私が失ったもの。
胸糞注意です。
「おはよう、あなた」
「おはよう」
彼は気だるそうにベッドから立ち上がる。
昨夜久し振りに帰宅した彼は用意していた夕飯に手を付ける事無く、シャワーを浴びて乱暴に私を抱いた。
快楽を感じる筈も無い、ただ抱かれているだけ。
彼から見たら私は性処理の為に存在する人間なのだろうか?
いや、もうそんな価値も無い、ただ性を注いでやらないと枯れてしまう哀れな女。
不倫の果てに、男を乗り換えた使用済みの女...
「次はいつ来れそう?」
玄関で見送りながら聞いてみる、良い答えは期待してない。
「そうだな、来週...いや来月くらいか」
「...そう気をつけてね」
「ああ、それじゃ」
心の込もっていない私の言葉を軽く流した彼、目を合わせる事無く家を出ていった。
「なんなの?」
閉まった扉に呟く。
何が『仕事が忙しい』だ、新しい愛人が居るのは分かっている。
やり場の無い怒りが沸き上がる。
不倫で私を奪っておきながら、次の女に乗り換える身勝手な男。
私は離婚したのに、独身の彼は入籍をしてくれない。
快楽と金に目が眩み、前の夫を裏切った最低な自分にも怒りが収まらない。
「バカ!!」
テーブルの上に置かれたままだった昨夜の夕飯を手で払い除ける。
料理が床に落ち、次々と割れる食器、ぶちまけられた夕飯だった物。
それは自分が滅茶苦茶に壊してしまった前回の結婚生活の様だった。
「...なにやってるんだろ」
一頻り暴れ、気づけばダイニングは酷い有り様。
料理と皿をそれぞれのゴミ箱へと捨てた。
「こんな感じで今の生活も簡単に捨てられたら気楽なのに」
出来もしない事。
彼は会社を幾つも経営し、金だけは有る。
前の夫と離婚する際も、相場より沢山の慰謝料を一括で支払った。
そんな彼を見て『私の選択は間違って無い』そう考え、主人を見下した。
離婚前、勤め先の取引先社長だった彼。
2年間の不倫の果てに離婚した私。
就業中に抜け出し、ホテルで密会を繰り返していたのもバレ、職場での居場所は無くなり、退職を余儀無くされた。
彼から毎月の生活費は沢山貰っている。
このマンションの家賃も彼が払い、働きに行かなくても私は生活に困る事が無い。
「...気持ち悪い」
怖気が身体を包む。
昨夜のセックスせい?
違う、あの男と過ごしている今の状態が気持ち悪いのだ。
「...出掛けようかな」
この所、家に籠り気味だったから、こんな気持ちになったんだ。
外に出れは気分転換になる筈。
シャワーを浴び、クローゼットから服を取り出す。
並んだ服は全て離婚後に購入した物。
結婚生活中に着ていた服は全て処分したので一着も残っていない。
服だけでは無い、ネックレスやイヤリング、装飾品から靴に至るまで前の結婚生活で使っていた全ての物は離婚の際に置いてきた。
『売るなり、捨てるなりしたら?』
私の言葉に項垂れる主人は何も言わず、ただ黙っていた。
結婚生活、貧しかった訳では無い。
2人で頑張って働いて、人並みの暮らしは出来ていた。
『30歳までに子供が欲しい』
別れた主人の口癖だった。
両親を早くに亡くした彼は早く家族を持ちたかったのだ。
18歳で出会い、25歳で結婚した私達。
お互いに忙しかったが子供は作れた筈。
『まだ早いわ、もう少し仕事を頑張りたいの』
そう言って、いつもはぐらかしていた。
『分かった、仕事頑張って』
寂しそうに答える主人に罪悪感と煩しさを感じ、家に帰る足が遠退いた。
結婚して2年が過ぎたそんな時、彼の誘いに乗ってしまった。
独身の奴は家に帰りたがらない私を口説いた。
『君の様な素敵な女性を放っとくなんて、信じられない』
高価なプレゼントを贈られ、食事、そして旅行と夢の様な体験をくれた。
たまに自宅に帰れば主人の寂しそうな顔、『この結婚は間違っていた』そう思った私は彼と相談して、自ら2年にわたる不倫を主人に告白し....5年間の結婚生活が終わった。
「何を思い出してるの、もう離婚して3年も経ったのよ」
今さら戻れない。
戻れる筈も無い、私の親からは絶縁状態だし。
親しい友人も全て去っていった。
私が連絡出来るのは不倫を肯定する、同じような価値観の人しかいない。
外に出た私はタクシーを停めた。
「どちらまで?」
タクシーの運転手に聞かれ答えに窮する。
特に行き先を決めてた訳では無かったから。
「とりあえず...」
思いつくまま、ある地名を口にしていた。
「懐かしいわね」
着いたのは離婚前に暮らしていた街だった。
「3年振りか」
たった3年なのに酷く昔に感じる。
主人と一緒に行ったスーパー、よく美味しい料理を作ってくれた。
美容室、私が髪を切れば主人は直ぐに気がついてくれた。
喫茶店、私が美味しそうにケーキを頬張る様子を幸せそうな笑顔でみつめてくれた。
...そんな主人を絶望に叩き落とした。
「帰ろう」
気がつくと、主人と過ごした家の近くまで来ていた。
平日の昼下がりの住宅街、人は殆ど居ない。
知り合いに会う事も無かった。
もっとも昔の私を知る人が見ても、誰も気づかないだろう。
派手な化粧、着飾ったブランドの服、主人と暮らしていた時と全く違うのだから。
「え?」
前からベビーカーを押す1人の女性、乗せられていた赤ちゃんの顔に言葉を失う。
「どうされました?」
呆然とする私に女性が声を掛けた。
「か、可愛い赤ちゃんですね」
「ありがとうございます」
女性は嬉しそうに答える。
本当に可愛い赤ちゃん...昔写真で見た主人の子供の頃にそっくり...
