第10話 追憶ストレンジジャーニー
晶がTSしたのは遡ること約2年前。
ちょうど今のように暑い日が続く中学3年生の夏のある日だった。
前兆はなかった。唐突な目眩に襲われ、全身から力が抜けた。
視界は明滅して暗転、音が遠ざかり、程なくして意識を失った。
そこから後は、控えめに言って地獄だった。
何も見えない、何も聞こえない暗闇の中で、ただひたすらに苦しんだ。声をあげることすらできなかった。
全身を数えきれないほどの手で捏ね回されるような苦痛と、内側から焼き焦がされる熱に苛まれ続けた。
苦しみが終わりを見せないがゆえに、いまだ命を喪っていないと知らされる日々。時間の感覚など当の昔になくなっていた。
そして再び意識と視界を取り戻した時には、晶の身体はすでに女性の肉体となっていた。
主治医である『遠野総合病院』TS担当医の雅によると、晶が倒れてから再び目を覚ますまでの間に2か月が経過していた。
生存率10%(TS後に説明を受けた)という過酷な責め苦を耐えきって無事に生還したところまでは良かった。
しかし後期型TS(第二次性徴期以後のTS)による身体へのダメージは想像以上のものだった。
全身はすっかり痩せ細り、介助無しでは日常生活もままならない。だからと言って寝たきりでいるわけにもいかない。
文字どおりの意味で『九死に一生を得た』晶は、早速リハビリを開始したのだが……これが遅々として進まない。
後期型TSは世界的に見ても事例が少なく、日本TS医療の権威である雅の助力を以てしても手探りの日々が続いた。
結局ひとりで外出する許可が得られるまでに半年以上を擁した。受験には間に合わず、高校浪人が確定してしまった。
一緒に同じ高校に行こうと誓い合った幼馴染たちと半ば無理やり道が分かたれてしまった。
『県立佐倉坂高校』への受験は晶にとって厳しい挑戦ではあったものの、まさかチャレンジの機会すら与えられないとは思わなかった。
さらに晶にとって逆風が続いた。家族との再会である。
TSにまつわるフィクションにおける定番イベントのひとつ。
子どもの変わり果てた姿を見た家族たちが互いの絆を確かめ合う、お涙頂戴のシーンだ。
漫画やアニメ、ドラマでもしばしば目にしていたから、何となく『そういうもの』だと思っていた。
加えて雅は主治医として(本人のいないところで)晶の家族に口を酸っぱくして説明していた。
『一番ショックを受けているのは、他でもない晶本人である』と。
今後の回復と新たな生活を健やかに送るためには、最も身近な存在である家族のサポートが必須であると。
そして再会した晶と両親。晶は現実と直面した。
母親は娘となった息子の姿を直視できず、心を病んだ。
父親は――息子よりも妻を選んだ。
リハビリを終えて退院の運びとなった晶にマンションの一室を与え、そこで暮らすように取り計らったのだ。
その意図は明白。妻の心を苛む晶を家から追い出したのである。なお、弟は姿を現さなかった。
悠木家はどこにでもあるごく普通の家庭だったから、この仕打ちは強かに晶の心を傷つけた。
現実はフィクションよりもはるかに過酷で残酷だった。
TSした際の地獄じみた苦痛と困難なリハビリの時点で十分に最悪だと思っていたが、事態はさらに悪化する一方だった。
誰もいない部屋に積み上げられた段ボールの箱。荒涼とした光景は晶の心象を映していた。
晶が受験する予定だった――そして孝弘や都が通っている『県立佐倉坂高校』が近い。
件の高校からは青春を謳歌する声が響き渡り、いやが上にも晶の精神を侵食していく。
何もする気が起きず、ただ漫然と日々を過ごした。荷ほどきすらまったく手につかなかった。
ロクに食事を摂る気にもなれず、窓に映った自分の姿をじっと見つめる時間が増えた。
自らの身に降りかかったすべての不幸の根源である女の身体に憎しみすら覚えた。
そんな晶を見かねた孝弘が、せめて生活環境を整えようと部屋を訪れたとき――晶の精神は限界を超えた。
『セックスしよーぜ』
孝弘の隙をついて壁に押し倒し、上着のボタンを外しながら、晶の方から誘いをかけた。
自分から何もかもを奪っていった疎ましい女性の身体をメチャクチャにしたかった。
ただ――単純に処女を捨てたいだけならば、別に相手は孝弘でなくてもよかったことは確かだ。
無駄に整いすぎている肢体と顔立ちを利用すれば、夜の街にでも繰り出して適当に相手を見繕うことは容易だっただろう。
