第百十七話 同 居 (どうご) Ⅰ
「今帰った」
三度路地裏の小路を歩み、ラバンとラヘルの住む家へと帰ってくる。
帰宅を告げて扉を開くラバンを追って屋内に足を踏み入れるエデンだったが、数歩進んだところで何かにぶつかって足を止める。
「わ——」
顔を打ち付けたのがラバンの背だと気付くと、エデンは鼻先をさすりながら一歩後ずさった。
見れば彼は土間の半ば辺りで足を止めており、調理場の方向を見据えている。
その視線の先を追ったエデンが見たのは、竈に掛けられた昨日のものとは異なる形状の鍋だった。
銀色をした壺のような鍋は、上部にくびれを有した独特の形状を有している。
壺状の鍋にじっと見入るラバンの背に向かって声を掛けようとするエデンだったが、口を開く寸前、不意に耳に飛び込んできたのはラヘルのものであろう笑い声だった。
「うふふふ、もう——!」
急ぎ足でもって歩み出すラバンに続いて奥の寝室に向かったエデンの目に映るのは、なぜそんな状況になったのかはわからないが、全身に糸を巻き付けてもがくローカの姿だ。
じたばたと身をよじらせるほど、糸はより複雑に絡まり合って彼女の身を縛り付ける。
窮状から抜け出せずにいる少女を前にして寝台の上のラヘルは身を折り、腹を抱えるようにして笑っていた。
「……ふふ——ラバン、ふふふ——お帰りなさい……! ——ふふふ」
ラバンとエデン、二人が戻ったことに気付いたのか、ラヘルは懸命に笑いをこらえながら口を開いた。
「……んー」
少女は身体中に糸を巻き付けたまま駆け寄り、助けを求めるように見上げてくる。
「ローカ、これ……どうしちゃったの?」
疑問を口にしつつも、もつれて絡まった糸を一本一本丁寧に解きほぐしていく。
ラヘルの膝の上に朝も目にした木の板と糸が乗っていることから、ある程度は事ここに至った経緯が想像できる。
おそらくローカが編み物に興味を抱き、ラヘルから手ほどきを受けていたのだろう。
だが、どれほど不器用に立ち回ればここまでひどい状況になるのかについては、まったく見当が付かなかった。
「……ふふふ、エデンもご苦労さま。……お腹すいたでしょう、お食事用意するわね——ふふふ」
ようやく笑いが収まったのか、ラヘルは指先で涙を拭いながら言う。
「具合はどうだ」
「とても良いわ」
笑い過ぎて乱れた息遣いを整えるように深呼吸をし、ラヘルはゆっくりと寝台から身を起こす。
寝台の傍らまで進み出て身体を支えながら問うラバンに、彼女は微笑みをもって答える。
ラバンの手をそっとかわして土間に向かったラヘルは竈に掛けられた鍋のふたを取り、さも得意げに胸を張って言った。
「ね、見て。久しぶりに作ってみたの。ラバンの大好物、ずっと作ってあげられなかったけど、今日はローカにお買い物や下ごしらえも手伝ってもらって、こうしてちゃんとできたのよ。——ほら、一緒に食べましょう」
屋内に足を踏み入れたときから辺りに漂っていた食欲を誘う香辛料の香りが、ふたを開けられたことでますます強くなる。
ローカの身に絡まる糸と格闘していたエデンだったが、思わず反射的に腹を鳴らしていた。
それに気付いて小さく笑みを浮かべると、ラヘルは杓子を使って鍋の中身をすくい上げる。
その背に向かって突き放すような調子で口を開いたのはラバンだった。
「無理をするなと言っている。俺はそんなことは望んでいない」
「……もう、そんなこと言わないで。久しぶりだったからうまくできるか不安だったけれど、自分でも上手にできたと思うの。だから貴方も食べてみて。——エデンもきっと気に入ると思うわ」
ラバンの言葉を受けて一瞬杓子を握る手を止めるラヘルだったが、目を合わせることなく後ろを向けたまま答え、盛り付けを再開した。
「あ——うん、ごめん」
手を止めていたエデンは見上げるローカの視線を受け、中断していた作業を再開する。
「ここをこうして……こっちがこうで——」
自身とラバンが戻るまで、作った食事を食べずに待っていてくれたのだろう。
