第16話 新しい性を謳歌できているのなら
こちらが本日更新分2話目です。
「気にするな。患者のQOLは尊重されるべきものだ。お前の場合は……仕事だろう。このワーカホリックめ」
『不健康』の概念を煮詰めた感ある雅にそこまで言われてしまって、くすっと笑みがこぼれる。
ひょんなことから芸能界に飛び込んで以来、毎日が楽しくて仕方がない。
……もちろん楽しいだけではなかったりもするけれど、そんなのはどんな職業についていても同じだろう。
――ワーカホリックかぁ……オレの場合もそう言うのかねぇ?
ワーカホリックというと、スーツを着たサラリーマンのオッサンが徹夜で働いている絵が脳裏に浮かぶ。
電気の消えたオフィスで点灯するモニター。お供の栄養ドリンク。終電帰宅。サービス残業に休日出勤。
自分を取り巻く環境とは噛み合わないように思えるのだが……雅からそう見えているのなら、そういうことなのだろう。
「……そっすね。仕事、面白いっすよ」
「うむ。いい顔をしている。去年とは比べ物にならん。今の生活が充実している証拠だ」
「仕事ばっかになり過ぎない様にって思ってるんですけど、これがなかなか……」
「ん? 体調管理はこちらでするぞ。ちゃんとデータ提供と指示順守を約束してくれるなら、お前の好きにするといい」
「そうなの?」
想定外の言葉が返ってきて驚きに軽く目を見張る。
『働くな、休め』みたいに説教されるとばかり思っていたので面食らった。
そんな晶の様子を見て、白衣の女医は腕を組んで『ふむ』と考え込んでから口を開いた。
「TSの生存率の低さについてはすでに語ったところだが、あれには続きがあってな」
「続き?」
「ああ。TSする段階における生存率だけでなく、TS後の問題もある」
雅が語ってくれたのは『横綱少年の悲劇』と呼ばれるノンフィクション物語。
大横綱の子として生まれ、幼くして父に匹敵する才の片鱗を見せ、父の後を追うように角界を目指した少年がいた。
少年は多くの人の期待とともに順調に成長し才能を開花させ――そしてTSした。ここまで聞いて晶の眉がピクリと動いた。
「気づいたな。相撲というのは女はダメらしいぞ」
『土俵は神聖だから女は入っちゃダメ』だか何だか、そういう話を聞いたことがあった。
相撲の神性が云々の議論はさておき……TSした時点で横綱少年の夢は絶たれたのだ。
「横綱少年ってどうなったんすか?」
「首を吊った」
いっそぶっきらぼうなほどの語り口に、聞いていた晶の背筋が震える。
「生存率の壁を越えて無事に生き残ったとしても、TSによって人生が捻じ曲がる事例は少なくない。だから、今のお前のようにメンタル面で安定しているというのは貴重であり重要なことだ」
新しい性を謳歌できているのなら、それでよい。
傍から見れば不自然不健康であっても、まずは自分の意思を第一に考えるべし。
芸能界には詳しくないが、晶が楽しく日々を過ごしていられるのなら、それが一番いい。
雅の発言はおおよそ医者らしいものではなかったが、TS発現者に対する深い思いやりを感じられるものだった。
★
それからふたりで今後について話し合った。
おおむね月に一度、この病院で検査を受ける。雅との問診は月二回。都合隔週で病院を訪れることになった。
基本的には土曜日に予約を入れておくが、スケジュールを鑑みて平日、あるいは日曜日でも通院することは可能とする。
ただし事前の連絡が必要。検査当日に雅が居合わせないと、どうにもならないから。
詳細は後日改めて社長やマネージャーを交えて詰めるとして、現状で決められるのはそんなところ。
雅の言葉をラインで報告すると……社長の方からも『OK』の返事が戻ってきた。
ホッとひと息。とりあえず今日の仕事はこれで終わり。
