その5 殺戮の広場
モンスターの体からクタリと力が抜けると共に、俺の体に例の感覚が溢れた。
レベルアップだ。
「――これでレベル3か。早いな」
レベルというのは、モンスターを倒せば必ず上がるというものではない。
ゲームの経験値のように、戦いの成果が一定の閾値を超えた時に、次のレベルに到達するのである。
二度の勝利で3まで上がったという事は、このモンスターは割と強いモンスターだと考えられる。
とてもダンジョン二階層に徘徊しているモンスターとは思えない。
やはりこの広場は、俺達が異変に巻き込まれた通路よりも、深い階層に位置しているのだろう。
「ん! 来た! スキルだ!」
体の中に何かが生まれた感覚があった。
スキルだ。
プレイヤーはレベルが上がる事で、スキル等の技能――トランザクションを覚える事がある。
技能とは何か? 自転車を例にとって説明しよう。
自転車に乗っている時。人は自転車が左右どちらかに傾いた時、傾きと同じ方向にハンドルをきる事で、車体を真っ直ぐに戻すようにバランスを取っている。
そんな事はしていないって? いやいや。無意識にしているはずなのだ。そうでなければ自転車はそのまま倒れてしまう。
これは前輪を支えるフロントフォークが、斜めに付いているためだが(※この角度をキャスター角という)、細かい原理は俺も良く覚えていない。
そう。ここで大事なのは、我々は特に意識もせず原理を知らなくても、無意識に自転車をコントロールしている、という点である。
技能も自転車の運転と同じように、一連の動作を感覚的に行う事の出来る技術なのである。
技能は二つの種類――パッシブとアビリティに分けられる。
パッシブはスキルとも呼ばれていて、自転車の操作のように、形態変換状態時に常に無意識に行われる動作である。
アビリティは主に攻撃に使う技で、使用すれば俺のような素人でも、まるで剣術の達人や、ゲームのキャラクターの必殺技のような攻撃が出来るようになる。
今回、俺が覚えたのはパッシブ――いわゆるスキルだ。
スキル名は【軽業】。
体の使い方が上手くなって、まるで体操選手のような動きが可能となるスキルだ。
地味だって? これって俺のようなスピード型のプレイヤーの基本中の基本スキルだからな。
これがないと始まらない。それぐらいあらゆる技能の中心となるスキルだから。
俺はモンスターの死体からナイフを引き抜いた。
壁に押し付けられていた死体が床に崩れ落ち、地面に血だまりが広がった。
俺はまるで刀のような大型ナイフをチラリと見た。
流石は自衛隊がプレイヤー用に開発した、高炭素鋼製の大型サバイバルナイフだ。
ナイフの事は全く分からないが、今の戦いでも刃こぼれ一つしていないように見えた。
モンスターは残り一匹。
今度は不意打ちを食らうようなヘマはしない。
俺はモンスターに向けてナイフを構えた。
モンスターは立て続けに仲間をやられて怖気づいたのだろう。こちらを警戒しながらジリジリと後ろに下がっている。
俺は一瞬、「このまま逃げ出すようならそれでもいいか」とも考えた。
(いや。ダメだ。仲間を呼ぶかもしれない)
それに戦いはこれで終わる訳ではない。
今後、安全な場所にたどり着くまで、俺は何度もモンスターと遭遇して戦わなければならない。
安全のためにも、早期のレベルアップは必須だ。
確実に勝てる相手は倒して経験値にしておきたい。
パッ
俺が足を踏み出すと同時に、モンスターは背中を向けて逃げ出した。
「逃がすか!」
俺は咄嗟にナイフを投げ付けた。
軽業のスキルの効果だろう。ナイフは狙い過たずモンスターの後ろ脚の付け根に突き立った。
「ギャン!」
衝撃でモンスターは転倒した。
その隙に俺はモンスターに追いつくと、ナイフを掴んで引き抜いた。
「散々、人間を殺しておいて、今更逃げられると思うなよ!」
俺はテニスのフォアハンドのようにナイフを振った。ナイフはモンスターの体に食い込み、背骨に当たって止まった。
「キャン!」
モンスターの口から、人殺しの獣とは思えない程、情けない悲鳴が漏れた。
俺は何となく悪い冗談を聞かされたような気になって、こんな状況でありながら、つい可笑しくなってしまった。
「ははっ! 甘えた声を出しても遅いんだよ!」
「ギャウン」
俺はモンスターの頭にナイフを振り下ろした。
ナイフは硬い頭蓋骨をかち割り、耳の下辺りで止まった。
モンスターはそれでも少しの間、弱々しく手足を動かしていたが、すぐにそれも止まり、ぐったりと横たわった。
こうして死闘は終わったのであった。
「レベルは・・・流石に上がらなかったか」
それよりも、そろそろ体が限界だ。俺は形態変換状態を解除した。
その途端、まるでプールから上がった時のような脱力感が全身を襲った。