「お父さん似なんですね」
「やっぱり分かります?
夫の子供の頃にそっくりなんです」
化粧を殆どしていないにも関わらず綺麗で、幸せそうな顔。
私がなりたかった姿がそこにあった。
「....そうなんですか」
「はい、結婚して直ぐに子供が出来たんです。
主人も凄く喜んでくれて」
近くの公園で立ち話、やはり女性は別れた主人が再婚した奥さんだった。
私と離婚して1年後に知り合った2人。
知り合いの紹介で付き合い、女性の方が主人を口説き落としたそうだ。
「なかなか主人の踏ん切りが着かなかったんです、以前が酷い結婚生活だったみたいで」
「...そうですか」
「でも私絶対に結婚するって、この人と家庭を持ちたい、そう思ったんです」
嬉しそうに語る女性、幸せが溢れている。
私が掴めなかった幸せ。
こんな人は絶対不倫なんかしないのだろう、私と違って...
「ありがとうございました」
「すみません色々話しちゃって」
1時間も話し込んでしまった。
子供の顔を最後にもう一度見る。
「本当に可愛いわね」
赤ちゃんに手を伸ばす。
「止めて」
「え?」
真剣な声を出す女性。
先程までと全く違う声、冷たく突き放す様な...
「....ごめんなさい」
私が謝ると女性は無言で立ち去る。
混乱する私、一体何が...まさか女性は私の事を知っていたの?
気がつけば自宅で踞り泣いていた。
3日後に私の携帯から電話が、彼からだった。
「今夜話がある」
「分かりました」
短い会話、彼は理由を言う事無く、電話は切れた。
「女に子供が出来た」
「は?」
家に来た彼は座るなり告げた。
余りの事に理解が追い付かない。
「だから子供が出来たんだ。
結婚するつもりだから、ここにはもう来ない」
「...嘘?」
彼は躊躇う事無く話す。
いつかこんな日が来るとは思っていたが、まさか...
「手切れ金だ」
鞄から帯の着いた札束を幾つか置かれた。
「今月でここのマンションは解約する。
この金でどこか違う所にでも住め、それじゃ」
「待って!!」
立ち上がる彼を呼び止めるが、振り返りもしない。
「待ってよ!」
廊下で彼を追い越し、立ち塞がる。
「どけ」
「いやよ!」
押し退け様とする彼に叫んだ。
「子供も産めない30過ぎの女の面倒を3年もみてやったんだ、もう充分だろ」
「なんですって!」
彼の言葉に目の前が真っ赤に染まる。
私が子供を作れなくなったのは何度も堕胎を繰り返したからだ。
『子供は欲しくない』そう言ったのは、お前じゃないか!
「誰のせいよ!」
「妊娠したくないならピルでも飲んだら良かったたんだ。
どうせガキを作って認知して貰いたかったんだろ?
金しか頭に無い女だ、やっぱり入籍しないで正解だったな」
「なんですって...」
後の事は全く覚えていない。
気づけば血だらけのナイフを握っていた。
足元には苦しそうに呻く彼。
その場にへたりこんだ私は考えた。
『私の何がいけなかったの?
なぜ失ってしまったんだろう?』
そんな事を考える私の耳にパトカーのサイレンが聞こえてきた。