22:00
別荘に旅行した時、音己ねぇと約束した浅草でのお出かけは久しぶりなこともあってとても楽しかった。
昨日の夜からずっと引きずっていた気持ちも、どこかへ置き去りにしてしまってしまったのかと思うほど足が軽い気がする。
音己「次はおでんか、天ぷらか。」
一「一旦休憩したい。破裂する。」
音己ねぇは俺の腹を軽く小突き、膨れ具合を確認すると河原に涼みに行くと行って歩き出した。
一「ねえ、音己ねぇ…?」
音己「なに?」
一「なんでずっと手繋いでんの?」
音己「半分こって言ったじゃん。」
夜、駅で合流してから音己ねぇはずっと俺の手を繋いでいて、飯を食うときも会計の時も離さないままだった。
一「何も半分するものないよ。」
コンビニの帰りで言っていた『半分こ』は買い物袋あったから。
けれど今、俺の手には音己ねぇの手しかない。
…何を半分してるんだろうな。
音己「寂しいの半分こ。」
そう言って音己ねぇは俺の手を少し強く握りしめて俺を見上げてくる。
音己「泣きたいなら泣けばいい。辛いなら辛いことを吐き出せばいい。寂しいなら、今は私が側にいるから大丈夫。」
音己ねぇは秋風が香るような優しく切なそうに笑った。
その表情は自分が側にいてほしい存在と思われていないことに気づいているような気がして、この手を今離してしまったらいなくなってしまうそうだった。
一「音己ねぇは好きな人と一緒にいたい…?」
俺は音己ねぇの顔をまともに見れなくて目線を逸らしながら質問する。
音己「いたいね。」
一「相手も好きって言ってくれたら嬉しい…?」
音己「嬉しいね。」
一「でも、そんな人にずっと避けられたら辛いよね…?」
音己「経験ないから分からない。」
そう言って音己ねぇは答えをうやむやにしてしまう。
一「好きな人の分からないことが見えなくて怖くなったりする…?」
音己「私は知りに行く。」
一「どうやって?」
音己「こうやって言い出しやすい状況を作る。」
俺はその言葉に少し驚き、音己ねぇを見るとさっきよりも頬が染まってるような気がする。
音己「一は今誰のこと考えてる?」
音己ねぇは俺が顔を向けているを気づいてるはずなのに、全くこっちを向いてくれない。
しかも、涙袋にどんどん水を貯めていっているのがこの暗がりでも分かる。
一「…言えない。」
言ってしまったら音己ねぇが泣いてしまう。
そんな気がした。
音己「一は周りの人のことをよく見れる優しい人だと思うよ。」
一「…ありがとう。」
音己「でもね、見ても感じ取るのが下手くそすぎる。だから他人にとって思わせぶりなことばかりするんだ。そういうところ、好きじゃない。」
一「嫌われてるの、知ってる…。」
俺は筆を持てるようになってから、早朝を朝日が照らす紅海のような空を黒えんぴつしかなかった家で描いていた。
それくらしかあの家で楽しみと思えることはなかったから俺は描き続けた。
白黒でしか表せない、奏より下手くそな景色をなんとかして色づけたいと思っていると、だだっ広い庭の柵の向こうから毎朝の日課になった音己ねぇとの牛乳を飲む時間がやってくるんだ。
あの日も柵の隙間からいつもの時間より遅れてきた音己ねぇがつまんなそうな顔をしていた俺のことを笑顔にするために手を振ってくれた。
俺はやっと来てくれた音己ねぇに向けて、体を少し乗り出して窓からめいいっぱい手を降っていると体を支えていた手が朝露で滑ってそのまま俺は部屋の真下ににあった木にぶつかりながら落ちて頭から着地してしまった。
そこから俺の人生の全てが変わってしまったんだ。
世間体を気にする父親の高圧的な態度、母親の自己保守的な態度、周りから投げかけられる好奇な物を見る目と上っ面の優しさの押し付け、そして音己ねぇと秘密基地での牛乳の時間がなくなったこと。
5歳児だった俺の小さい世界では奏以外の全てが変わってしまってすごく怖かった。
昔見ていた俺の世界が今も続いていれば俺はこんなにも人に嫌われてしまうような下手な嘘のつき方をしないだろう。
けど、誰でもいいから俺の側を離れてほしくなくて、その人が求めていそうな言葉を自分で思っていなくても口に出してしまう。
そうやって自分の世界が守られるのであればそれで良かった。
けど、その世界はとても脆くていつもメッキが剥がれていたり、ほころびが見えていて誰もが理想とはしない人生なんだ。
それでも自分の今ある人生を自分で終わらす勇気もなく、また新たに始める1歩も踏み出せずにこの時まで立ち往生。
あの時からなにも変われない俺はずっとひとりのままなんだ。
「ちゃんと、好き。…ちゃんと好きだよ。」
と、音己ねぇは静かに声を絞りだして言った。
俺はその言葉に驚いて昔の記憶を都会の高速道路を駆けるように色鮮やかに思い出す。
一「でも、病院で嫌いって言った…。」
音己「嘘をついちゃう一が嫌い。自分を偽る必要なんかないのに隠そうとしちゃう一が嫌い。」
音己ねぇは顔を空を見るように少し上げて瞬きもせずに星屑が集まった空を見るけれど、あの空よりも音己ねぇの目の方が煌めいて流れ星もたくさん流れていた。
音己「嘘は泥棒の始まりだよ。」
一「…なにも盗んでないよ。」
音己「人の気持ちを奪っちゃう泥棒さんだよ。そういうの1番嫌い。その人が空っぽになるから。」
そう言うと音己ねぇは足を止めて俺の手を離そうとした。
一「やだ。離さない。」
俺はずっと握ってくれていた手が離れるのが怖くて離れる寸前で握り直す。
音己「こういうのは好き同士でするものなんだよ。」
一「俺も音己ねぇ好きだよ。音己ねぇも好きって…」
音己「それは違う好きだよ。」
それは自分の言葉に対して?
