第十一話 蹉 跌 (さてつ) Ⅰ
転びそうになるたび、アシュヴァルに身を支えてもらいながら山を下りる。
昨日も訪れた酒場に到着すると、主人と給仕は傷だらけの少年を目にして前日以上の驚きの表情を浮かべていた。
食事ができあがるまでの間、傷の手当てをしてくれたのは給仕の女だ。
「なんであたしが……」とぶつくさと文句を言いつつも、衣服を脱がし、身体を拭き、薬を塗ってくれる。
その手つきは配膳の手際同様に極めて雑であり、手当てが終わるまでに幾度となくうめき声を漏らすこととなった。
上げられる悲鳴に一切耳を傾けることなく治療を続けた彼女が仕上げとばかりに背中をたたくのと、主人の料理が出来上がるのはほぼ同時だった。
疲労感と安心感からか、食事をしながら何度も眠りに落ちそうになる。
アシュヴァルはそのまま眠ってしまっても構わないと言ってくれたが、気を張って懸命に眠気にあらがった。
きっとここで眠り込んでしまったら、彼はまたその背に自身を負ってくれるだろう。
アシュヴァルの言ってくれたようにこれが最初の一歩であるなら、せめて今日は最後まで己の足で立っていたい。
食事を済ませたのち、二人は衣服一式を用立ててもらった仕立屋を再訪する。
まず店主に対してしたのは、せっかく用意してもらった衣服を一日で駄目にしてしまったことへの謝罪だった。
次いでアシュヴァルの勧めにより、洗い替え用に同じ上下を二組、追加で作業用の厚手の一着を用意してもらう。
部屋に帰っては泥のように眠り、翌朝もアシュヴァルと共に鉱山に向かった。
◇
「今日は昨日よりも——もっと頑張るから……!!」
イニワが坑道の入り口で待ってくれていたため、持ち場に向かうアシュヴァルとはいったんそこで別れる。
勢い込む少年を見下ろし、イニワは無言でうなずいた。
イニワに連れられて坑道を下ったのち、角燈とともに昨日の背負い籠とはまた別の道具を貸し与えられる。
それは昨日彼や他の坑夫たちが振るっていた十字鍬だった。
左右に細く張り出した鉄製の頭部を、木製の柄に据え付けた採掘のための道具だ。
体格に合わせて用意してくれたであろう小さめの十字鍬を、少年は両手で固く握り締めた。
イニワから十字鍬の扱いを習い、教えられた通りにそれを振るって岩を削ろうと試みる。
しかし少年の力では思うように硬い岩盤を砕くことはできず、それどころか数度振るっただけで掌にまめができてしまった。
痛みに耐えながら無心で十字鍬を振り続けるが、採掘の作業は気概だけでどうにかなるほど生半なものではない。
十字鍬の柄を通して伝わる振動と衝撃、そこに癒え切らない昨日からの疲労も相まって徐々に意識が遠のいていく感覚を覚える。
気が付いたときにはすでに遅く、そのまま失神するように倒れ込んでしまっていた。
◇
「——っ!!」
仰臥の姿勢から勢いよく上半身を起こす。
朦朧とする意識の中で取り落としてしまったであろう十字鍬を捜すが、周囲のどこにも見当たらない。
それもそのはず、目覚めた場所は坑道深くの採掘場所などではなく、アシュヴァルの暮らす長屋の寝台の上だった。
「おう。起きたか」
窓際の椅子に腰掛けていたアシュヴァルはそう言って立ち上がり、普段と変わらない口ぶりで具合を尋ねる。
「気分はどうだ、大丈夫そうか?」
「——うん、じ、自分は……」
呟きつつ開け放たれた窓から外を眺めれば、空の色からすでに夕暮れ時であることが見て取れる。
求めるような視線に応じてアシュヴァルが話してくれたのは、自身が昼休憩を待たずして気を失ってしまったという事実だった。
すぐに異変に気付いたイニワが坑道から担ぎ出し、医者の元に運んでくれたらしい。
その後は知らせを受けて自らの仕事を切り上げたアシュヴァルが身柄を引き取り、この部屋まで連れ帰ってくれたのだという。
