第百二話 枷 鎖 (かさ)
「それでどこまで話したっけ? ——ああ、そうだ、行商の奴の話だったよな。仕方ないから兄貴に話を通してもらってさ、里長のところに連れていったんだ。そしたらあいつ、顔合わせて早々里長に向かってなんて言ったと思う? 『この娘を買い取っていただけないでしょうか、金貨百二十枚でお譲り致します』——だってさ」
「ああ!? 百二十だって!?」
「百——二十枚……」
シェサナンドの口から飛び出した途方もない金額に、アシュヴァルは辺りに轟く大声を上げる。
一方の少年は少年で、ぼうぜんと立ち尽くすことしかできなかった。
「……随分と商売熱心なことで」
「ああ、俺も驚いた」
ひと呼吸おいて平静を取り戻したアシュヴァルが閉口気味に漏らす。
シェサナンドもまた、心底から辟易したような首肯をもって同意を示した。
「でも本気みたいだった。俺も大声上げて兄貴に殴られたんだけど——その話はどうでもいいか。それであいつ、里長に対してこそこそ耳打ちしたかと思ったらさ、そりゃ得意げな顔で『いかがですか?』って。ずぶといっていうか、怖いもの知らずっていうか——肝を冷やしたよ」
語るシェサナンドの顔が、はたと怯えにゆがむ。
「けど里長の方が一枚、いや一枚どころじゃない、二枚も三枚も上手だった。『あの娘は乃公が拾ったものだ』って。……行商の奴も驚いてた。自分のものだって口八丁で丸め込もうとしてたけど、里長が『己の持ち物ならば危険な場所に残して逃げるなどせぬはずだ』って言ったら、悔しくてたまらないって感じで黙っちゃってさ。でも……それでも諦めずに言い返したんだ」
ごくりと音を立てて唾を飲み込み、シェサナンドは今一度ローカを見下ろす。
視線の注がれる先にあるのは、彼女の首元に巻かれた——他者の所有物である証だ。
「……首輪。その首輪が奴隷の証拠だ、だから自分のものなんだ——って」
語るシェサナンドの声の含む色が、怯えから恐怖へと変わっていくのがわかる。
「それ聞いた途端だよ、里長の顔つきが変わったんだ。毛も——こう、逆立ってさ。なんて言うか……本当に——怖かった。いつも怖いけど……あんな顔は生まれて初めて見た。それで……こう言ったんだ。『首輪は首輪だ。たかだか首輪如きで人の生を括ろうなど思い上がりも甚だしい』——だって。商人の奴も縮み上がっちまって……泡吹いて倒れるんじゃないかって思うぐらいだった。結局それ以上何も言えなくなって……結局尻尾巻いて帰ってった」
当時を思い起こしているのだろう、シェサナンドは息を詰めるように首をすくめてみせる。
「俺も震えてたし……多分兄貴も——」
言ってぶるりと身体を震わせた彼は、乱れた心を落ち着かせるように大きな深呼吸を一つした。
「教えてくれてありがとう、シェサナンド。それから、ローカを助けてくれたことも。それなのに——」
「それはもういいって」
うつむく彼に対して改めて感謝を伝える少年だったが、シェサナンドは不服そうな口ぶりで言い捨てた。
「ラジャンが、そんなことを……」
少年は独り言のように呟き、シェサナンドの話してくれた内容に思いを巡らせる。
里長ラジャンが件の商人からローカの身柄を買い取ったと思い込んでいたのは、どうやら早合点に過ぎなかったようだ。
シェサナンドの話を聞いてわかるのは、人の身を売り買いすることに猛烈な嫌悪感を抱いていたのが、他でもないラジャンその人ということだ。
しかしながらあの謁見の日、ラジャンはローカを自らの持ち物だと言い放った。
そして、彼女を食べる心積もりがあることをほのめかしてみせた。
語られた言葉から受ける衝撃の程は極めて大きく、おそらくだが、それがなければローカを連れて里を飛び出すことなどしなかっただろう。
考えれば考えるほど、シェサナンドの語ったラジャンの話は彼本人の言動と大きく矛盾しているような気もする。
ローカを自らの所有物だと言い放ったかと思えば、首輪で人の生はくくれないとも語る。
「……うーん、どっちが——本当なんだろう」
里長ラジャンの真意を測りかね、腹の底から絞り出すような声を漏らす。
頭を抱える少年の背を、掌をもって力づけるように打つのはアシュヴァルだ。
「はい、そこまでだ」
「——うわっ!!」
前のめりに倒れ込む少年に対し、アシュヴァルは平然と言ってのける。
「人の心なんてもんはよ、他人があれこれ考えたって本人以外にゃわかんねえもんだ。特に里長の考えてることなんて、俺たちなんかじゃ及びも付かねえよ。だから知らねえところであれこれ想像するんじゃなくて、本人に直接聞いてみるのが一番だ。違うな、一番っていうか——それしかねえんじゃねえかな。戻ろうぜ。早く戻ってよ、そんでもう一度里長に会えば全部はっきりする」
片唇をつり上げた不敵な笑みを見せたかと思うと、アシュヴァルは腰を折って身を屈め、少年の頭の上に掌を覆いかぶせた
「なんかあれば、また俺がなんとかしてやるよ。——何度でもな」
「アシュヴァル……うん、ありがとう」
頭に乗せられた掌に触れて感謝の言葉を口にすれば、アシュヴァルは屈託のない笑顔で応えてくれた。
皆で無言のうちに食事を取り、四人は彪人の里へ続く山道を歩み始める。
元より言葉数の少ないローカは別にし、少年も含めた残り三人の口数が少なくなっているのは、それぞれにそれぞれの思惑があるからだろう。
小さなローカの歩幅に合わせて山道を進み、数度の朝と夜を経たその日、四人は彪人の里へと帰り着いたのだった。