しかし、晶はその選択肢を選ばなかった。ギリギリ理性が残っていたのかもしれない。
そして、恵まれたルックスとボディに迫られた孝弘もまた、理性を失うことはなかった。
お互いに16歳。それなりに性的関心を持つ年頃だったが、孝弘は晶を拒絶した。あくまで紳士的に。
きっと孝弘は晶の凶行が一種の自傷行為であることに気が付いていたのだろう。口数は少ないものの思慮深い男だから。
ここで終わっていれば……まぁ、多少気まずくはなろうとも、笑い話で済んでいたかもしれない。
現実は加速度的に転がり続けた。考え得る限り最悪の展開に向かって。
幸か不幸か、晶にはもうひとり幼馴染がいた。都だ。
潔癖というほどではないが生真面目な、晶にとって初恋の少女。
もはや思いを告げることは叶わない憧れ。TSしても友情が失われることはなかった。
孝弘が晶を心配するように、都だって晶を心配する。ふたりは同じ高校に通っていた。
ならば、それは必然の成り行きだったのかもしれない。
孝弘に馬乗りになって服をはだけていたところに、都が踏み込んできたのだ。
ふたりの姿を目にした彼女の反応はいっそ冷徹に過ぎるほどだった。
真冬の吹雪を思わせるような、あるいは氷柱のように鋭く尖った冷たい眼差しと声。
『最低』
ただひと言。それだけ口にして部屋を去っていった。
孝弘は晶を押し退けて都を追った。自分より、都を選んだ。
晶が都に恋していたように、孝弘もまた都に恋していた。どちらも告白はしていない。
別に相談を持ち掛けられたわけでもないが……長い付き合いだ。それくらい言われなくても察していた。
こうして、ふたりの姿が消えた部屋に晶ひとりだけが取り残された。完全に自業自得だった。
『あ、はは、ははははは……』
おかしかった。おかしくなった。笑いが止まらなかった。
TSしたのは晶のせいではないけれど、大切な幼馴染との関係をぶち壊したのは晶だ。
どこかで思いとどまっていれば、こんな結末を迎えることはなかったかもしれない。
でも、その時にはそこまで気が回らなかった。自分にも落ち度があったとは想像できなかった。
誰も彼もが自分から離れていく。家族も、親友も。想い人も。どいつもこいつも自分を見捨てていく。
何もかも失った。学歴が大きな影響力を持つ現代日本において、高校浪人は痛すぎる傷だ。
仮に来年に佐倉坂高校を受験して合格したとして、孝弘や都を『先輩』と呼ぶことには強い抵抗があった。
もっとも……そういう関係になること自体が、もはやあり得ないようにも思われたが。
『もう終わりだ。終わらせてくれ』
この世の全てに絶望した晶は、そのまま部屋を後にした。
たまたま手元にあった財布を掴んで駅に向かい、東京行の新幹線に乗った。
行き先に東京を選んだ事にも深い理由はない。たまたま直近の新幹線が東京行だっただけ。
どうせ人生を捨てるのなら、どこに行っても構わなかった。あえて注文を付けるならば、晶のことを知る者がいない場所が良かった。
晶はみんなの前から姿を消した。後を追う者は誰もいなかった。
行くあてのない彷徨の始まり。期待もなければ不安もない、虚無に満ちた旅になるはずだった。
あの時には、こんな未来が用意されているとは……まったく予想していなかった。
紆余曲折を経てたどり着いた先は女優すなわち芸能人であった。当時の晶からはもっとも縁遠い存在だったと言っても過言ではない。
後から考えてみると……芸能界なんて全然興味のない世界だったから、新しい人生を始めるには逆によかったのかもしれない。
瞬く間に1年が過ぎた。
『結水 あきら』こと『悠木 晶』は奇貨を得て有名女優の仲間入りを果たした。
今やその名を知らない者など日本国内にはいないだろう。『人生山あり谷あり』とはよく言ったものだ。
あまりにも目まぐるしく変化した生活を過ごしたおかげか、いつしか晶の脳裏からは怒りも憎しみも消えていた。
胸の奥には穏やかで苦しい感情が残った。仕事の合間、時間に余裕ができると物思いにふけることが増えた。
そういう時、愁いを帯びた晶の眼差しは決まって故郷の方角を向いていた。自らの罪を想い、巻き込んでしまった友を想った。
アクシデントに巻き込まれた結果ではあるが、晶は再び羽佐間市に戻り――孝弘や都と再会できた。過去の過ちを謝罪する機会を得た。
ひとつでも歯車が狂っていれば、誰かが異なる選択肢を選んでいれば、この未来にたどり着くことはなかっただろう。
何もかもが、きっと奇跡だった。




