その4 稲代康江
◇◇◇◇◇◇◇◇
稲代康江は気の強い少女だった。
幼い頃から親によく「あなたは少しは落ち着いて考えてから喋りなさい」と注意される程、気持ちがすぐに口を突いて出る性格だった。
逆に考えれば、それは彼女の自信の現われだったのかもしれない。
彼女は容姿も人並み以上に優れていた上、頭の回転も早かった。
根を詰めて勉強しなくてもそれなりの成績は取れていたし、部活動には入っていなかったが、運動神経だって別に悪くは無かった。
何をしても人並み以上にこなす人間。
特に何もしなくても、いつの間にかクラスの女子の中心にいる人間。
稲代康江とはそういう少女だった。
彼女が県立西浜高校に進学したのは、とある男子生徒の影響が大きい。
彼の名前は五条昴留。
同じ中学の男子生徒だ。
三年間、一度も同じクラスになった事は無いが、彼はその容姿と頭の良さ、そして大人びた物腰で校内の有名人だった。
そう。彼女は五条に憧れていたのだ。
クラスメイトの女子達は何人も五条に告白していた。
そして五条はその全てを断っていた。
しかし、女子達に傷付いた様子は無かった。
彼女達にとっては、芸能人に告白するような感覚だったのだろう。
元々、自分達の手が届く存在とは思っていなかったのだ。
もちろん、「ひょっとしたら」と夢見る気持ちはあったに違いないが。
そんな女子達の恋バナを聞く度に、稲代康江は次第に自分の気持ちが萎縮していくのを感じていた。
私もみんなのように彼に告白してみたい。けど、断られたらどうしよう。
生来の気の強さ、そして彼に対する本気の想いが、彼女の行動にブレーキをかけていた。
こうして稲代康江は自分の想いを胸に秘めたまま、そして、キッパリと諦める事も出来ずに、少年の後を追うように同じ高校に進学したのだった。
一年生の三学期。学校のダンジョン実習で彼、五条昴留はレベルを得てプレイヤーとなった。
そして稲代康江はレベルを得る事は出来なかった。
彼女は「やっぱり五条くんは選ばれる人間だったんだな」と、納得すると同時に、自分が彼とは違い選ばれなかった事にショックを受けていた。
そうして二人は二年生になり、五条はプレイヤー達が集まる特別候補生クラスに。稲代康江は一般クラスに割り当てられた。
もう彼と私では、住む世界が違ってしまったのね。
彼女は告白もしていないのに、勝手に恋に破れたような気持ちになってしまったのであった。
そして運命の二年生のダンジョン実習日。
彼女のクラスは五条達のクラスと同じ班になった。
彼女はつい、無意識に彼の姿を目で追っていた。
五条はクラスの委員長として、自衛隊の指揮官の下で全員を良くまとめていた。
その横顔は、クラスの男子の誰よりも大人びて頼もしく見えた。
そしてあの最悪の事故が起きた。
最初はダンジョンが崩壊したのかと思った。
それほど激しい揺れだったのである。
生きながら地面に押しつぶされる!
