その12 二つの賭け
階層ボスの腕が俺の脇腹に叩きつけられた。
体の奥でパシッという乾いた音がした。俺の肋骨が折れる音だ。
激しい痛みに息が詰まり、目の前に星が瞬いく。
頭がフワリとしたと思った途端、足元から階段がせり上がって来たかと思えば、ガツン。頬に強い衝撃があった。
勿論、階段が起き上がる訳はない。俺が階段から転がり落ちたのだ。
鼻の奥でツンと金属臭い匂いがする。
ヌルリとした液体が口に触れる。
鼻血が口に入ったのだ。
呼吸をするだけで脇腹に痛みが走る。
かなりの深手だ。
「ぐっ、ゲホッ、ゲホッ!」
転がっている間に唾液が気管に入ったらしい。俺は血の混じった唾液を吐き出した。
俺達プレイヤーは、戦闘中は強制的に痛みに対して強くなる。だからと言って痛みの感覚自体が無くなるわけじゃない。
「中久保!」
「中久保くん!」
五条達の声が聞こえる。
どうやら階段の出口近くまで転がり落ちてしまったらしい。
俺は痛みを堪えて階段を見上げた。
階層ボスはゆっくり近付いて来る。
勝利を確信した余裕なのか? いや違う。元々コイツはこの程度の速度でしか歩けないのだ。
(動・・・け)
激痛の中、俺はどうにか体を起こそうとした。
持っていたナイフはどこかに吹き飛ばされている。
二階層まで――五条達の所まで後もう少し。
前回の戦いの時も、ヤツは階段の外までは追って来なかった。
あそこまで行けば、今回も逃げられるかもしれない。
それだけが今の俺の唯一の希望だった。
(いや、違う)
何を弱気になっているんだ俺は。
俺はグッと奥歯を噛みしめた。
このケガがどの程度のものかは分からない。だが、到底一日や二日で完治するとは思えない。
そして俺達には悠長にケガが治るまで待っている余裕はない。
今、戦わなければ――この場で踏ん張らなければ――俺達に未来はないのだ。
(・・・ここは一か八か。やるしかない)
これは賭けだ。
俺は目を閉じると体から力を抜いてグッタリと横たわった。
負傷して瀕死の重体。もう虫の息。そんな姿に見えるように念じながらも、神経だけは張り詰め、階層ボスの接近に備えていた。
「中久保! どうした?! 立てないのか?!」
「中久保くん!」
五条達の叫び声が聞こえる。そして背後から迫る禍々しい圧迫感。
階層ボスだ。ヤツがすぐそこまで来ている。
心臓は恐怖でドキドキとうるさい程脈打っている。
どうした? やらないのか?
ギチッ!
来た!
俺の手足にヤツの腕が巻き付いた。
痛みに思わず声が漏れそうになる。
体が強引に持ち上げられると、そのまま壁に押し付けられた。
目を閉じているので見えないが、ヤツがすぐ目の前にいる。目と鼻の先にいるのが分かる。
「中久保くん! 目を覚まして!」
茂木さんが悲鳴をあげた。
俺は手足を拘束された状態で、ダンジョンの壁に押し付けられていた。
ここまでは読み通り。俺は最初の賭けに勝った。
コイツは稲代を殺した時。食うよりも先に、まず顔の皮を剥ぎにかかった。
皮を傷付けないためなのか、それとも少しでも死体が新鮮なうちに作業を終えたかったのか、その理由は分からない。
あの時、階層ボスは六本の腕で稲代の死体を壁に押し付けると、新たに細い二本の触手を伸ばしていた。
おそらく、腕の方は戦闘用で、皮を剥ぐという繊細な作業には向いていないのだろう。
だから次は――
シュルリ
目の前で何かが動く小さな音が聞こえた。
今だ!
俺は閉じていた目を見開いた。
最初に視界に飛び込んで来たのは、ヤツの巨大な円筒状の頭部だった。
無数の干からびた皮――人間の顔の皮膚――に混じって、まだ乾ききっていない新しい皮膚が張り付いていた。
稲代の顔の皮だ。
それに気づいた時――クラスメイトの女子の変わり果てた姿に気付いた時――俺は一瞬、怒りで体の痛みを忘れた。
(精神集中! スキル【刃渡り】!)
俺の手足は階層ボスの腕に拘束されていて、ピクリとも動かせない。
だから何だ? スキルは手で使う物だという決まりはないはずだ。
俺はこっそり口に咥えていた小さな棒――胸ポケットに差していたシャープペンシルを勢い良く左右に振った。
パシン!
