その3 悪夢の始まり
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レベルアップ。
この現象の原因や仕組みは未だに解明されていないが、その効果だけはハッキリしている。
レベルアップを経験した者は、著しく身体能力が強化されるのである。
彼らプレイヤーは、それこそ漫画の超人のように、重い物を持ち上げたり、ビルからビルへと飛び移ったり出来るようになる。
ただし、現実は漫画とは違い、無尽蔵にその力を発揮し続けられる訳ではない。
当然だ。ベンチプレスで100キロを持ち上げられる力自慢でも、連続で持ち上げられる回数には限度がある。100メートルを10秒で走れる陸上選手も、千メートルを同じ速さでは走れない。
それと同じように、プレイヤーの力も、一度使うと回復するまで使用する事は出来なくなるのである。
そのため、プレイヤーも日頃は力を封印し、俺達一般人と全く変わりの無い身体能力で過ごしている。
しかし、有事の際にはレベルの力を解放。強力な力でダンジョンのモンスターと戦うのである。
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ダンジョンの広場に、特補生の悲鳴が響いた。
「そ、そんな! 形態変換出来ない?!」
「わ、私も! 一体どうして?!」
形態変換が出来ない。つまり今の彼らは、俺達一般人と同じだけの力しか持たない、という事である。
隊長が慌てて叫んだ。
「下がれ、吉田! 特補生を守れ! 岸岡! 吉田のフォローに――」
隊長の指示は一歩遅かった。
通路の奥から黒いオオカミのようなモンスターが飛び出して来ると、先頭に立っていた自衛官(※多分この人が吉田さんなのだろう)に襲い掛かったのである。
人間並みの大きさのモンスターだ。
吉田さんは手にした大型サバイバルナイフを斜に構えた。
「なっ?! どうして形態変換出来ない?!」
彼は驚きながらも慌ててモンスターに切りつけたが、ナイフの刃はモンスターの体を浅く傷付けただけに終わった。
吉田さんはモンスターに押し倒された。
「キャアアアアアアッ!」
「よ、吉田さん!」
なすすべなく立ち尽くす特補生達の前で、モンスターはあっさりと獲物の頭を噛み砕いた。
ゴリッという鈍い音と、モンスターの荒い鼻息、そして生徒達の悲鳴が広場に響き渡った。
「吉田! くそっ! 形態変換!」
自衛官の岸岡さんが同僚の仇を打つべく、勢い良くモンスターに切りかかった。
――しかし。
「バカな! 俺も形態変換出来ない?!」
「グアウッ!」
ナイフはモンスターの首の付け根に突き立ったまま、動きを止めてしまった。
武器を取られてしまった岸岡さんに、別のモンスターが襲い掛かった。
「ぎゃああああ――ぐけっ」
モンスターは岸岡さんの右の肩に噛みつくと、そのまま大きく首を振った。
岸岡さんは肩から先の右腕を失いながら、勢い良くダンジョンの壁に叩きつけられた。
彼は壁に大きな血のシミを作りながら地面に落下。ピクリとも動かなくなった。
「ひいいいいいっ! 止めろ! く、来るな! ぎゃああああっ!」
更にもう一体のモンスターが現れると、特補生達に襲い掛かった。
レベルの力を持たないプレイヤーは、俺達モブと変わらない。
彼はなすすべなくモンスターの爪に引き裂かれた。
いつの間にか隊長がモンスターの前に立っていた。
どうやら特補生を守るために駆け出したが、間に合わなかったようだ。
「形態変換! ――くそっ! 俺もか! なぜ形態変換が出来ない! 一体どうなっているんだ!」
隊長はナイフをモンスターに投げつけると、腰のホルスターから拳銃を抜いた。
銃器の類はモンスターに対して効果が薄い。
しかし、常人の身体能力で戦うくらいなら、まだ拳銃の方がましと判断したのだろう。
隊長が持つ拳銃は、凶悪なモンスターを前に随分と小さく頼りなく見えた。(※実際に自衛隊正式採用のSFP9は、9mm拳銃弾を使用する小口径銃である)
パン! パン! パン!・・・
広場に乾いた炸裂音が連続して鳴り響いた。
モンスター達は痛がる素振りは見せているが、やはり致命傷には至らないようだ。
遊底が下がった状態でロックすると、隊長は銃把から弾倉を引き抜いた。
彼はポーチから予備のマガジンを取り出し、グリップに押し込む。連動してスライドが自動で閉鎖。初弾が装填され――
「ぐあっ! く、くそっ! 離せ!」
しかし、モンスターはこの隙を見逃さなかった。モンスターは隊長の拳銃を持った手に食らいついた。
「ぎゃあああああっ!」
隊長の絶叫と同時に、銃を握った手が二の腕から食いちぎられ、ダンジョンの床に転がった。
片手を失ったばかりか、唯一の攻撃手段まで奪われた隊長に、もはや抗うすべはなかった。
