第百十二話 無 宿 （むしゅく）
事前に聞いていた通り、自由市場の出入り口には関門の類いなどは置かれておらず、少年と少女は難なくその内へと足を踏み入れることができた。
大河沿いには大小さまざまな建物が隙間なく立ち並んでいたが、何より目を引いたのは、河岸に設けられた階段状の護岸だった。
河岸から河底近くまで延びる階段は、迂曲しながら流れる大河に沿って下流まで続いており、そこでは住人であろう幾人もの人々が思い思いに過ごしていた。
沐浴をする者、炊事をする者、水瓶にくんだ水を頭に乗せて運ぶ者など、生活のために水を利用する者たちもいれば、河中に身を沈めて祈りを捧げている者の姿もある。
また、階段に布を敷いて品物を並べる露天商や、首から箱を下げて声を張る売り子、山積みにされた衣類の洗濯を行っている者など、商売人たちの姿も多く見られた。
そんな光景をぼうぜんと眺めている間にも、多くの人々が河を目指してやって来ていた。
人の流れに逆行するように路地を進めば、大河と平行に走る大通りが姿を現す。
無数の人々の行き交う往来の両脇は、色とりどりの商品を扱う露店で埋め尽くされている。
屋根付きの屋台、荷車の荷台をそのまま売り台にしたもの、地面に広げた敷物の上に品物を並べた簡素なものまで、立ち並ぶさまざまな形式の露店の店先には、きらびやかで目にも鮮やかな商品の数々が陳列されていた。
「ここが、自由市場……」
全貌を視界に収めることはできなかったが、見える部分だけでも鉱山の麓の町の数倍はあろうかという広大な眺めに、少年はがくぜんと立ち尽くす。
往来を行き交う人々や、露店の主たちの中には、鉱山では見たこともないような姿形の者たちもいる。
確かに、この自由市場という場所に溶け込んでしまえば、特異な容姿を有した種であっても人目を引くことはないように思える。
「エデン」
立ち上る熱気とむせ返るような人いきれに満ちた大通りの直中、足を止めるエデンを見上げてローカが袖を引く。
想像をはるかに超える自由市場の光景に心と目とを奪われていた少年は、少女の声を受け、我に返って口を開いた。
「あ、うん……！ まずは宿、だよね」
確認を取るように呟けば、ローカは満足げに「ん」と首肯する。
旅立ちに当たって彪人たちが用意してくれたローカの旅装は、ここに至るまでの道行きの中で相応にくたびれてしまっている。
当然ながら少年の衣服も、彼女と同じかそれ以上にひどいありさまを呈している。
加えて、ひと月にわたる長旅は、衣服のみならず心身にも著しい疲労をもたらしていた。
めったに感情を表に出さないローカですら、その表情にはうっすらと疲労の色が見え隠れしている。
自由市場に到着後はすぐに宿を取り、久しぶりに屋内でゆっくり休もうというのが、二人で話し合って決めた予定だった。
あわよくば温かい食事にもあり付きたい。
目に映る景色をもう少し見ていたい気持ちもあったが、まずは当面の居所となる宿を探すことにした。
道行く人々に尋ね、すぐに幾つかの宿の場所を知ることができたが、結果としてその日の寝床を確保することはできなかった。
日暮れまでかかって、数十はある市場中の宿を訪ねて回るも、どこに行っても満室だと宿泊を断られてしまう。
聞けば、昨日今日と大規模な隊商が複数到着し、行商人や彼らの雇う使用人たちで多くの宿は部屋が埋まってしまっているらしい。
裏通りに位置する最後の一軒を後にしたエデンは、ローカと顔を見合わせて深々とため息をついた。
「駄目だったね。どうしようか……？」
「大丈夫」
尋ねるエデンに対し、ローカは表情を変えることなく口にする。
不意に小走りに駆け出したかと思うと、彼女は店じまいを済ませた商店の軒先と、積み上げられた荷物の間に身体を滑り込ませた。
「こっち」
周囲の具合を確かめ、納得するかのようにうなずくと、彼女は「どうぞ」とでも言わんばかりの手招きをしてみせた。
呼び寄せに応じ、その傍らに腰を下ろしたエデンは、肩掛け袋の中から取り出した携行食を彼女の手に握らせる。
「明日、もう一度探してみよう」
ひと言だけ告げ、硬く弾力のある干し肉をじっくりと時間をかけて嚙みこなしていく。
隣を見れば、ローカもまた真剣な表情で口の中のものを咀嚼している。
そんなしぐさがどこかおかしく感じられ、少年はふたを開けた水筒を手渡しながら、小さく笑みを浮かべた。
辺りに夜の帳が下り、露店の立ち並ぶ大通りから離れた裏通りに人の姿はほとんど見られない。
通りかかるのは強かに飲んだ酔客のみで、彼らは肩を寄せ合って身を潜める二人に気付く様子もなく、不確かな足つきで目の前を通り過ぎていく。
それでも朝になれば人の行き来も戻るだろう。
商店の主がやってくる前に、朝一番でこの場所を離れなければならない。
その後はもう一度宿の手配に回ろうと翌日の計画を練るうち、不意の眠気に襲われる。
目的の地に到着した安堵感からだろうか、隣を見ればローカも船をこいでいた。
「自分も、少し……」
眠りに落ちる寸前、かすかな物音によって覚醒へと引き戻される。
ローカを背にかばうように身を乗り出し、闇に目を凝らしたエデンは、自身ら二人を見下ろす何者かの姿を見て取っていた。
「……だ、誰——？」
「こっちじゃ見なくなったと思ってたんだがな。——付いてこい」
眼前の人物はいかにも物憂げな様子で嘆息すると、そう短く告げてエデンたち二人に背を向けた。