雅はペンをデスクに放り出し、立ち上がって戸棚からマグカップをふたつ取り出した。振り向いた彼女に晶は首を横に振った。
白衣の女医は残念そうな眼差しを一瞬で引っ込め、そのまま片方のカップに電気ポットから黒い液体を注ぐ。
漂ってくる鼻を刺す苦み走った香りから、それがコーヒーであることが察せられる。記憶にある彼女はかなりのコーヒー党だった。
デスクに運ばれてきたお盆にはコーヒーと麦茶入りマグカップがひとつずつ、乗せられている皿には山盛りのクッキー。
病院内で医師と患者が共に間食などと言うと場違い感があるけれど、晶と雅の間ではこれも入院していた当時からの恒例行事。
検査のために朝食を抜いていた晶は、早速クッキーを摘まんで口に運ぶ。広がる甘味と小麦粉の風味がたまらない。
続けて麦茶で口の中を綺麗に洗い流す。こちらは何とも味気ないが……晶はあまりコーヒーを嗜まない。
「あれから2年、お前が姿を消してから1年……色々あったなぁ」
ポツリと呟かれた感慨深げな雅の声に頷き返す。
後期TS発現者の緊急搬送。TS界隈的には相当な大事だろう。当の本人はまったく覚えていないが。
病院に運び込まれたときには、すでに意識を失っていた。記憶があるのは学校で倒れたあたりまで。
教室で身体を横たえた時の床の感触と駆け寄ってくる孝弘と都の姿だけが、おぼろげに脳裏に残っている。
「……そんなになるんすね。なんかあっという間だったな」
『もうひとつだけ』とクッキーを摘まみつつ、晶は相づちを打つ。
16年、もう少しで17年になる人生のうちでも、TSして以来の1,2年は本当に激動と呼んで差支えないほどだった。
「2年かぁ」
★
中学3年生の夏を迎えたある日、晶は教室でいきなりぶっ倒れた。何の前触れもなかった。
『遠野総合病院』に緊急搬送されたと聞かされたのは、再び目を覚ました後のこと。
意識を取り戻した晶の枕元に立つ見るからに不健康な白衣の女医(のちに主治医となった雅)は、『落ち着いて聞いてくれ……と言っても無理か。まぁ動けないだろうから同じなんだが』などと言いつつ、そっと晶の前に何かを差し出した。
それが鏡だと気付くまでに少なからぬ時間を要した。映っている姿が自分のものだと認識できなかったからだ。
ボサボサの黒髪、こけた頬に落ちくぼんだ眼窩。血走った瞳。首元には浮き出た鎖骨が覗いており、総じて血色が悪い。そして女だった。
昔流行ったホラー映画の幽霊を彷彿とさせる、ちょっとアレな姿だ。TSしたら『キャー、美少女になっちゃった!?』なんてのはフィクションに過ぎないと思い知らされた。
そう、TSしたのである。性転換。男から女へ。『悠木 晶』は女の子になっていた。これが驚かずにいられようか……雅の言うとおり、まともに反応を返すことはできなかったが。
『君のような後期型TSでは身体に著しい負荷がかかる。回復までに相当な時間を要すると思うが……ま、何かあったら遠慮なく言ってくれ』
雅曰く第二次性徴期を過ぎた晶の場合、TSによる生存率は10%程度だったという。
最初は何となく聞き流していたものの、『実は9割がた死んでいた』という事実に思い至って動揺を隠すことができなかった。
とは言え、文字どおりの意味で『九死に一生を得た』のだ。最悪の事態は乗り切ったのだから、あとは上がる一方だろうと気楽に考えていた部分もある。
テキトーすぎると言われても仕方がないほどに前向きな思考を持つに至った大きな要因のひとつが、晶の新しい容姿であることは疑いようもなかった。
そのままホラー映画に出演できそうだったTS直後の姿はともかく、栄養を摂取して体調が回復するにつれ、『新生・悠木 晶』がとんでもないレベルの美少女であることが判明してきた。
