第百六話 再 謁 （さいえつ） Ⅱ
「その子を……ローカを自分に預けてほしい！！」
従容たる態度で見下ろすラジャンの視線を跳ね返すように見据え返し、昨夜から——それ以前からずっと抱き続けていた思いの丈を放つ。
「じ、自分は……！ ローカと一緒に旅に出たいって思ってるんだ！！」
言ってから当の少女の反応をちらりとうかがうが、彼女に特段驚いたようなそぶりは見られない。
「そ、その——これは自分が勝手に決めたことで……ローカが行きたくないって言うなら、もちろん無理強いはしないつもりで……でも——自分は本気でそう思ってる……！！ 一緒に世界が見てみたいって——」
彼女と生きていくことを許されたのならば、これから進むべきはどのような道だろう。
鉱山から彪人の里への帰途を歩む道々、絶えず考え続けてきたことだった。
鉱山に戻り、抗夫として暮らすのもいい。
住み慣れたというには程遠いが、よく知る者たちの多く暮らす鉱山でなら、どうにか生きていくこともできるだろう。
バグワントの誘いを受け入れて彪人たちに交じって暮らすのも、どこか静かな場所を見つけて平穏な毎日を送るのもいいかもしれない。
だが、いつかのつり橋の先に夢見た景色には、激しく心を駆り立てるだけの何かがあった。
まだ見ぬ世界に心を引かれる自分自身に、うそをつき通すことなどできない。
失われた過去と、忘れてしまった記憶。
それが、あの日見た橋の先にあるような気がしてならないのだ。
ぎこちないながらも思いの限りを述べた直後、少年は耳慣れた声を背中に聞いていた。
「お、お前——」
戸口に手を掛けた状態で、呟くように言ったのはアシュヴァルだ。
激しい息遣いは急いで走ってきたことの、全身の被毛が乱れているのは誰かともみ合いになったことの証明だろう。
「出ていくのも入ってくるのも防ぐことができない。ならばいったい何を任せられるというのだ……」
バグワントは不意の闖入者を一瞥し、肩を落として深く嘆息していた。
後方を振り返った少年は、アシュヴァルを見据えて決意の首肯を送り、再び高座の上のラジャンを見上げる。
「じ、自分もローカも、この世界で生きていかなくちゃならないんだ！ 何がなくてもあっても、あってもなくても！ ここに身体があって、心があって……！ だ、だから……！ そ、その——」
大きく身を乗り出し、訴えるように声を張り上げる。
「——ローカを……た、食べないでほしいっ！！！！」
熱のこもった叫びに対し、最初に反応を示したのは当のラジャンではなく、彼の後方に控える四人の女たちだった。
くすくすと漏れる含み笑いが、何に対してのものなのかがわからない。
女たちを順に見やり、今一度意を問うように見上げる少年の視線を受け、里長ラジャンはおもむろに口を開く。
「……聞け、小僧。戦士とは——命の形だ。生まれ落ちた瞬間から戦うことでしか生きられぬ、生の意味を見出すことのできぬ者たちに与えられた、忌まわしくも誇らしき名よ。戦いに敗れて無様に屍を晒すより、肉も骨も残さず喰われて消え失せることこそ本望。よしんば次の生命があるのなら、より強い肉体と魂を得てまた別の死地へ赴くことを望む——それが戦士という在り方だ。喰い喰われるは、覚悟を抱いて生きる戦士のみに許された特権だ。そこへ遠慮会釈もなく踏み込むような無粋な真似をしてもらっては困るな」
「え……？ そ、それってどういう——」
言意を測りかね、気抜けしたように漏らす少年に対し、ラジャンは自らの口にした言葉を明快に言い換えた。
「喰われる覚悟のない者を喰う趣味はないと言っている」
なおもって強い動揺を見せる少年を愉快そうに一瞥したのち、ラジャンはいかにもいまいましそうな口調で吐き捨てるように続けた。
「乃公はもう十二分に生きた。斯く偉そうに戦士だ王者だなどと慢じてはいるが、その実では戦いに明け暮れる日々にも疾うの昔に飽いているのだ。その乃公が不老不死を得て何とする。詩書礼楽を嗜む風雅な余生を送ろうという気にも今更ならん。乃公は乃公が、安寧の中に生きられぬ身であることをよく知っている。老いぬ、死なぬ——そのような肉体、持て余すは必定。乃公は——人は死ぬ。いずれ死に往く身なればこそ強さを求める。須臾の命であるからこそ、生きた証を残そうと足掻く。……小僧よ。乃公はこれでも相応に満足しているのだ」
言ってラジャンは、後方に控える女たちに視線を向ける。
常に生にうんだような鈍い光をたたえる瞳に、わずかではあったが慈愛の色が宿った気がした。
「子の成せぬ乃公に尽くしてくれる美しい女たちに囲まれ——」
次にラジャンの視線が投げ掛けられたのは少年の背後、そこにはバグワントとアシュヴァル、加えてアシュヴァルを追ってやって来たであろうシェサナンドの姿があった。
「——乃公に追い付こうと血道を上げる小童共に、己の至らなさを思い知らせる毎日も殊の外悪くない」
心底愉快そうに、喉を鳴らして笑う。
「ラジャン、じゃあ君は初めから——」
——ローカを食べるつもりなど、なかったということだろうか。
不老不死を追い求めていなかったとすれば、なぜ含みを持たせるような言い回しをしたのだろうか。
少年がぼうぜんと思いを巡らせる中、ラジャンは身を乗り出すようにして言い添えた。
「悪巫山戯が過ぎたようだ。許せよ」
腹を抱えて呵々と笑う里長ラジャンを前に、少年の頭はますますもって混乱を来たす。
「そ、それじゃ……ローカを返してくれる……の——？」
ほうけたように尋ねる少年に対し、ラジャンは投げ掛けられた問い句を自らの口で繰り返してみせた。
「……くくく、返す——返すか。小僧、よもや己で言ったことを忘れたわけではあるまいな。人の生は当人のものだ。売り買いも貸し借りもできぬ。望む望まざるにかかわらず、その娘の命も生も——その娘だけのものでなくてはならぬ」
卒然として立ち上がったラジャンは、差し出された剣を見下ろす位置まで歩を進める。
続けて床板を踏み付けるようにして跳ね上げた剣を手に取ると、鞘音高く抜き放った刃を無言でローカの首元へと突き付けた。
突然の行動に居合わせた誰もががあっけに取られる中、ラジャンは首輪の丁番、その継ぎ目にあてがうように切っ先を押し当て、目にも留まらぬ速さで二度刃を払った。
数瞬ののち、ローカが首元にそっと手を伸ばせば、その自由を縛っていた首輪は左右に分断される形で落下する。
ごとりと鈍い金属音を立てて転がる首輪の残骸を無心で見下ろす少女——それを眺めるラジャンの表情は、少年の目にいたく上機嫌に映った。
