その15 死闘の末
「漆川!」
漆川は何が起こったのか分からないのか、自分の胸から生えた触手を――今まで階層ボスが足として使っていた触腕を――呆然と眺めていた。
カラーン
漆川の手から落ちた自衛隊の大型サバイバルナイフが、階段を転がっていく。
「ご、ごほっ。い、痛い。な、何だよコレ」
肺をやられたのだろう。漆川はその場に崩れ落ちると共に血を吐き出した。
ズルリ
太い触腕が抜けると、驚く程大量の血が流れ出た。
漆川の顔色がみるみる紙のように白くなっていく。
ショックで意識が朦朧としているのかピクリとも動かない。あるいは気絶しているのかもしれない。
階層ボスは止めを刺すべく触腕を振り上げた。
しかし、その動きは今までになく緩慢だ。
コイツも限界が近いのだ。
漆川の攻撃スキルは確実に効いている。
俺は歯を食いしばって腕を持ち上げた。
(動け! 動け、俺の体! 動けええええええっ!)
俺は階段の縁を掴みながら這いずった。
下半身は痺れて動かない。左の肋骨が折れているのか、左腕に力を入れる度にズキリと脳天に激痛が突き刺さる。
満身創痍。
痛みに心が折れそうになる。
だが、ここで戦いを止めれば、待っているのは確実な死だ。
「死んで・・・たまるか!」
俺は転がり落ちるように階段を這った。
弾き飛ばされた位置が上の階段で幸いだった。今の俺の体力では、下から上に這い上がるのは不可能だっただろう。
後もう少し・・・。
俺は激痛を堪えながら、懸命に手を伸ばした。
伸ばした指の先が階層ボスのダラリと垂れた右触手に触れた。
俺は触手を掴んだ。その瞬間、掴んだ手に痛みが走る。
階層ボスの触手は昆虫のように皮膚骨格に覆われている。表面の尖った突起が俺の手の平の皮を破り、肉に突き立ったのだ。
だが、俺は痛みを無視して体を引き寄せた。
俺は階層ボスにもたれかかった。
目の前に階層ボスの頭が――犠牲者の顔の皮を張り付けた、醜悪な胴体が近付いた。
皮の焼け焦げる異臭に胃液がこみ上げた。
この時になって、階層ボスはようやく俺に気付いたようである。
右半身が完全に麻痺しているため、触手を握られても気付かなかったのだろう。
階層ボスは慌てて俺を振りほどこうとするが、その動きはあまりにも小さく弱々しかった。
密着している体から、階層ボスの戸惑いを感じる。
いや。これは戸惑いではない。恐怖心だ。
今まで数多くの死体を築いて来たモンスターが、今回は自分の死が近付いている事に気付き、必死に逃れようとしているのだ。
「・・・もう諦めろ。お前の負けだ」
俺は右手をヤツの胴体の継ぎ目に伸ばした。
そこには長く伸びた突起が――突き立ったままになっている大型サバイバルナイフの柄が――伸びていた。
俺はナイフの柄を掴むと、力いっぱい左右にこじった。
「キキキキキキキキッ!」
階層ボスの胸元の黒い塊――イカ型モンスターの嘴が、ガチガチと打ち鳴らされ、甲高い異音を発した。
階層ボスの――人食いの高レベルモンスターの――断末魔の悲鳴だ。
首の付け根の左触手がうねると、俺の手に巻き付いた。
ギチリと腕が締めあげられる。
まだこんな力を残していたなんて。
だがもう遅い。
「うおおおおおおおっ!」
俺が体重をかけてナイフを押し込むと、その瞬間、フッと圧力が弱まった。
スルリと離れた触手の色は、白く半透明になっていた。
いつの間にか、あの耳障りな異音も止んでいる。
階層ボスの体はグラリと傾くと、大きな音を立てて倒れた。
そのままピクリとも動かない。
俺は階層ボスの体をボンヤリと見下ろしていた。
目の前の光景が信じられずにいたのだ。
「やった・・・のか?」
本当に? 本当に終わったのか?
階層ボスは死んだふりをしていて、俺が気を抜いた途端に襲い掛かって来るつもりじゃないだろうな?
その時、俺の体にいつもの感覚が――経験値が流れ込んで来る感覚があった。
ああ。やったんだ。
その瞬間、俺は大きなため息と共に崩れ落ちた。
喜びはなかった。「もう戦わなくていい」その安堵の思いだけがあった。
こうして俺達は階層ボスを倒したのだった。
その時、俺はほんの数秒だけだが、気を失っていたらしい。
意識が飛んでいた、と言った方がいいか。
俺達プレイヤーは、戦闘時には痛みに対して我慢強くなる。
俺がボロボロの体になっても戦い続けていられたのはそのせいだ。
そして意識を失った瞬間、俺の形態変換状態は解除され、待ってましたとばかりにキズの痛みが体を襲った。
その激痛が、俺の意識を取り戻したのである。
「痛っ・・・そ、そうだ。漆川!」
俺は痛みを堪えながら辺りを見回した。
漆川は俺のすぐ後ろに倒れていた。
「漆川! うっ!」
漆川の右胸には大きな穴が開いていた。
俺は医者じゃないからハッキリとは言えないが、おそらく、ほんの少し中心にズレていれば、心臓を直撃していただろう。
しかし、運が良かったとは思えない。
死ぬのが早いか遅いか。
この酷い傷口を見れば、即死か出血多量で死ぬかの違いでしかなかったのは明白だった。
俺がショックで佇んでいたのは一秒か二秒だっただろうか。
漆川の瞼が薄く開いた。
「漆川?! 大丈夫か! 俺の声は聞こえるか?!」
何をマヌケな事を言っているんだ俺は。
大丈夫でないのは誰の目にも明らかだろうに。
俺は内心で舌打ちをしながら、漆川に話しかけた。
「見えるか?! 階層ボスはやったぞ! 俺達の勝ちだ!」
漆川の口が小さく動いた。空気が漏れるだけで何を言っているのかは分からない。
だが、俺はあえて問い正す事はしなかった。
「そうだ! お前の攻撃スキルが効いたんだ! 最高の攻撃だったぞ!」
漆川は少しだけ嬉しそうな顔をした。ような気がした。
あるいは俺の目にそう見えただけ――俺がそう思いたかっただけかもしれない。
「階層ボスは死んだ! 後は一階層から地上に戻るだけ! 俺達は助かったんだよ!」
いや、違う。助かるのは俺と・・・階段の下にいる茂木さんの二人だけ。
漆川は助からない。ここで死ぬ。
俺は罪悪感と心苦しさで、まともに漆川の顔が見られなかった。
その時、漆川の口が小さく動いた。
それはどんな運命のイタズラだろうか。
今まで一言も聞き取れなかった漆川の言葉が、この時だけは何故かハッキリと聞こえた。
俺はショックのあまり頭が真っ白になってしまった。
「中久保くん。漆川くんは?」
その時、階段の下から茂木さんが声をかけて来た。
階層ボスの生死よりも先に、仲間の安否を気遣う所が彼女らしい。
俺はハッと我に返った。
「・・・今、意識を失った。多分、二度と目覚めないと思う。階層ボスは死んだ。経験値が入ったから間違いない。もう上がって来ても大丈夫だよ」
「! ――わ、分かった」
茂木さんは一瞬息をのんだが、気丈にも取り乱す事無く、血だらけの階段に足を踏み入れた。
俺はそんな彼女の姿を見下ろしながら、心が乱れて仕方がなかった。
ついさっき、漆川は死にぎわにこう言ったのだ。
――茂木帆之香には気を許すな。と。




