柊シュリ
*
「ただいま……」と、囁くようにいって、後手に扉を閉める。
多分、みんな、もう寝ている。
父も、母も、アカリも、きっとネコさんも。
みんなを起こさないように、静かに廊下を進む。
こんな予定ではなかった。こんなにも遅い時間に帰宅するはずではなかった。
気がつくと、わたしは筒鳥署二階のソファに座っていた。ソファの上で眠ってしまっていた。いつ寝たのだろう。どのくらい眠っていたのだろうと焦って反省して、慌てて身体を起こすなり向かいのソファで眠っているスルガさんの姿が目に飛びこんできて、頭が混乱した。どうしてスルガさんが同室にいて、どうして眠っているのか。なにがなんだかわからなくてとりあえず立ちあがって壁掛け時計で時間を確認すると、「え!」と声がでてしまうほどの時間が経過していた。
スルガさん、スルガさん? 起きてください。どうしてここで寝てるんですか。
スルガさんがいることはもちろん、長時間わたしが起こされずに放置されていたことも理解可能な範疇の外にあって――警察署の中だというのに。ひとまずスルガさんを起こそうと考えて、名前を呼んで肩を叩いて身体を揺すってみたけれどもまったく起きる気配がなくて、睡眠薬でも飲んでいるんじゃないかってくらい熟睡してしまっていて駄目だ。駄目だった。スルガさんを起こすのは諦めて、ひとまず部屋からでて誰かを探して事情を説明して――説明するにもわたし自身なにがなんだかよくわかってないが、とりあえずこのまま部屋に留まっていてもらちがあかないので、薄暗い廊下を進んで階段を降り、一階の夜間受付と書かれた場所の近くに立っていた男性警官に声をかけると、目を丸くされた。
『まだ署内にいらっしゃったんですか?』
いたんです。
寝ていたんですと正直に話したら急に疲れを覚えて立っていられなくなって、近くにあった椅子に腰をおろして、はああああ、と溜め息が意図せずでてきて、『コーヒーでもいかがです?』と男性警官からいわれたので、礼をいい、ご馳走になった。
それからバタバタと、文字どおりバタバタと音がするほどいろいろなことがあったのだが、いろいろあったのはわたしより筒鳥署の署員のみなさんのほうであって、署内は重複した重大事件の捜査で大変そうな様子だった。その間、わたしは一階でコーヒーを飲みつつ、スルガさんが目を覚まして、車が運転できるまで回復するのを待った。
目の前をたくさんの警察官が駆けて行った。
知った顔がわたしを見つけるたびに、まだ署内にいらっしゃったんですかと同じ質問をされたので、その都度わたしは苦笑をもらして申しわけなさげに頭を下げた。
そして日付が変わろうとしているこんな時間にようやく帰宅して、忍び足で廊下を進んでいるのだが、わたしが帰宅するまでに、母から二回、黄山さんから三回の不在着信がスマホに残っていた。
折り返し電話するのは明日にして、とりあえずいまは物音をたてないように摺り足で、明かりのともっているリビングに身体を滑りこませて足をとめる――
テーブルの上にお寿司が載っていた。
ペットボトルのお茶と、わたし宛のメッセージも。
椅子を引いて、静かに腰掛けて、お寿司にかけられているラップを解いた。
メッセージを読む。
冒頭に戻って、もう一度。
計三回、読んだ。母からメッセージを。
洟をすすって、はあ、と息を吐く。
箸を手に取り、手のひらをあわせる。
指が小刻みに震えていたので、テーブルの上に箸をそっと置いた。
鼻から息を吸い、ゆっくりと口から吐きだす。
みんなを起こしてしまわないように。
物音をたててしまわないように。
そして再び箸を手に取り、手のひらをあわせて目をさげた。
「――いただきます」
ありがとう、と母への礼を心の中で呟く。
指は相変わらず震えているけど、大丈夫。
端に置いていたメッセージにちらと目を向ける。書いてある文句はなんてことない。
なんてことないから、ありがたくてあたたかい。
わたしは大丈夫。
大丈夫だ。