文句のつけようもない美貌に抜群のスタイル。中身は健全な男子中学生なだけあって、これでテンションが上がらないわけがない。たとえ元に戻れないとしても、だ。
どれだけ甘い目算だったのかは、すぐに思い知らされた。
何か月かぶりに再会した両親と弟の顔に浮かんだ表情を、晶は今でも忘れることができない。以来、3人ともほとんど姿を現さなかった。
最初は『忙しいのかな?』『都合つかなかったのかな?』と安易に考えていて……そのうち段々とカレンダーを確認するのが苦痛になった。
問題は家族との関係だけではなかった。リハビリが遅々として進まない。
見た目だけは早々に復調していったのだが……中身が伴わない。
頭の中で思い描いたとおりに身体が動かず、すぐに体力が切れてへたり込んでしまう。
後期型TSは前例が少なく、TS医療の権威である雅を以てして慎重に進めざるを得なかった。
それでも晶は諦めなかった。まだ15歳の若者だ。ずっと寝たきりの生活なんて御免被るというのが本音だった。
この頃の晶にとって心の支えになってくれたのは、雅を始めとする病院スタッフと幼馴染たちだった。
特に幼馴染である孝弘と都は、晶自身がどんな顔をしていいかわからないままに再会した後も、日を置かずに訪れてくれた。
話題があってもなくても構わなかった。ただ傍に居てくれるだけでよかった。
家族と疎遠になってしまった晶は、表向き取り繕っていても内心は心細かった。不安に押し潰されて叫び出したくなる日もあった。
そんなときに思い出すのは決まって孝弘と都の顔だった。苦しいリハビリを乗り越えることができたのは彼らのおかげと言っても差支えない。
しかし――タイミングが悪かった。
中学3年生、高校受験である。
晶は孝弘や雅と同じく『県立佐倉坂高校』を第一志望としていた。
結論から言うと、リハビリは間に合わなかった。
試験の当日だけでも抜け出せないかと頼んだ晶に対して、雅は首を横に振った。
身体能力の問題もさることながら、当時の晶は頻繁に体調を崩していたのだ。
TS後の体調不良は珍しくないが、晶のそれは一般的なTSに比べて長引いていた。
しかも、一度倒れると回復に相当の時間を要する有様。主治医としての雅の判断は妥当だったと認めざるを得ない。
退院した晶には女の身体と高校浪人という経歴だけが残った。
ほとんど没交渉となっていた父親は、娘となった元息子にマンションの一室をあてがった。よりにもよって佐倉坂高校の間近だった。
母親の精神状態が思わしくないという話は孝弘たちからも聞いていたので、すぐに『追い出された』と気付かされた。
生存率10%のTSとリハビリを乗り越えた先に待っていたのは――果てしない虚無。
すっかり心は擦り切れて、入院中はあれだけ心待ちにしていた幼馴染たちと顔を合わせることすら億劫になっていった。
時間が止まったような日々を漫然と過ごした果てに迎えた、あの日。
『セックスしようぜ?』
大切な幼馴染との関係を自ら破壊した晶は、街を出た。
★
羽佐間市を後にしてからも色々あった。
行方をくらました先、東京の地で芸能事務所にスカウトされ、グラビアアイドルとしてデビューし、テレビドラマの主演に抜擢され……
輝かしい経歴とは裏腹の地道な活動に奔走していたものの、振り返ってみれば自分は相当恵まれていたと思う。
「ずいぶん遠くまで来ちまった気がする……って戻ってきたんですけど」
軽く背を反らせて天井を見やると、白々と室内を照らす灯りが目についた。
意識を失って、目が覚めたら文字どおりの意味で女になっていた。
性別がひっくり返ったら、人生がひっくり返った。
多くの人々を傷つけて、心配させて、守られて、力を貸してもらって……何とかやっていけている。
忙しなく流れゆく日々を幸福と思うことのできる『悠木 晶』が、ここにいた。




