その17 銃声
俺達はダンジョンの外へと続く階段に到着した。
階段の奥は明るい光に照らされている。
そう。外の光だ。
この辛く厳しいサバイバルが、ようやく終わりを迎えたのである。
外――。
もしも五条の予想が正しいのなら、ダンジョンの外に広がっているのは、俺の知っている東京の町並みではない。
見ず知らずの――ひょっとして俺達が生きていけない程過酷な――異世界のはずである。
しかし、今の俺の心には、ひとかけらの不安も恐怖も無かった。
ようやくダンジョンから出られる。
この長くて苦しい戦いが終わる。
その強い思いだけが――激しい喜びだけが、俺の頭をいっぱいに満たし、ありとあらゆる感情を塗りつぶしていた。
要するに感情が振り切れて、一種のハイになっていたのである。
俺は感極まって、俺に肩を貸してくれている女子生徒――茂木さんに声をかけた。
「茂木さん、外だ! 俺達は助かったんだ!」
その時、俺はなぜか突然、強い空腹を感じた。
人間の体とはよほど現金な物らしい。もうすぐダンジョンの外に出られると分かった途端、忘れていた空腹を思い出したのだ。
(何か食べたい。限界だ。いや、今すぐベッドに横になりたい。モンスターのいない安全な家の中で、一日中グッスリ寝たい)
人間の三大欲求は、食欲と睡眠欲と性欲なんだそうだ。
誰が言った言葉なのか知らないが、今の俺は「それはウソだ」とキッパリと言い切れる。
優先されるのは食欲と睡眠欲。最低でもこの二つが満たされない限り、性欲の衝動を感じる事はないはずだ。
俺は茂木さんに声をかけた。
「さあ、行こう! この階段を登ったら外だ!」
俺は茂木さんも感極まって立ち尽くしているものだと思っていた。
あるいは涙で景色が曇って歩けない。そんな風に思い込んでいたのだ。
だが、違った。
茂木さんは俺の体を階段に座らせると、ダンジョンの奥に下がったのだ。
「茂木さん?」
彼女は何かに怯えた表情で俺を見ていた。
意味が分からなかった。
この階段を上がればダンジョンの外に出られる。
日頃の俺は派手に喜んだり感動して涙を流すようなタイプではない。
どっちかと言えば割とドライな方だと思う。
だが、そんな俺ですら、この瞬間は大声を上げて飛び跳ねたい気持ちで一杯だった。
もしもこんなに体がボロボロでなければ、恥も外聞もなく奇声を上げて跳ね回っていたかもしれない。
(なのになぜ? そんなに怯えた顔をするんだ?)
俺は完全に混乱していた。
彼女が怯えた表情をする理由も、俺を置いてダンジョンの奥に下がる理由も、何もかもが理解出来なかったからである。
「茂木さん。なんで――」
「私は中久保くんとは一緒に行けない」
「――えっ?」
一緒に行けない? どういう事だ? 俺がダンジョンの外に出るのを見届けた後で、自分も出るって事か? いや、それに何の意味があるんだ?
その時、俺は気が付いた。茂木さんは怯えているんじゃない。不安になっているんだ。
だが、なぜ?
(くそっ。こんな時に五条がいれば)
完璧超人・五条なら、不安を抱えた女子をなだめるなんて事はお手の物だろう。
実際、ウチのクラスの稲代のメンタルを上手くケアしてくれていた。
だが、俺には女子の気持ちなんて――こんな時にどうすればいいのかなんて分からなかった。
それどころか、むしろ心の片隅では「めんどくせえな」とまで思っていた。
すぐ目の前に外へと続く階段がある。
俺の心は既にダンジョンの外にあった。いわばエサを前にお預けを食らった犬も同然だった。
今の茂木さんを心配する気持ちよりも、「いいから早くダンジョンから解放されたい」という気持ちの方が大きかったのだ。
ひょっとしたら、そんな気持ちが俺の態度に現れていたのかもしれない。
茂木さんは震える手で服の内側に手を入れると、小さな黒い塊を取り出した。
それは陸上自衛隊の正式採用銃SFP9だった。
「なっ!」
俺は反射的に身構えた。
右手が腰のナイフの柄を掴む。
茂木さんとの距離は約十メートル。もちろん、ナイフが届く距離ではない。
というか、どこから彼女は銃を手に入れたんだ?