催促するように身をよじらせる少女だったが、気を引かれた彼女が料理に吸い寄せられるほど、エデンが急けば急くほど、糸はもつれ合っていく。
結果として、ローカを完全に自由の身とするのにそこから十分以上の時間を要したのだった。
◇
「——はい、エデンもどうぞ」
ラヘルがローカの協力を得て作ったというそれは、粒の長い米を野菜や香辛料とともに炊き込んだ米料理だった。
ラヘルの言によれば、下ゆでしたのちに水気を飛ばした米と具材を鍋の中で幾層にも重ね、ふたをしてじっくり蒸し上げる必要があるのだという。
手間と時間を要すため常食には向かず、晴れの日に振る舞われることの多い料理らしい。
一宿一飯に預かる立場で食べていいものかと戸惑うエデンだったが、ふと横を見れば、すでにローカは誰よりも早く手と口を動かしている。
満足そうに食べ勧める彼女から皿に盛られた料理に視線を移すと、エデンは慌てて匙を握った。
「じ、自分もいただくね!」
断りを入れたのちに匙を握り、まずはひと匙料理をすくい上げる。
立ち上る刺激的な香りに鼻をくぐらせたのち、次いで口内へと運ぶ。
ひと口頬張れば、香草や香辛料に由来する華やかな風味が口の中に広がっていく。
ぱらぱらとした食感の米は口当たりが軽く、具材と米とを交互に重ねて層状に蒸し上げられているため、匙ですくうごとに味の変化が楽しめた。
鼻に抜ける香りと舌を刺激するしびれるようなうまさに匙を止めることができず、結果としてエデンは二皿を平らげるローカに倣い、二度のお代わりを求めることとなった。
「本当においしかったよ……! ありがとう、ラヘル。——ローカも」
自らは料理に手を付けることなく三人の黙々と食べ進める様子を眺めていたラヘルに、料理の感想と感謝の意を伝える。
皿に残るひとかけらも余さず食べ切らんとするローカに労いの言葉を掛けることも忘れなかった。
後片付けを終えたのち、エデンは居ずまいを正してラバンに向き直る。
仕事中も食事中も、終始気に掛かって仕方なかったことを尋ねてみることにする。
「ええと、ラバン。その、約束のことなんだけど——」
「水を浴びてくる」
ひと晩だけは宿を貸してもらえるが、翌朝には出ていく。
それが昨夜の彼と交わした約束だった。
ラバンがどのような意図で仕事に付き合わせたのかはわからないが、約束は守らなくてはならない。
今一度その件について触れるエデンを遮るようにして立ち上がったとかと思うと、ラバンは三人に背を向け、忙しない足つきで家から出ていってしまった。
ぼうぜんとその背を見詰めていたエデンだったが、ラヘルが小さな含み笑いをこぼしていることに気付く。
「——ふふふ。ほんと、偏屈者なんだから」
あきれ気味に言って身を起こすと、彼女は部屋の奥から持ってきた手桶と手拭いを差し出した。
「エデン、貴方も水浴びしておいでなさいな。——河、場所はわかる?」
彼女の口にした河が自由市場にたどり着いた際に見た大河であることを察し、うなずきをもって応える。
昨日を思い返してみれば、確かに河辺には水浴びをしている人々の姿が多く見られた。
「私とローカはもう済ませているから。——ほら、町の明かりが消えてしまわないうちに」
「うん、わかった……! 行ってくる——!!」
ラヘルに背中を押され、エデンもまた慌ただしい足取りで家を後にする。
迷わず帰ってこられるよう道を折れるたびに何度も振り返って居所を確認し、大河を目指す。
夜が更けて人波もまばらな大通りを横切り、細い路地を抜け、河辺に設けられた階段状の足場を下っていく。
昼間は人で溢れ返っていた河辺が、この時間では水浴びをしている者がちらほらと目に入る程度だ。
闇の中、大通りから漏れる明かりを頼りに河辺を歩けば、水に腰辺りまで身を沈めるラバンの姿はすぐに見つかった。
自身も急いで服を脱ぐと、河底に向かって続く護岸を胸が漬かるほどの高さまで下りる。
「ラバン」
祈りをささげでもするかのように瞑目する彼の背に、恐る恐る名を呼び掛けた。




