第百話 懸 橋 (かけはし)
彪人の里を目指すにあたって選んだのは、以前アシュヴァルと二人で歩んだ道ではなく、大きく西方面に迂回する道筋だった。
里に向かう中途、ローカの待っているつり橋に立ち寄る必要があるからだ。
早く迎えにいきたいと気の急く様子を見かねたのか、アシュヴァルはいつかのように背に乗ることを提案してくれた。
またとない申し出であったが、少年は左右に頭を振ってこれを遠慮する。
一分一秒でも早くたどり着きたいと願う反面、自らの内に己の足で歩いていくことを望む自分がいることを強く感じていたからだ。
皆と力を合わせて異種を討ったことがそうさせているのか、腰帯に差した剣のせいか、あるいは別の理由からなのか。
何も知らない、何もできない、誰かに頼り切りの状態から脱したいと願う気持ちが心の内に芽生え始めていることを自覚する。
変わっていく俺でありたい。
以前、アシュヴァルがそんなふうに言っていたことを思い出す。
そのときは今を生きることに精いっぱいで、明日のことなど何ひとつ見えていなかった。
衝動の赴くままに、目先のことしか考えずに、ローカを連れて逃げることしかできなかった。
だが今ならば、アシュヴァルの口にした言葉の意味が少しだけ理解できる気がした。
アシュヴァルとシェサナンドが、似つかわしくない緩徐とした歩みで進んでくれていることは当然ながら気付いていた。
彪人たちの颯爽と地を駆ける様は、鉱山への道中で目にしている。
彼ら二人の道行きだったならば、行き掛けにローカを拾った上で、すでに彪人の里に到着している頃だろう。
二晩の野営を挟んで山中を歩み、目的のつり橋まであと少しという場所までたどり着く。
何度も足を止めそうになったが、そのたびに気力を振り絞って歩き続けた結果だった。
見覚えのある深い谷と、そこに架かる一本のつり橋を認めたとき、少年は思わず駆け出していた。
何から話そうと思いを巡らせながらひた走る。
お腹を空かせているだろうから、まずは酒場の主人が持たせてくれた食事を食べてもらうのが先だ。
次いで伝えるべきは、彼女の見立てが正しかったことと、鉱山の危機を教えてくれたことへの感謝だ。
そして一人の犠牲者も出さずに済んだこと、皆と力を合わせて異種を討ち取ったことも併せて伝えたい。
図らずもの出来事だったが、何もできなかった自分が異種に立ち向かったと知ったら、彼女はどんな顔をするだろう。
さまざまな考えを思い巡らせるうち、勢いあまってつり橋を行き過ぎてしまう。
慌てて足を止め、橋のたもとまで引き返す。
橋板の上に一歩を踏み出したところで目に留めたのは、川の対岸に立つローカの姿だった。
あらかじめ到着を知っていたかのように見据える彼女の視線にも、もう何も不思議を感じない。
無事を確認して安堵のため息を漏らすと、少年は対岸の少女に向かって呼び掛けた。
「ローカ!!」
両手で手すりをつかみ、風に揺れるつり橋に一歩を踏み出す。
見れば対岸のローカもまた、自身の元に向かって歩を進めている。
ぎしぎしと危うい音を立てるつり橋を、手すりにも触れず、怯えるでもなく、下方を気にするでもなく、確かな足取りで進んでいる。
二人が行き合ったのは、つり橋のちょうど中ほど辺りだった。
恐る恐る手すりから手を離した少年は、正面から少女と向き合った。
「ローカ、戻ってきたよ」
「約束」
言葉少なに少女が呟く。
「——うん、約束」
繰り返し、両の手を差し伸ばす。
万感の思いを込めて手を握り締めれば、少女もまた、小さく、仄かに冷たい掌で握り返してくれる。
伝えたいことはいくつもあった。
指折り数えて、ここまで来たはずだった。
何から話そうかと悩みに悩み続けたものだったが、いざ本人を目の前にすると一向に言葉が出てこない。
無言で視線を注ぎ続ける少年を、少女もまた沈黙を守ったまま見詰め返す。
少女の顔には変わらず喜怒哀楽のうかがい知れない無表情が浮かんでいたが、風に揺られた毛の間からのぞくうつろな瞳の奥に、少年はかすかな輝きを見つける。
進むべき道を示してくれ、鉱山の人々を守る契機をくれた、不思議な力を持ったローカの右目に。
「なあ——!! いつまでそうしてるんだ——!?」
何も言えず少女を見詰めていた少年だったが、不意に飛んでくるいら立ち交じりの声を受けて我に返る。
「あ……! そ、その——」
はじかれたように手を離し、声の放たれた方向を振り向く。
いら立たしげな言葉の主は、あきれ顔を浮かべてつり橋の支柱にもたれ掛かるシェサナンドだ。
再び後ろを振り返り、少女を見下ろして告げる。
「行こう」
いつの間にか風はやんでおり、少女の右目は普段通りに覆い隠されている。
「——行こう、ローカ。今度は一緒に」
改めて言って上向きの掌を差し出せば、少女は「ん」と小さくうなずいて少年の手を取った。