その恐怖の中、彼女は「こんな事になるなら、彼に告白しておけば良かった」と、心の片隅で小さく後悔していた。
結局、彼女は死ななかった。
ダンジョン間の転移の際も、そしてその後のモンスターの襲撃の際にも、彼女は奇跡的に生き延びた。
目の前で死んだクラスメイト達。モンスターの強さ、恐ろしさ。そして出口の見えない不安。
幸い、この異変の中、彼女はレベルを得てプレイヤーになる事が出来た。
ただしプレイヤーの中でも最低のザコ、バランス型だったが。
どこまでも彼女をあざ笑うかのような過酷な現実に、彼女は心が押しつぶされそうになった。
まともな力を得たクラスの男子達――中久保実、漆川貴紀の二人が心底妬ましく、憎らしかった。
そんな彼女が今までどうにか気丈に振る舞えたのは、すぐそばに彼が――五条昴留がいたからである。
五条くんの前で、みっともない姿は見せられない。
生来の気の強さもあったのだろう。
彼女はそれだけを心の支えに、この最悪の状況の中、辛うじて自分を保っていたのである。
ダンジョンの中をさまよう事数日。
遂に最後の携帯食料も尽き、真っ暗に閉ざされたみんなの未来に希望の光を与えてくれたのは、やはり五条昴留だった。
彼は今、自分達がいる謎のダンジョンの構造が、墨田区ダンジョンの構造と完全に一致する事に気付いたのである。
彼の推測通りなら、現在の階層は墨田区ダンジョンの十二階層。
地図を頼りに最短ルートを辿れば、全員が力尽きる前に無事に脱出する事が可能と言うのである。
「ホント?! ホントにダンジョンから出れるの?! 凄いよ五条くん!」
稲代康江の目に涙が浮かんだ。
こんな風に心が躍ったのはいつ以来だろうか。
全員が笑みを浮かべていた。
私達は助かる。
この地獄の中、初めて希望が見えた瞬間だった。
それからは強行軍だった。
睡眠時間もほとんど取らず、休憩も水場で水を補給する時以外にはろくに取らない。
とにかく前へ前へ。一歩でも半歩でも前へ。
誰も弱音は吐かなかった。
全員の心は一つだった。
一刻も早くこの地獄から脱出する。
生きて地上に出る。
そしてとうとう、彼らは一階層に続く階段に到達した。
稲代康江は我を忘れて走り出した。
「五条くん! とうとう、第一階層に到着したよ! 後もう少しだよ!」
「稲代さん! 一人で先走っちゃダメだ! 戻って!」
彼が何か叫んでいたが、今の彼女の耳には届いていなかった。
地上に帰れる! 自分達は助かったんだ!
彼女の心は歓喜に沸き返っていた。
しかし、ダンジョンはどこまでも残酷で非情だった。
後少しで地上に出られる。その希望の階段に絶望の刺客を用意していたのである。
それはモンスターだった。
今まで一度も見た事の無い、異様な姿をしたモンスター。
立ち上がった姿は約三メートル。
長く伸びた円柱状の頭部に、昆虫のように節くれだった六本の細い腕。
だが、それの最大の特徴は容姿ではない。
ひと目見ただけで、恐怖で足がすくんで動けなくなる。それほど絶対的、圧倒的な暴力のオーラ。
それは人間の天敵。人の命を刈り取る”捕食者”だった。
「稲代! 形態変換だ! 形態変換しろ!」
クラスメイトの男子が叫んだ。
しかし、稲代康江は動けなかった。
蛇に睨まれた蛙のように、この高レベルモンスターに射竦められていた。
「あっ」
それは一瞬の出来事だった。
モンスターの手が伸びた。
そう思った次の瞬間、大きな衝撃に体が揺れた。灼熱の痛みが胸を襲う。
彼女はそれの手によって貫かれていた。
「稲代オオオオオオッ!」
周りの風景が色を失い、耳がキーンと遠くなった。
頭の芯がカッと熱くなり、手足の感覚が薄れ、曖昧になった。
私は・・・死ぬ?
時間が引き延ばされ、一秒が十秒にも、三十秒にも感じられた。
胸を焼く痛みは痺れにも似ていた。
痛みが強すぎて、脳が処理できる量を超えていたのかもしれない。
死ぬ。あっけなく。
クラスメイトのみんなのように。
彼女の脳裏に死んで行ったクラスメイト達の姿が――みんなの死体が――浮かんだ。
自分も死ぬ。死んで死 体になる。
五条くん。
稲代康江の目から涙がこぼれた。
また、告白しそこねちゃった。
運命のあの日。ダンジョン災害に巻き込まれた時。死を覚悟した彼女は、彼に告白出来なかった事が心残りだった。
結果として、あの時は二人共無事に済んだが、結局、彼女は今日まで彼に告白する事は出来ずにいた。
子供の頃から気持ちをすぐに口に出してしまう彼女が、それだけは――その気持ちだけは――唯一口に出来なかったのである。
私っていつもそうだ。間に合わなくなってから後悔する。
涙が頬を濡らした。気道を塞ぐ血で呼吸が出来ない。
出血と酸欠で次第に意識が朦朧としてくる。
次に生まれ変わったら、今度は後悔しない生き方を・・・したいな。
それが稲代康江の心に浮かんだ最後の言葉だった。
彼女の意識はプッツリと途切れ――
そして二度と戻って来る事は無かった。
こうして稲代康江は死んだ。
次回「階層ボス」




