第7話 復習ホーム・アローン
「あ~、疲れたぁ」
高校初日を何とか終えて帰宅する頃には、晶はすでに疲労困憊になっていた。
ドラマやグラビアの撮影とも異なる新たな環境へ身を投じ、想像を超える反響に驚かされた。
たまたま(あるいは学校側の配慮で)お隣りさんになった伊織は、とてもいい子で助かった。
そして1年と少しぶりに再会した幼馴染たち――孝弘と都からは、やけに距離を感じた。心当たりがあるので文句は言えない。
「ただいま」
自室のドアを開けて中に入る際に、つい言葉が口をついた。
ひとり暮らしなので誰もいない家だ。返事なんてあるはずない。
さらに気分が重くなったので、リモコンを操作してテレビをつける。
ついでに夏の空気が溜まった暑苦しい部屋の温度を下げるべくエアコンもスイッチオン。
涼風が肌を撫でて、少しだけ足取りが軽くなった。
今日は編入初日ということで、仕事もレッスンも入れていない。
買い物に行く用事もない。数日分の食材をあらかじめ買い貯めておいてよかった。
先見の明に満足しつつメイクを落とし、肌に張りついた服を脱いでシャワーを浴びる。
帰宅してからの一連の流れは、すっかりルーティーンとなって身体に染みついたもの。
ぬるめのお湯が肌を打つ感触に心地よく目を細めながらも、しっかりと汗を流してゆく。
快感を堪能するだけの時間ではない。身体を清潔に保つのは業務の一環でもある。
浴室から出てリビングに戻ると部屋はすっかり冷えており、テレビからは落ち着いた声でニュースが流れている。
ソファに腰を下ろしてチャンネルを切り替える。今日は目ぼしい事件はなかったようだ。
伊織に学校を案内してもらっていたおかげで、かなり時間は遅くなっている。
しぶといことに定評のある夏の太陽も西に傾いて、赤く色づいた光が室内に差し込んでいた。
スマートフォンを拾い上げて軽くインターネットを巡回し、ツイッターをチェック。
ニュース同様、特にこれと言ったトレンドは見当たらない。本日のSNSは平和だ。
すかさずツイートを投稿。
『無事に学校から帰宅! これからの高校生活が楽しみ!』
実際には問題だらけでウンザリしていなくもないのだが、そんな姿をファンは望んでいない。
日本中のファンに見せる『TS女優・結水 あきら』は元気よく愛想のよい美少女なのだ。
……単に見栄を張っているとも言う。
たちまち『いいね』と『リツイート』の嵐が巻き起こる。リプも多い。朝の挨拶と同じく好意的なものが大半だ。
軽く流し見ているとスマホが震えた。通話だ。相手は――事務所の社長。
「もしもし、あきらですけど」
『お疲れ様。ツイート見たわ。高校生活は大丈夫そう?』
スマホの向こうから聞こえてくるのは落ち着いた妙齢の女性の声。
晶が所属する『フェニックスプロダクション』は、かつて女優だった社長が立ち上げた小規模な芸能事務所。
今は晶の活躍で一躍名を馳せてノリにノっているところだ。
肝心の『TSシンデレラガール』こそ活動後退を余儀なくされているとは言え、アイドル部門で見込みのある新人が育ってきている。
つまり……電話の向こうにいる社長は、控えめに言ってとても忙しいはず。
「お陰様で何とかなりそうです。色々迷惑かけてすんませんでした」
『何を言ってるの。貴女が頑張ってくれたおかげで今のウチがあるんだから、これくらい当然。あと、今のは『ありがとう』と言うところよ』
「……そうでした。ありがとうございます」
耳にスマートフォンを当てたまま、頭を下げた。
『どういたしまして。ホントはもっと落ち着いてからにしたかったけど、仕事の方も頑張ってもらうわよ』
「もちろん。ガンガン入れてください」
『……それをやってどうなったか、ちゃんと覚えているのかしら』
「え……ああ~、覚えてます。少しずつお願いします」
『了解。病院の先生にも話を伺いたいから、一度そっちに行こうと思うんだけど……』
「だけど?」
『ご両親の方はどう?』
ひゅっと晶の喉が鳴った。
返事を返すまでに一瞬の逡巡があった。
「すみません、気を遣ってもらって申し訳ないんですが、実家はちょっと……」
晶は眉をしかめた。誰も見ていないから表情を作ってはいない。
『結水 あきら』にとって、家族の話題はある種のタブーだ。
『わかった。あなたはとりあえず足場固めに努めなさい。こっちもできるだけのフォローはするから、何かあったら連絡するように』
「うっす。これからもお世話になります!」
『今更かしこまらなくてもいいわ。それじゃ』
最後に釘を刺されてから通話は切れた。
――まだ期待されてるってことでいいんだよな?
