第百十九話 同 居 (どうご) Ⅲ
ラバンに連れられて向かった先は昨日の荷付け場ではなく、市場に沿って流れる大河の河べりだった。
河へ続く護岸を中ほどまで下った彼は首を長く伸ばし、遠く上流の方向を見据える。
「まだ時間がかかりそうだ。少し待とう」
言って座り込むラバンに倣い、エデンもその隣に腰を下ろす。
何を待っているのかについての説明がなされることはなかったが、あえて尋ねることはせずに無言で時が来るのを待つ。
ふと周囲を眺め渡せば、河へ続く階段状の護岸のあちらこちらに人々のさまざまな営みが見て取れる。
中でも水に身を沈め、祈りをささげる者たちの姿が昨日よりも目立つような気がした。
思い思いに過ごす人々の様子を眺めていたエデンは、傍らのラバンの見慣れないしぐさに目を留める。
どこかで拾ったであろう小枝を掌中に握り込んだ彼は、真っすぐに伸ばした腕を視線の先に突き出していた。
「ラバン、何して——」
「来たぞ」
片目を閉じて対岸を見詰めるラバンに声を掛けようとした矢先、彼は手の中の小枝を放り出して立ち上がる。
大河の上流を見据えたラバン視線の先をたどったエデンの目に、河を下ってやって来る数艘の船が飛び込んでくる。
何をしていたのかは聞けずじまいのまま、エデンは歩き出した彼の後を追って護岸を水際まで下っていった。
気付けば辺りにはラバンの同業者である仲仕たちが集結しており、中には昨日見た顔もあった。
荷物を積んだ平底の艀船が舵を切って河岸に船体を寄せると、ラバンは船員によって投げ放たれた縄を河べりに設けられた杭に手早く巻き付ける。
艀船が係留されたと認めるや仲仕たちは次々に甲板に飛び乗り、着々と荷物を降ろしていく。
エデンも皆に倣って揺れる甲板に乗り移ると、自らの身の丈に合った荷物を選んでひとつずつ運び出していった。
荷物を降ろし終えた船は櫂を操って器用に船首を返し、対岸に降り立った船員たちに縄を引かれて河を遡上していく。
生じた隙間には上流で投錨して着岸を待っていた船が収まり、仲仕たちは作業の手を止めることなく続けて荷物の陸揚げを行った。
荷降ろしを終えると、今度は積み上がった荷物の山を運ぶ作業が待っている。
エデンが荷物を抱えて階段を上るのに四苦八苦している他方で、ラバンをはじめとした仲仕たちは慣れた様子で次々と荷物を運んでいく。
自らの身体ほどもある木箱を抱え、あるいは穀物の詰まった麻袋を数袋も肩に担ぎ、仲仕たちは河辺と指定の場所を往復した。
幾度かの休憩を挟み、作業は日が沈み始める頃まで続けられる。
一艘残らず船が去り、積み上がっていた荷物がなくなると、仲仕たちは荷主から給金を受け取りそれぞれ河辺を去っていった。
一日の仕事を終えたエデンは、力なく護岸に座り込んでいた。
「疲れたか」
「……うん、少しだけ」
見下ろして問うラバンを身を傾けて仰ぎ見る。
苦笑いをを浮かべて答えると、彼もまたその場に隣に腰を下ろした。
「よくやる。見掛けによらず大したものだ」
「そ、そうかな。——ありがとう」
二人並んで座り込み、夕映えの空を映す銅色の河面に視線を落とす。
「どこかで力仕事でもしていたのか」
「うん。少し——だけ」
視線を据えたまま問うラバンに、エデンは鉱山の町で半年間ほど抗夫をしていたことを告げた。
だが、このまま語れば話題が自らの事情に及ぶと気付き、横目でラバンの表情をうかがう。
「ええと、これは話さないほうが……」
「構わない。お前がいいなら」
ラバンの許可が得られたため、引き続き自身が抗夫として働くに至った事情を話して聞かせる。
鉱山にたどり着くより以前の記憶がないこと、続けて彼女の身の上は避けた上でローカとの出会いを語り、出自と由来を求めて旅に出たことを語った。
「……それで、みんながいたから何とかやってこれたんだ。アシュヴァルが——ええと、アシュヴァルっていうのは自分を拾ってくれた恩人で……兄弟みたいな——」
不意に胸の奥から込み上げる思いを唇を引き結ぶようにしてのみ込む。
「——自分は、みんなとローカがいてくれたから頑張れたんだと思う。あのまま一人だったら、きっと今の自分はないんだ。だから自分も……ローカと自分自身のことぐらいは、ちゃんと守れるようになりたいな——って」
「そうか」
エデンの語る話に黙って耳を傾けていたラバンは、最後にたったひと言だけそう呟く。
何かを口にするでもなく、立ち上がるでもなく、彼は無言で河面を見詰め続ける。
この地に至るまでの歩みをひと通り伝え終えたエデンもまた、ラバンに倣って河面に視線を落としていた。
大河の流れる音だけを聞き続けた数分ののち、不意に口を開いたのはラバンのほうだった。
「昔はこの市場にも今より多くの仲仕たちがいた。隊商が着いたと知れば、同業者同士で仕事を取り合ったものだが、連中の大半はさらなる稼ぎを求めてこの地を離れていった。一攫千金を狙い、お前のいたという鉱山へ向かった連中も何人か知っている」
ふとラバンの口から飛び出した鉱山の話題にエデンは軽い驚きを覚える。
だが、それも筋の通った話とすぐに思い至ることができたのは、金を必要とする者が実入りのいい仕事を求めるのは必然だと知っているからだ。
誰よりも金銭を欲していたあのときの自分が、より多くを稼げる仕事の話を耳にしていたとしたら、おそらく一も二もなく飛び付いていたに違いない。
「ラバンは鉱山に行こうって思ったことは——」
尋ねようとし、はたと言葉を詰まらせる。
鉱山の麓の町から彪人の里、彪人の里から自由市場までの厳しい道中を振り返る。
堅強なラバンにとっては他愛もない道のりだろうが、同行者がいるとすればその限りではない。
「——そ、その……」
言いよどんでしまうエデンを横目に一瞥するも、ラバンは特に気を悪くした様子もなく口を開いた。
「俺はこの自由市場という場所が殊の外気に入っている。富も貧も、貴も賤も、浄も穢も——生も死も余さずのみ込み押し流す大河とともに生きる、この町での暮らしがな。出ていこうなどと考えたこともない。これからも考えることはないだろう。大河の水を産湯代わりに育った者たちと同じように、死したのちは灰になってこの河に還りたいと願っている。ラヘルも——きっと同じ思いだ」
言って立ち上がった彼は、傍らのエデンを見下ろして言う。
「帰るとしよう。あまり待たせるのもな」
「……うん」
エデンが身を起こしたときには、ラバンはすでに先立って歩き出していた。