乾いた音と共にシャーペンは粉々に吹き飛んだ。
衝撃と痛みに、一瞬、顎が外れたんじゃないかと思った。
「ギエエエエエエエエエッ!」
金属が軋むような甲高い悲鳴があがると、階層ボスは、まるで体に電流でも流れたようにビクリと硬直した。
俺は手足の拘束が解け、階段の上に崩れ落ちた。
やったぜ!
そう。俺が狙ったのは、階層ボスの首の付け根から伸びた触手。
コイツがいつも攻撃に使っている長い六本の腕ではなく、獲物の皮を剥ぐ時に使う、細くて華奢な触手だった。
これは賭けだった。
最初の賭けは、階層ボスが俺を死んだと見て、これ以上、死体を傷付けずに皮を剝ぎにかかってくれるかどうか。
次は、コイツの触手が見た目通りに華奢でデリケートな作りをしているかどうか。
そして俺は二つの賭けに両方共勝った。
スキル【刃渡り】によるパリィは、階層ボスの繊細な触手を弾き、大きな衝撃を与えた。
階層ボスの動きは完全に止まり、無防備な姿を晒している。
遂に掴んだチャンスだ。
俺は痛みを堪えて息を吸うと、階段の下に控えている仲間に叫んだ。
「漆川、今だ! やれ!」
階層ボスはパリィの衝撃で動けない。
今が攻撃のチャンスだ。
マリシャスのクラスを持つ漆川。その強力な攻撃スキルをコイツに叩き込む時が、ついに来たのだ。
――だが。
漆川は動かなかった。
あいつは怯えた表情で立ち尽くすだけで――ガクガクと震えるだけで、一歩も前に出なかったのである。
ウソ・・・だろう。
俺は目の前で起こった事が信じられなかった。
漆川は動かなかった。いや、動けなかった。
もし、自分の攻撃スキルが通じなかったら。
そう思うと恐怖で足が前に出なかったのだろう。
漆川は階層ボスのあまりの強さ、恐ろしさに、この土壇場で怖気づいてしまったのだ。
この作戦は漆川の攻撃ありきで――マリシャスの攻撃スキルの火力ありきで立てられた作戦だ。
漆川が動かなれば俺達に勝ち目はない。
漆川、お前・・・
その時、階層ボスの体がブルリと震えた。
硬直が解けたのだ。
俺が命を懸けてギリギリで勝ち取った貴重な時間は、あっさりと終わりを告げたのである。
今の俺は負傷で立ち上がる事も出来ず、策も尽き果てていた。
恐怖と絶望が俺の胸を締め付けた。
こんな・・・バカな話があるかよ。
まだ現実を受け入れられない俺に、階層ボスの攻撃が襲い掛かる。
俺は自分の命を奪う攻撃を――避けようのない死を――どうする事も出来ず、ただボンヤリと眺めていた。
「中久保! 逃げろオオオオオオッ!」
その時、叫び声と共に、階段を駆け上がって来る影があった。
腰だめにナイフを抱えた男子生徒――五条だ。
五条は一か八か、俺が逃げ出すための時間を稼ごうと、無謀を承知で階層ボスに挑みかかったのだ。
だが、今の五条はプレイヤーの力を失っている。
一般人が、この恐ろしい高レベルモンスターに敵う訳はなかった。
階層ボスは途中で攻撃の軌道を変えると、無造作に五条の体を薙ぎ払った。
バシッ!
肉を打つ大きな音と共に五条の体が吹っ飛んだ。
階段の壁に打ち付けられた五条は、後頭部が割れて大きな血の花を咲かせた。
五条は死んだ。
そして目の前には五条を薙ぎ払った状態の階層ボス。
階層ボスの左腕は広げられ、無防備な胴体をさらけ出している。
いや、違う。胴体じゃない。
これはコイツの擬態だ。
「精神集中! 蓮飛!」
蓮飛は数秒間、極限まで集中力を高め、敵の攻撃を回避するというアクティブ・スキルである。
使い勝手の難しいスキルで、俺は今までこのスキルを攻撃に使った事はなかった。
だが、五条が命を懸けて作ってくれた僅かな隙。このチャンスを生かすためには、無理を承知でやるしかない。
「五条オオオオオオッ!」
俺は腰から予備のナイフを引き抜くと、階層ボスの首の付け根に突き刺した。




