一話 書記官と右筆
たとえば同じ「青空」にしても、春の日の柔らかい青と、夏の力強い青が異なるように。
たとえば一言に「森」と言っても、広い葉を持つ緑鮮やかな南国の森と、凛と聳える針葉樹の北の大地の森があるように。
爽やかな晴天のもと、豊かな木々に囲まれながら、私はこのありふれた光景を、「見知らぬ景色」と捉えていた。
「目が覚めたようですわね。ウサリコ・ベッケンバウアー」
ふいに名前を呼ばれ、私は勢いよく起き上がった。急に体を動かしたことで、チカチカと軽く目眩がする。
「急に動いてはいけませんわ。時間遡行の魔法は人間には負担が大きいのですから」
時間……遡行?
彼女の忠告を聞かず、私は素早く身構えると声の主に向き直った。
銀の髪をふたつにくくり、縦ロールにした……幼い、少女。
銀の睫毛に縁取られた大きな瞳は真っ赤に熟れた林檎のよう。
頭には鹿に似た角が生えており、可愛らしいレースのリボンで飾られている。
「あなた……」
外見は随分変わってしまっているけれど、目の前の美少女が魔王の根城で出会ったあの魔族の美女であることは明白だった。口調も、空気も、まなざしも、幼返りしても全く変わることが無い。
「時間がございませんので手短に説明しますわ。わたくしはテラダ・ヨルア。魔王様の従妹にあたる王族です」
銀髪の美少女――ヨルアはそう自己紹介したけれど、正直、その名に心当たりはなかった。勇者一行として旅をし、十二将軍や魔王側近といった多くの魔族と戦ってきたけれど、彼女には覚えが――
「あ」
もしかして。
「≪しろがねの書記官≫!?」
「人間にはそう、呼ばれていたようですわね。表舞台には出ませんでしたので、顔は知られていないでしょうけれど。ねぇ、≪くろがねの右筆≫?」
その二つ名に、私はぎくりと身を竦ませた。
彼女は、知っているのだ。
私が何故、最後まで生き残っていたのかを。
「歴史を書きとめる文官――真実の証人。魔界を綴るわたくしと、人間界を書き残すあなた。戦いの全てを見届け、伝えるために。だから私達ふたりが、最後の戦いで殺されること無く残っていた。あなたの仲間は勇者を支えつつ、あなたのことも決して死なせないようにしていたのでしょう? 回復の術も防御の法力も優先し、身を挺してあなたを庇い。だから、【遺されていた】」
全身の血の気が引くのと、頭に血が上るのが同時に来て、目の前がくらくらとした。
私なんかを庇ったりしなければ、ひょっとしてみんなは……。
「わたくしも同じ。歴史を留め、新たに始めるための標として、わたくしだけが生き残った。魔王様が討たれた後も、わたくし、ひとりだけが」
まるで、鏡を覗き込むように。
彼女……ヨルアは私の瞳を見つめ、抑揚のない声でそう、語った。
ヨルアの真っ赤な瞳は吸い込まれそうに美しく、光を閉じ込めたように煌めいていて、彼女と見つめ合いながら私は、言葉に出来ない心地よさを感じていた。
「≪しろがねの書記官≫と≪くろがねの右筆≫。わたくしの魔力とあなたの理力。二人の力を合わせれば、歴史を変えられる。悲しみに塗れた歴史を、やり直すことが出来る」
胸にさざ波が広がるように、穏やかにヨルアの言葉が沁み込んでくる。
変えられる? 本当に?
「さて、時間がありませんのでしたわ。手短に説明いたしますわね。ここは魔界、時間はおよそ400年前。あなたには、まだ幼き魔王様の家庭教師をしていただきます」
ヨルアがぽん、と両手を合わせ、突拍子もないことをさらりと告げた。
魔界……? 400……年……? そして……
「か、家庭教師~~~!?」
「本日これから王城にて園遊会がありますの。あなたのことはその席にて全魔族に紹介します。わたくしの大切なお友達として」
ま、ま、待って、魔族しかいない中に人間である私一人が放り込まれ……!?
「ご安心なさって、わたくしの角にかけて、あなたには決して危害を加えさせません。いえ、羽ペン一本足りないほどの不便さだって感じさせはしませんわ。あなたのことは最重要賓客として扱い、何一つ不自由のない生活を保障します」
で、で、でも。
「御心配は不要。今はあれより400年前。まだ、人間と魔族がいがみ合う前の時代。どちらの種族も交流を始めたばかりで、互いに興味津々ですの。そこであなたには、魔王様の家庭教師になっていただき、人間界の素敵なところをたくさん教えて差し上げて欲しいの」
そこでヨルアは出会って初めて笑顔を見せた。ふわりとはにかんだ笑顔はたまらなく可愛くて、私は思わず息を止め、魔法にかかったかのように彼女に見惚れてしまった。
「ああ、でもあなた、とってもみすぼらしいわ」
まばゆいばかりの美少女から突然身も蓋もない罵倒を浴び、私はその場で固まった。
た、た、確かにヨルアみたいに綺麗な女の子から見たら私なんてそりゃそうでしょうけど、そ、そんな、そんなハッキリと……!