それとも俺の言葉に対して?
けど、俺と音己ねぇが今思ってる感情は同じものではないってことが音己ねぇの目に映る俺の顔で分かる。
一「俺、ずっと…ちゃんと音己ねぇ好きだよ。」
俺は片手でしか掴んでいなかった音己ねぇの手を両手で掴み、いなくならないでと心の中でたくさん願う。
あの色のない家から俺に色をたくさん与えてくれたのは音己ねぇなんだ。
音己ねぇの小学校の道具箱に入っていたクレヨンと12色の色えんぴつを俺が使い切っても、嬉しそうに笑ってくれた音己ねぇが好き。
保育園の運動会でかけっこをしてびりっけつだった俺が泣いてたら、音己ねぇがもう1回と言って保育園の裏庭で俺と音己ねぇと奏3人でかけっこして俺を2位にしてくれた、優しかった音己ねぇが好き。
俺が父親の暴力が嫌で無謀な家出をした時、初めて見つけた公園のブランコで1人遊んでいたら1番に見つけてくれたヒーローみたいだった音己ねぇが好き。
あの日もちゃんと俺は音己ねぇが好きだった。
おでこに怪我したその日の夕方にお見舞いに来てくれた時、俺が絵を描くのをやめて親の言われた道に進むと言ったら、『一、嫌い。』と俺の好きな音己ねぇはそう言って俺の左頬を噛んだ。
「一がやりたいものをやっている姿を私は見ていたいよ。」
そう言ってくれた音己ねぇは今みたいに涙いっぱいの目をしながら、アタッシュケースのような箱を夢を失いかけた俺の脚の上に置いて走って帰ってしまった。
俺は好きな音己ねぇに5歳の誕生日だって言うのに嫌いと言われたことがショックでその中身をすぐに見ることが出来ずに退院後、1階に移動された物置部屋のような窓のない自分の部屋でその中身を見た。
その瞬間、あの家にはないたくさんの色が飛び込んできた。
その中身は150色の色えんぴつにクレヨン、クレパス、水彩・油絵の具、ビビットな数十種類のペンがぎっしり入っていて俺がまだ見たことない色がたくさんあった。
5歳の誕生日にこれを持ってこようとしたからいつもより遅く来たんだと分かった時、俺の夢を応援しようとしてくれた音己ねぇに人生で1番最低な嘘をついたことに気づき、俺は自分が嫌いになってずっと自分を偽るようになってしまった。
もう好きな人を傷つけないように、好きになってくれる人を傷つけないようにと思って嘘をつき続けたけどその好きは戻ってくることはずっとなかった。
けど、なんで今それが戻って来てしまうんだろう。
今じゃないよ…。
あれは子どもが少し年上のお姉さんに憧れる好きで、きっと恋愛感情なんかなかったんだ。
音己ねぇも可愛い弟の友達が“可愛い”と思って好きと感じただけで、きっと恋愛感情なんかじゃないんだ。
音己「…私もずっと好きだった。でも、もう違うんだ。」
俺の事を何でも分かってしまう音己ねぇはそう言って俺の手を振りほどこうとするけど、成長してしまった俺の少し大きめな手から逃げられない。
一「戻れないかな…。」
あの時みたいに今こうやって遊んでたんだ。
歳食って酒は呑めるし、好きなものを金がある分食えるようになって、行こうと思えばどこにだって行けるようになった。
こんなにも生きる道幅は広がったのに、音己ねぇと一緒にいる道が見えないのはなんでなんだろう。
音己「戻りたくても戻れないよ。もう大人だから。」
音己ねぇは俺との思い出を全てしまい込み、俺と一緒に行けるかもしれない道を閉ざした。
…俺は、いつまで経っても子どもでしかないと思っていた。
けれど、俺以外の他人から見れば俺は大人。
ガキにはジジィとたまに呼ばれる始末。
子どもでいたくても時が俺たちを大人の形にしてしまった。
一「…もう少し、半分こして。」
俺は音己ねぇへ最後のわがままをお願いする。
音己「いいよ。私のも半分こね。」
一「うん…。」
音己ねぇと俺は手を繋ぎ直し、あてもなく足を動かし続けながら寂しさを分け合った。
→ ソラニン