「……ごめん。また迷惑を掛けちゃった。それに今日も——何もできなかった……」
謝罪の言葉を口にして力なく肩を落とす少年を見下ろすと、寝台の傍らに立ったアシュヴァルは一笑に付しでもするかのように言う。
「そう気を落とすなって。なんでも初めからうまくできる奴なんていねえよ。誰だってそういうもんだ。できねえこともよ、ちょっとずつできるようになればいいじゃねえか」
アシュヴァルは少年の頭をなで回しながら、からからと豪快に笑う。
「昨日で一歩。今日で半歩戻っちまったって思うなら、また明日一歩だ。少しずつ進んでいこうぜ。そうだ、少しずつ強く——」
そこまで聞いたところで、頭をなでるアシュヴァルの手が動きを止めたことに気付く。
「アシュヴァル……?」
「ん……ああ。——なんでもねえよ、なんでも!」
見上げる少年には、その表情がわずかにこわばっているように映る。
取り繕うように言ったのち、アシュヴァルは仕切り直しとばかりに続けた。
「さてと、ようやっと起きたことだし飯にするか! なんか適当に買ってきてやるからお前は休んでろよ」
「じ、自分も行くよ……! 」
部屋を出ていこうとする彼を追って少年は寝台からはい出す。
転げ落ちそうになるところをこらえて立ち上がり、振り返ったアシュヴァルの前に進み出た。
まだ足元がふらつく感覚は残っていたが、歩けないほどではない。
「いいからお前はここで待ってろって」
いら立ち交じりに言って寝台へ押し返そうとするアシュヴァルだったが、少年は左右に大きく首を振って不承知を示した。
「大丈夫だから……! 半日休んでよくなったと思うし、それに——」
「それに——なんだよ」
「それに……」
首をさすりつつ、あきれたように言うアシュヴァルを見上げて答える。
眠っている間に巻いてもらったであろう掌の包帯に目を落とし、次いで左右十本の指の動きを確かめるように、曲げ伸ばしを繰り返した。
「何も持っていなくて、何も覚えていなくて、何も——できなくて。それで何もしようとしなければ、本当に何もなくなっちゃう気がするんだ。だから——その……こうして身体が動かせて、言葉も話せて、新しいことを覚えられているってことは本当に有り難いことなんだなって思って……」
掌からアシュヴァルの顔へと視線を移し、気負い立ったように言う。
「もう少しだけ試してみたいんだ……! もちろんイニワが許してくれるならだけど、自分にできることがあるのか……それとも本当に何もないのか——」
自分自身で言っておきながら落ち込みそうになり、慌てて左右に頭を振る。
見上げる少年のすがるような視線を受け、アシュヴァルは心底あきれ果てた様子で深々とため息をついた。
「あー!! もう、わかったよ、わかったって! 面倒くさいだけじゃなくて結構頑固なんだな——お前って。だんだんわかってきたぜ!」
天井を見上げて声を上げると、アシュヴァルは立てた指先で頭部の被毛を荒々しくかきむしりながら言う。
続けて彼は喉を鳴らして笑い、握った拳でそっと少年の肩を突いた。
「わっ……!?」
一歩二歩と後ずさり、そのまま寝台に腰をつく。
「明日のことはまた明日だ。取りあえず今日のところは休んでろ。飯食ってしっかり寝て……んで朝になったら動けそうかどうかは俺が判断してやる」
そこまでひと息で言い切ると、少年に向かって指先を突き付けた彼は念を押すように言った。
「そこから動くなよ。俺が帰ってくるまで寝てろ」
「う、うん……!」
答えて首を上下させる様を認めて満足げに鼻息を漏らしたのち、アシュヴァルは部屋の外へと出ていった。
その帰りを待つ間、再び浅い眠りに落ちる。
三十分ほどが経って聞こえてきたのは、立て付けの悪い戸をがたがたと開ける音とそれに対して「んだよ」と文句をつけるアシュヴァルの声だ。
跳ね起きるようにして寝台を飛び出し、少年は彼の帰りを出迎えた。