スマホの画面を眺めつつ自問する。
全国中継の生放送でぶっ倒れて、芸能界の最前線から身を引く羽目になった。
おかげで舞い込んでいたオファーもいくつか台無しになって、事務所としても少なくない損害が出たはずだ。
それでも社長はこうして気にかけてくれているし、晶の今後のことも考えてくれている。
ありがたいことだ。本当にありがたいことだ。彼女失くして今の『結水 あきら』は存在しえない。
どれだけ感謝しても足りない恩人だった。スマホを額に当てて、そっと目を閉じた。
「ありがとうございます、社長」
★
夕飯はありあわせの食材であっさり仕上げた。
残った分は明日の弁当になるため、少し多めに作る。
朝・昼・晩の三食のうち、晶は基本的に朝食を重視している。
一日の活動のエネルギー源である朝食。ここを疎かにしていては仕事も学業も覚束ない。
……まぁ、夜遅くまで仕事が立て込んでいる場合は別として、ではあるが。
色々と不規則になる業界だ。仕方がないところはある。
そして同じ食べるならば栄養価が高く、美味しいものがいい。
自炊するにせよ外食するにせよ、食にまつわる研究に余念はない。
いずれも男子だったころには考えもしなかったことばかり。
思春期の女子として、女優として意識せざるを得ないことが多いのだ。
完成した夕食を写真に撮ってツイッターにアップ。
『夕食!』
こんな些細なツイートにもガッツリ反応があることに安心を覚える。
承認欲求とは異なるが、自分が誰かに求められていると目に見えてわかる事実はバカにできない。
ふとした拍子に沈みがちになる心を引き上げてくれる力になるから。
付けっ放しのテレビからはバラエティ番組の笑い声が聞こえてくる。
「あ、葵さんだ」
画面に映っていた見覚えのある顔に声が漏れた。
『日乃森 葵』
晶が『鏡中の君』で共演した女優。年齢は17歳で学年は同じ。
幼いころに子役デビューしてから長く芸能界で活躍し続ける美少女で、もはや国民的女優と呼んでも差支えない。
クールな容姿はとっつきが悪そうに見えて、話してみれば気さくだし表情操作も雰囲気のコントロールも抜群に上手い。
「葵さんがバラエティに出るの、珍しいな」
彼女のフィールドは基本的にはドラマやCM、映画など。
雑誌の表紙を飾ることも多いが、『結水 あきら』とは違い水着グラビアなどは一切やらない。
そこに葵の強烈なプロ意識が垣間見える。事務所の方針かもしれない。
まぁ……彼女の人気を鑑みれば、その手の露出は必要ないという判断だろう。
今回の葵は主演映画の宣伝的な役割のようだ。
そういう用事でもなければ、彼女はこの手の番組に顔を出したりはしない。
念のためにツイッターをチェックすると、ファンの反応もおおむね晶と同じだった。
テレビに映る葵の姿はキラキラと輝いて見える。視聴者の心を捉えて離さない魅力が彼女には備わっている。
「遠いなぁ……」
都落ちしてひとり夕食を摂る自分との距離を残酷なまでに実感させられる。
デビュー1年少々の晶と国民的女優である葵は同じ『女優』という括りには含まれるが、あまりにも格が違う。
共演している間は常に笑顔で晶を導いてくれた彼女だったが、本来ならば近づくこともままならない相手である。
それでも欲求は募る一方であった。もう一度一緒に仕事がしたい、と。
「ああ、もう止め止め。社長も言ってただろ、足場固めだって」
米の一粒も残さず腹に収めて食器は流し台へ。朝の分と一緒に丁寧に洗う。
台所が汚いと気分が悪い。以前の晶とはほとんど正反対の習慣も、身についてしまえばどうということもない。
浴槽に湯を張って身体を沈めると、一日の疲れがどっと染み出していく。
「さて、これからどうすっかなぁ」
考えることは山積みだ。
クラスメートたちはいずれ沈静化する……と思う。あくまで根拠のない期待ではあるが。
まさかあそこまで劇的な反応を見せられるとは想像できていなかった。
当面は伊織に面倒をかけることになるだろう。あとで何か労わねば。
そしてもっと重要なのは――
「……孝弘と都、久しぶりだったけど変わったような変わってないような」
『高坂 孝弘』と『仲村 都』はいずれも『悠木 晶』にとって大切な幼馴染だ。
TSして街を離れて以来――正確にはその少し前から拗らせてしまっているが。
彼らとの関係修復は、晶がこの街に戻ってきた大切な理由のひとつである。
ふたりにしでかした仕打ちを思えば、晶が彼らと共に歩む道はないかもしれない。
でも……晶を除けば、ふたりが共に歩む道はあるかもしれない。
ゆえに晶の目的は『彼らとの関係修復』ではなく『彼らの関係修復』と称するのが正しい。
我が身を省みなければ手段はあるはず……と覚悟を決めていたものの、言葉の端々に未練が残る。自身では気付くことのできない無意識な本音の発露だ。
「まずは孝弘だよな」
都の方は相当手強そう……と言うか、ぶっちゃけ怖い。
もう一方の孝弘は晶を避けているようにも見えたが……元同性だけに取っつきやすさで僅かに勝る……ような気がした。
彼らの仲を取り持つ作戦は思いつかない。まずは情報収集が先決だ。今の晶は幼馴染たちの現状すら把握できていない。
――伊織の態度も気になる。
寒風吹き荒ぶ冬のごとき雰囲気を纏っている都を前にしても物怖じしない伊織が、孝弘の前だと委縮していたように見受けられた。
何となく理由はわからなくもない。こちらも捨て置けない。
「難易度高いわ、高校生活」
ポロリと零れた本音がツボに入った。初日の感想がこれか。
確かに自分は高校生を分かっていなかった。件のドラマの監督のコメントは正しかったのだと、たった一日で知れた。
久方ぶりに『普通』の生活を体験することとなった晶の乾いた笑い声が、浴室に響き渡った。