを大きく見誤っていた。
首飾りを身に着け、傷痕を覆い隠したとしても、過去が全て消えるわけではない。
たとえ周囲から傷痕を見えなくしたとしても、心の内に刻まれた傷を跡形なく消し去ることなどできないのだ。
もしも彼女のためにできることがあるとすれば、それは傷や痛みを押し隠し、見えなくすることではない。
共に歩み、未来に新たな足跡を刻むことなのかもしれない。
「ローカ、あのね——」
ラヘルから受けた頼み事の内容を語って聞かせた。
併せて、彼女が見たくないからという理由で、傷を隠そうとしていたわけではないことを説明する。
ラヘルはただ純粋にローカの今を思い、人の間で幸福に生きることを望んでくれている。
あえて言うまでもなく、ローカも彼女の思いを十二分に理解していた。
隠すための首飾りは要らない、ラヘルの作る首飾りは欲しいと、ローカは言葉少なに語る。
「帰ろう。帰ってラヘルに伝えよう」
先んじて立ち上がったエデンは、下方に向かって手を伸ばす。
小さくうなずくと、ローカもまた差し出された手をつかもうと手を伸ばした。
二人の手がつながれんとした瞬間、その間を小さな人影が通り抜けていく。
「わっ——!?」
エデンは思わず後ずさり、ローカもとっさに手を引っ込める。
「——な、なんだったの……?」
風を切って通り過ぎた人影を追って周囲に視線を巡らせる中、今度は足元に何かがぶつかる強い衝撃を覚える。
「う、うわあっ……!!」
エデンは足を取られて転倒し、勢いよく衝突してきた何かも、はじかれたように転がった。
「いたた——」
腰を打った痛みに声を漏らすエデンを、ローカは心配げな顔で見下ろす。
「だ、大丈夫……! 自分は大丈夫だよ、それよりも——」
答えて身を起こしたエデンは足元に衝突したものの正体を探るべく、その転がった先を目で追った。




