第百十話 楽 園 (らくえん)
◇
少女と共に彪人の里を発ち、三日が経っていた。
二人が目指すのは、いつかアシュヴァルが行き先として示してくれた、自由市場と呼ばれる西の大集落だ。
世界中から多くの人々や物品の集まる場所ならば、自身らの由来にたどり着くことができるかもしれない。
そう考えた少年は、ローカと相談した上で改めてその地へ向かうことを決めたのだった。
今度は誰かに追われての旅ではない。
自分たちが自分たちを知り、存在の証を手に入れることを目的にした、追究と追求のための旅だ。
西の地に向かって、二人は一歩ずつ確実に歩みを進めていた。
歩みを進める中、ふとローカが足を止める。
うずくまるように座り込んでしまったかと思うと、草履を脱ぎ捨てた彼女はしきりに足先をさすり始める。
新調した草履が合わなかったのだろう、擦れて赤く腫れた皮膚があまりに痛々しい。
「気付けなくてごめん……」
謝罪を口にし、自らも腰を落とす。
水筒の水で傷口を洗い流し、彪人たちから持たせてもらった壺草の膏薬を少女の足先に塗った。
幾分か楽になった様子を見せる彼女だったが、やはりこのまま歩かせるのは忍びない。
「今日はもう休もうか」
「平気」
「でも……」
彼女には、これ以上痛い思いもつらい思いもしてほしくないのが少年の本音だ。
せっかく自由を手にすることができたというのに、その先に待つのがさらなる苦難の道であっていいはずがない。
気遣いの言葉に小さく首を振って答えた少女は、擦れて赤くなった足を両手でいとおしげに包み込む。
「わたしがわたしで歩いたの。痛いのも——ぜんぶわたしのもの」
「君のもの……?」
「そう」
物思わしげに呟く少年に短く答えると、ローカは自らの負った傷を慈しむようにさする。
「誰のものでもないわたし。楽しいもうれしいも、少し痛いぐらいがちょうどいい」
「誰の——ものでも……」
少女の口にした言葉を繰り返し、改めてその言葉の持つ意味について考えを巡らせる。
ローカと共に彪人の里を逃げ出した夜、里長ラジャンから彼女のことを品物として見ているのは誰なのかと論及された。
違う、そんなつもりはないと——あのときは必死に否定したが、思い返せば思い返すほど、ラジャンの洞察が確かであったことを思い知る。
鉱山から戻り、腹心を残らず打ち明けた際も同じだ。
心のどこかでローカをラジャンの持ち物として捉えていることを、彼はたやすく見抜いてみせた。
最初から間違っていたのだ。
ローカが他者から所有物としての扱いを受けていると知り、救い出すための手立てとして取ったのは、当の商人とまったく同じ手段だった。
金で買われた彼女を、金の力を使って買い戻す。
その行為自体が、根本から間違いだった。
売る者がいるから買う者がいる。
言い換えれば、買おうとする者がいるから売ろうとする者が現れるのだ。
それはローカを買い取るために支払った金が、彼女と同じように他者に命運を握られることになる誰かを生む可能性を含んでいる。
人が人を所有することを声高に否定してみせた他でもない自分自身が、人の売り買いの片棒を担いでいるという矛盾をラジャンは教えてくれたのだ。
ならば彼女を自由にするため、他にどんな手段があったのかと頭をひねるが、どれだけ考えようと答えが導き出されることはなかった。
ラジャンのように問答無用で我意を貫く強引さもなければ、それを押し通すだけの強さも持ち合わせていない身では、初めから選択肢さえ与えられていなかったのかもしれない。
正しくありたいと思う。
できることならば誰にも迷惑を掛けることなく、誰一人傷つけることなく、つつがなく日々を過ごしていけたらいいと願っている。
しかし、そんな願いがたやすくかなえられるものではないことを、目覚めて以降の暮らしの中で知った。
いつかアシュヴァルが教えてくれたように、世界は奇麗なものとそうでないものとが混沌として入り乱れた坩堝に他ならない。
大地を削り、空を煙で染め、水と風を汚してわずかな金を得てきた自身には、そのことがよくわかる。
たとえ道義的に受諾し得る範囲から逸脱していたとしても、大切な人に不自由のない暮らしを贈るためであれば、その道を選ぶのが人なのかもしれない。
自身もその例に漏れることはなく、ローカのためならきっと何度でも同じことをするだろう。
間違いとわかっていても、罪を背負うと知っていても、その先に困難が待ち受けていると理解していても、そんなことはなんの障害にもならない。
大いなる誤謬だ。
「——ン」
「……あ、ごめん」
呼び掛ける少女の声に、ふと我に返る。
考え事に没頭するあまり、今ここにいる彼女を蔑ろにするところだった。
草履の紐を結び直したローカは跳ねるように起き上がり、膝を突いて座り込む少年を見下ろす。
「行こ——」
見上げる少年に手を差し伸ばし、少女はその名を呼んだ。
「——エデン」
「うん」
立ち上がって掌を取ると、少年は手を引かれるままに歩き出した。
◆
「それって、自分のこと?」
ローカが初めてその言葉を口にしたのは、彪人の里を発って二日目の夜のことだった。
聞き慣れない単語に戸惑う少年だったが、ふとそれが彼女の付けてくれた名前なのだと悟る。
「エデン——」
自らの口で確かめるように呟き、遠慮がちに尋ねてみる。
「——どんな意味なの?」
「わたしたちの目指すところ」
「目指す——ところ……?」
繰り返す少年に対し、彼女は小さくうなずき返す。
「空よりも高い場所にあって、山や森や野原や河——奇麗なもの、美しいもの、他にもなんでもあるところ。たくさんの果物、美味しいものや、いい匂いのするものがたくさんあるところ。楽しいことばかりしかなくて、痛いことも苦しいこともないところ」
普段通りの淡々とした口調ではあったが、いつになく雄弁に語る少女の言葉に、少年は静かに耳を傾ける。
「行こうとしても行けないけれど、行けないって思っていたらやっぱり行けない。人が生まれて、憧れて、夢に見て、それでも届かない——そんなところ」
「……そっか。そんな場所があるなら、それはすごく素敵だね」
答え、頬を緩ませる。
不毛の荒野をさまよい歩いていたあのとき、世界はなんと無情なものだと痛感させられた。
坑道深く潜って無我夢中で十字鍬を振るい始めた当初、世界はなんと暗く狭く、厳しいものなのかと打ちのめされた。
だが、そこに暮らす人々のことを知るにつれ、世界は徐々に広がりを見せ始める。
皆の抱く思いに触れ、努力の成果に一喜一憂し、胸の内にさまざまな感情が芽生えていくのを感じた。
鉱山を飛び出せば、視界に広がる色鮮やかな景色に胸を躍らせた。
草木や風の音と匂いを聞き、どこまでも広がる世界に思いをはせた。
「けど——」
百千の岩の塊が積み上がる裏に、ひと握りの輝く金が眠ることを知った。
人と人の、それぞれの居場所で懸命に生きる者たちの間にこそ、真の美しさが宿ると知った。
少女の語る理想の世界、その半分ほどはすでに手の中にあるのではないだろうか。
「——それって、あんまり変わらないかも」
微笑む少年の言葉に、少女は小首をかしげて「ん-」とうなり、続けて一人納得したように「ん」とうなずいた。
第一章 「彪 人 篇」 〈 完 〉
『百从のエデン』第一章、「彪人篇」を最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
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