周りの景色が、分厚いガラス越しに見ているかのように精彩を欠いていき、頭は朝の寝起きの時のようにぼんやりとしていった。
――いや。これが一般人の感覚だ。無能者だった頃の自分に戻っただけに過ぎない。
俺が急激な感覚の変化に耐えていると、カメラのオートフォーカスのピントが合うように、すぐに違和感は消えてなくなった。
俺は僅かな喪失感を覚えながら、周囲を見回した。
辺りは一面血の海だった。
戦っている時は忘れていた悲惨な光景と、吐き気を催す異臭に、胃液が逆流して来た。
「オッ、オッ、オゲエエエエエエエッ」
俺はその場に膝をつくと、胃の中のモノを全て吐き出したのだった。
戦いの興奮が去ると同時に、俺の心を絶望感が満たした。
それほど周囲の状況は酷いものだった。
俺は体育座りをしたまま、ぼんやりとクラスメイト達の物言わぬ亡骸を眺めていた。
形態変換後の疲労もあったのだろう。
今は口の端にこびり付いた吐しゃ物を拭う気力すら湧かなかった。
ここでこうしていても何も意味はない。そんな事は分かっている。
しかし、俺は何もする気になれなかった。
それ以前に全く頭が働かなかった。
なぜ俺だけ生き残ってしまったんだろう。
確かにあの時は死にたくなかった。頭が焼き切れる程「死にたくない」と強く願った。
しかし、喉元過ぎれば熱さを忘れると言うが、今の俺はあの時の熱を失っていた。
むしろ、こんな事ならみんなと一緒に死んだ方がマシだった、とすら思えていた。
そうしてどのくらい無意味な時間を過ごしたのだろうか。
動きも無い、音もない空間に、小さな変化が起こった。
俺は一瞬、クラスメイトの死体がゾンビになって動き出したのかと思った。
それほどぎこちない動きで、誰かが起き上がったのだ。
「ゴホッ・・・ゴホッ、ゴホッ」
「・・・茂木さん?」
そう。それは特別候補生クラスの女子生徒。一年生の時のクラス委員長。
茂木帆之香だった。
茂木さんはハッと俺の方を振り返ると、怯えた表情を浮かべた。
俺は慌てて立ち上がろうとして、体に力が入らずに倒れ込んだ。
「痛っ! ま、まってくれ茂木さん! 俺だ! 中久保だよ!」
「――中久保、君?」
茂木さんは次に周囲を見回し、一面の死体の山に目を見開いた。
「キャアアアアアアアッ! ウソウソウソ!」
「お、落ち着いて! 落ち着いて、茂木さん!」
茂木さんは半狂乱になって悲鳴をあげ続ける。
俺はどうにか彼女を落ち着かせようと、その場であたふたと手を振った。
我ながらマヌケな姿だと思うが、これ以上近付いて彼女を怯えさせる訳にもいかない。
というか、彼女はゾンビじゃないよな? 今まで気を失っていたのか?
その時、彼女の悲鳴で気が付いたのだろう。死体の影から二人の学生が体を起こした。
「ゲホッ、ゲホッ」
「ひっ! 何コレ! みんな死んでるの?!」
一人は茂木さんと同じ、特補生クラスの優等生・五条昴留。
もう一人は俺のクラスの女子生徒だった。名前は・・・この辺まで出かかっているんだが。
「ご、五条君!」
「茂木さん。他のみんなは? 敵性生物はどうしたんだ?」
最初にみんなの心配とは。流石は完璧超人は俺とはモノが違う。
五条は一緒に起き上がった女子生徒に振り返った。
「君は一般クラスの生徒だね」
「は、はい。稲代康江です」
そうだ、思い出した。稲代。一年の時から同じクラスだった。
気が強い性格で、良く言えば男勝り、悪く言えば少し不良っぽい感じの女子だった。
俺もクラスで何度か注意をされた(文句を言われた)事があって、それ以来苦手にしている。
ん? なんでみんな俺を見ているんだ? ああ、次は俺の番か。
「中久保だ」
「そうか。中久保。無事なのはこの四人だけなのか? 自衛官で無事な人は?」
五条は女子二人は怯えていて話にならないと見たのか、俺に質問を振って来た。
ていうか、お前が仕切るのかよ。
俺は何となく反発感を覚えたが、「じゃあお前がリーダーになってくれ」と言われても困るので、ここは飲み込む事にした。
「自衛官はみんなやられた。無事な生徒は・・・分からない。さっきまで、この場で生き残ったのは俺だけだと思っていたから」
「キャアッ! モ、モンスターが死んでる!」
「なにっ?!」
その時、稲代が悲鳴をあげた。
五条は慌てて彼女が指差した方向に振り向いた。
俺は五条の焦った様子に、少しだけ満足感を覚えた。
「本当だ! 敵性生物が――四体! 全て殺されている!」
四体?
現れたのは三体じゃなかったのか?
俺は慌ててモンスターの死体を確認した。
俺が殺した三体。そこから遠く離れた場所にもう一体。ナイフか何かで腹を割かれて殺された死体が転がっていた。
次回「トラブルの予感」