次の瞬間、隊長は腹を食い破られて絶命していた。
モンスターの荒い鼻息がここまで届いた。
こうして俺達を守ってくれる大人達は全員死んだ。
そこからは悪夢の始まりだった。
「うわああああああっ! や、止めろ! 来るなああああああっ!」
「いやーっ! 来ないで!」
「ひいいいいっ! ウソだウソだウソだああああ!」
「誰か助けてーっ!」
生徒達はパニックになって一斉に逃げ惑った。
俺はその場で動かなかった。いや。恐怖で頭の中が真っ白になって、動けなかったのだ。
後になって思えばそれが良かったのかもしれない。
モンスター達は動く獲物に注意を引かれて、逃げる生徒に襲い掛かったのである。
小動物は捕食者に見付かった時、死んだふりをするという。擬死と呼ばれる防衛行動だそうだ。
その話を聞いた時、「死に真似をするくらいなら、一か八か全力で逃げた方が、まだ生き残れる可能性が高いんじゃないだろうか?」と疑問に思った。
だが、こうなってみると、案外、動かない事もバカにならないのかもしれない。
とはいえ、今回の場合、ほんの数分寿命が延びただけに過ぎなかった。
他のクラスメイト達が全員殺されれば、モンスターの注意は俺の方に向くだろう。
期限付きの延命措置。
この地獄の中、殺される順番が一番最後になる。
たった数分だけの違い。早いか遅いかの差でしか無かった。
またクラスメイトが襲われた。向こうでは顔も知らない特補生クラスの生徒が襲われている。
全員が恐怖と絶望で顔をぐしゃぐしゃにしながら死んでいく。
絶叫。悲鳴。血と内臓の匂い。そしてモンスターの荒い吐息。息苦しい獣臭。
ある生徒は背中からモンスターに襲い掛かられ、後頭部をゴッソリ爪で引き裂かれて死んでいる。
別の生徒は生きながら腹を食い破られ、こぼれ落ちた内臓を引きずりながらも、懸命に這いずって逃げようとしている。
腕を食いちぎられて泣き叫ぶ者。
足を食いちぎられて絶叫する者。
あちこちで人間の体がバラバラになり、壊れた人形のように放り出されている。
悪夢そのものの光景に、俺は現実感を失っていたのだろう。
みんなのように逃げるでもなく、絶望に泣き叫ぶでもなく、ただ殺戮の現場を見守りながら、ぼんやりと自分の順番が来るのを待っていた。
その時、大きな塊が――人間の上半身が――俺のすぐそばにゴロリと転がった。
それは俺の良く知る顔――友人の渡辺のものだった。
彼の顔は半分齧られてなくなっていた。
「う、う、うわああああああっ!」
渡辺の死体が――知り合いの死が、凍り付いたように麻痺していた俺の恐怖心を蘇らせた。
俺は絶叫しながら走り出した。
生きている生徒は――少なくとも、今も逃げている者は――周囲にもう誰もいない。
この場で動いている人間は俺一人だけ。
俺は完全にモンスターの注意を惹き付けてしまった。
近くにいたモンスターが俺に襲い掛かった。
「あああああ――ぐふっ」
俺はモンスターに背後から押し倒された。
息も出来ない程の耐え難い獣臭。
ガフッ、ガフッ、という荒い鼻息と共に、熱い唾液が俺の後頭部に落ち、髪を濡らした。
痛さと息苦しさと恐怖でポロポロと涙がこぼれる。
どうして。どうしてこんな事に。
安全なはずのダンジョン実習だった。
特補生クラスの生徒達が自衛官の指導の下に行うレベルアップ。
俺達はその見学のために、彼らに同行しただけに過ぎなかった。
ただの社会科見学。修学旅行のようなもの。
国の補助金で東京旅行が出来る。
特補生クラスのヤツらはともかく、俺達一般クラスの生徒にとっては遊びに行くような感覚だった。
生きたままモンスターに食われる。
クラスメイトの死体が頭の中に浮かんでは消えた。
恐ろしかった。ただひたすらに怖かった。
この恐怖から逃れるためなら何でもやる。例え手足を失う事になっても、死ぬよりはずっとずっとマシだ。
誰か。誰か助けて!
俺は自衛官が助けてくれる事を期待した。
突然、通路の向こうから上級プレイヤー達が現れて、このモンスター達を倒して、俺を助けてくれるのだ。
いや。現実は漫画やドラマのように都合良くは出来ていない。
俺は死ぬ。周りのクラスメイトのように死体になる。あっさりと。
この時、なぜか俺は死んだ隊長の言葉を思い出していた。
『ダンジョンの中では死ぬ時は死ぬ』
『死にたくない? 当然だ。俺だってそうだ。だったら這いつくばってでも生き延びろ』
『どんなに苦しくても足を止めるな。生きる道は前にしか伸びていない』
『前に前に進み続けろ』
生きる道は前にしか伸びていない。
前に。前に。
俺はうつ伏せのまま、懸命に手を前に伸ばした。
何かを期待していた訳じゃない。モンスターに押さえられた今の俺には、そのくらいしか出来なかったのだ。
その手が何かに触れた。
それは千切れた手首に握られた拳銃だった。
次回「覚醒」