自衛官の死体から回収した銃は三丁。
隊長の銃は、最初の戦いで俺が全弾打ち尽くしていたので、広場に放置している。
そして一丁はモンスターが噛みついたせいで、遊底が歪んで後退しなくなっていた。
弾丸ごと無事だった銃は一丁だけ。
それも全員のレベル上げに使って、弾丸を使い切っていたはずである。
いや、違う。
俺達、西浜高生を引率していた自衛官は四人。
そしてモンスターの襲撃で死んだ自衛官は三人。
モンスターと戦うよりも前――俺達、生き残った生徒達は、広場の中央に集められていた。
あの時、隊長は茂木さんに何と言っていたか・・・
『そうか。佐竹はダメだったか。――緊急事態だ。予定とは異なるが、君達、特補生達にも前線で戦って貰う。岸岡、吉田。彼らをお前達の下に付ける。スキルを聞いてフォーメーションを組め』
そう。佐竹と呼ばれた転移事故で死んだ自衛官。
彼を見つけたのは茂木さんだったのだ。
きっと彼女は自衛官の死体を見付け、その時に死体から銃を手に入れたに違いない。
だが、どうして? そしてなぜ、彼女は俺達にその事を黙っていた?
茂木さんは震える手で銃の撃鉄を起こした。
カチリという金属音に、俺の背筋が凍り付く。
その銃口が上がると――ピタリ。彼女自身のこめかみに当てられていた。
「えっ?」
茂木さんは震える声で言った。
「ここからは中久保くん一人で行って。私がいると中久保くんを不幸にしてしまう。私はそういう人間だから」
「不幸? ――それってまさか、さっき言ってた話の?」
俺はハッと目を見開いた。
茂木さんは自分の事を不幸体質だと思っているそうだ。
何かが上手くいきかけていても、最後の最後に失敗してしまう。そんな不幸な星の下に生まれたと、真剣に悩んでいるようなのだ。
確かに、運不運を気にする人間は俺の周りにも多い。
朝のTVの占いを見てから家を出るとか言っていたヤツもいる。
だが、俺にとっては理解し難い話だ。
幸運とか不幸とか、そういうのはただの偶然――後付けによる決めつけだと思っているからである。
きっと厳しいサバイバルが彼女の心を蝕んでしまったのだろう。
元々、深く気にしていた所に、ダンジョン転移という超ド級の事故に見舞われ、精神が不安定になってしまったに違いない。
不幸な自分がいるから周囲が不幸になる。だったら自分が死ぬしかない。そんな風に思い詰めてしまったのだろう。
俺は彼女を刺激しないように、ゆっくりと両手を上げた。
隙を突いて形態変換して、彼女の手から銃を取り上げる。――いや、無理だ。
確かに俺のステータスはスピード型だが、自力で立てない状態ではスピードもクソもない。
小石か何かを投げて、彼女の手から銃を落とす。――これも難しいだろう。
座った状態では力も入らないし、こんな不自然な体勢ではコントロールもままならない。
もしも外せば、その瞬間に彼女は引き金を引くだろう。
「――茂木さん、落ち着いて。まずはその銃を降ろそう」
「ダメ。私が助かる訳にはいかない。この事故は――クラスのみんなを殺してしまったのは、全部私のせいだから! 私の罪なの!」
「罪? 茂木さん、何を言ってるんだ?」
この事故が自分のせい? ダンジョン転移は茂木さんが起こしたのか? いやいや、そんなバカな。
いや待て。そうか。自分の不幸体質が呼び込んだ事故だと思い込んでいるのか。
「違う! あれは事故だったんだよ。自衛隊の隊長も言っていただろ? 外国のダンジョンでも起きた事故だって。だから茂木さんのせいなんかじゃないんだ」
茂木さんは真っ青に青ざめ、ブルブルと体を震わせている。
覚悟を決め、こめかみに銃口を押し当てても、やはり死が恐ろしいのだ。
当然だ。誰だって死ぬのは怖い。いくら死体を見たって――いや、数々の死を目の当たりにした今だからこそ、余計にリアルに恐ろしい。
「そんなに震えているじゃないか。無理しなくていいんだよ。そうだ、外に出て何か腹いっぱい食べよう。なっ? 腹が膨れてぐっすり寝れば、そんな考えなんてすぐに忘れるって」
多分、茂木さんはダンジョンの出口というゴールが見えた事で、感情が高ぶって、一時的に精神が不安定になっているに違いない。
真面目で責任感が強い心は、ともすれば内罰的な考えに陥ってしまう。
自分達だけ助かって申し訳ない。そんな後ろめたさが、不幸体質というコンプレックスに結びついて、彼女に極端な行動を取らせているのだろう。
「だから大丈夫。茂木さんのせいなんて何一つないから。さっき俺が言っただろ? 幸運とか不幸とかは、ただの偶然を後付けで呼び分けているだけだって」
俺の言葉に茂木さんは小さく笑みを浮かべた。
なんだか寂しそうな笑みだった。
「そんな中久保くんだから、きっと――。ううん。中久保くんは生きてね」
彼女の指に力が入った。
おい、バカ。止めろ。
「よせ! 茂木さん!」
パンッ!
乾いた銃声がダンジョンに響き渡った。