「王城に行く前に整える必要がございますわね。少々ごめんあそばせ」
言うが早いかヨルアがパチンと指を鳴らすと、魔力が集結して輝く光の粒となった。粒状化した魔力が金色の光を放ちながら私を包む。らせんを描いて私の体をくるくると奔る小さな星。そのやさしい温もりに目を瞬かせているうち、ぱん!と弾けるような音がして、私を囲んでいた魔力の光が霧散した。
「え……これ」
戦いで血みどろになった法衣は消え、代わりに私の身を包んでいたのは、白いレースがたっぷりとついたふわふわのドレスだった。
「え、え、え、これ!!」
汗でどろどろになっていたボサボサの髪は艶々に梳かれて整っており、なんだかいい香りまでする。
傷だらけだった手足もすっかり怪我は癒え、お風呂上りにクリームを塗った後のようにもちもちのすべすべになっている。
破れた皮のブーツの代わりにツルツル光る革のパンプス。
手首には護符ではなく小さなお花を模した可愛らしいブレスレット。
鏡が無いからよくわからないけど、多分これ、淡くお化粧もしている。
「やっぱり。きちんと整えれば綺麗じゃありませんの。聖職者ってどうして身だしなみに手を抜くのかしら」
「み、身だしなみ、というか、華美な服装は禁じられ、て、て、ていうか、き、綺麗って……!」
「自覚なさった方がよろしいわ。ウサリコ、あなた、とてもお綺麗よ」
そう告げるヨルアは相変わらずにこりともしていなかったけれど。
明らかに変貌を遂げた自分の姿に、私は嬉しいよりも照れくさいと恥ずかしいが勝っていた。
指には、きらきらした指輪。
爪までぴかぴかに磨かれていて、砂浜で光る貝殻みたい。
自分の姿なのになんだかとてもどきどきして、私はまじまじと自らの両手を眺めてみた。
「……あ」
どくん、と心臓が竦みあがる。
腕や足の傷は治されていたのに。
右手のひらにくっきりと残る、大きな刀傷。
これは、「勇者の剣」の痕だ。
折れた切っ先を握り締め、魔王の心臓を貫いた、あの。
「時間遡行をするにあたり、みっつ、【こちら】に持ち越しました」
ヨルアがしなやかな指を三本立てて示してみせる。
「ひとつは、記憶。最終決戦までの思い出を、全てそのまま持っています」
どくん、どくん、手のひらの痍が熱を帯びて脈打つ。血も止まり皮膚も閉じ、今は傷痕だけだというのにそれは、まるで「忘れるな」と私に囁くがごとく。
「ふたつめは、記録。わたくしはこの筆録を。あなたは聖女の証を」
そう言ってヨルアは分厚い古びた本を取りだした。ぱらぱらとめくりながら、彼女は続けた。
「わたくしの見聞きしたものは全てここの記してあります。これが、≪しろがねの書記官≫の記録の全て。一方あなたは≪くろがねの右筆≫として、正教会へ定期的に手紙を送っていたのでしょう? その正教会の聖女である証を、あなたは今も身に付けています」
言われてはっと胸元に手をやる。首から下がる金の紋章。これは、聖女として洗礼を受けた際に教皇様より賜ったもの。こんなことまで、魔族に把握されていたなんて。
「そしてみっつめは、傷。あなたはその右手のひらに、そしてわたくしは……ああ、やめておきましょう。切り札の一つくらい、わたくしも残しておかねばなりませんから」
「えっ、ずるい! 私のことは聖女の証まで掌握してたくせに!」
そんな私の抗議に全く動じる様子もなく、ヨルアはつい、と顔を上げて遠くを見た。
「さて、おしゃべりが長くなりました。急いで王城へ向かいましょう。何せ本日は、大切な魔王様の家庭教師のお披露目ですから」
「え、あの」
まだ了承していないのに、とか。
「大切な」というのは「魔王様」にかかる言葉なのか、それとも「家庭教師」の方なのかとか。
色々言いたいことを言えないうちに、私はやすやすとヨルアの転移魔法にかけられて、ふわりと魔力の渦に巻き込まれてしまったのだった。
【未完】