第9話 ふたりきりリユニオン
悶々としたまま目覚め、朝のルーティンをこなして登校。
黙々と授業を受けて放課後のチャイムを迎えた。
ごくありふれた一日は終わり、特別な時間が始まる。
気配を消して教室を出た晶は、昨晩強引に交わした孝弘との約束どおり文芸部の部室に向かう――途中でトイレに寄って鏡と向かい合っていた。化粧直しである。
……と言っても、ドラマやグラビア撮影等いわゆる仕事モードの時のような本格的なものではない。
学校指定の鞄に入るアイテムは少なく、できることなどたかが知れている。
佐倉坂高校は概ね鷹揚な校風で、晶以外にもオシャレに気を遣っている人間は男女を問わず散見される。
興味がない人間には無意味な労力に見えるのかもしれない。昔の晶はそう思っていた。でも違う。
メイクに拘る理由は色々あるけれど……この瞬間においては、気合を入れる意味合いが強い。
見栄えを良くすると気持ちが強くなる。自分に自信が持てる気がする。勇気が滾る。
もちろん、久々に差し向かいで語り合う孝弘に悪い印象を与えたくないという気持ちもある。
――なんかRPGの『装備』に似てるよな。
リップを塗った唇の色合いを見直してしていると……ふと、そんなことが頭をよぎった。
現場に行くたびにプロから技術を学び、日々ネットで情報を漁る。あとはひたすら実践を繰り返した。
鏡に映る姿は、そんな小さな努力の集大成と言ってもよい。
「……よし!」
メイクが決まると覚悟も決まる。
羽佐間市にわざわざ戻ってきた理由のひとつ、幼馴染たちの関係修復。
これから始まる孝弘との対話はその第一歩。
無理くり約束を取り付けてから、幾度となくイメージトレーニングを繰り返してきた。
授業中もシミュレーションに余念なく、お陰で今日は教師の声が全く頭に入っていなかった。
そして今、この時である。
『いざ行かん』と発破をかけると緊張感に総身が震えた。武者震いだと心の中で言い聞かせる。
まだ顔を合わせてすらいないのに、豊かな胸の奥に鎮座する心臓が不規則に動悸を訴えてくる。
「落ち着け……落ち着け、オレ」
胸に手を当てて深呼吸。
目を閉じて、再び開く。
背筋を伸ばして胸を張る。
『最高の自分』を思い浮かべて鏡に向かって再現。鏡中の――左右対称の晶は淡く輝いて見える。
しばらく傍目に怪しげな振る舞いを繰り返していると(幸いなことにほかの生徒は姿を見せなかった)、スマートフォンが振動した。
指定していた時間の5分前を知らせるアラームだ。ここ一番に遅刻は厳禁。もはや猶予はない。
「行くか……行くぞ!」
わざとらしく声に出し、耳を通じて頭に決意を叩き込む。
軽く頷きクルリと回転し――晶はトイレを後にした。
颯爽と黒髪を靡かせて。
★
部室棟に足を踏み入れるのは、今日が初めてというわけではない。
編入初日に伊織に案内してもらったし、その後も文芸部の部室に幾度となく訪れている。
これまでは孝弘に会うことができなかったし、他に用事もなかったのですぐに立ち去っていた。
真新しさを感じる本校舎とはうって変わった、築うん十年のオンボロ木造。
歩くたびにギシギシと鳴る廊下に建付けの悪い扉。外部からの採光などまったく考慮されておらず、明かりのついていないところは薄暗い。
総じて『胡散臭い』を体現したかのような建造物だ。やけにフィクション作品における部活動のイメージとピッタリ嵌る。
目指す文芸部の部室は1階の奥まった一室で、立地条件は最悪と言っても差支えない。
迷わず歩みを進める晶の姿を認めたほかの部活動の生徒が挨拶してくる。
軽い会釈から、馴れ馴れしい勧誘までさまざまなバリエーションに富んでいた。
対する晶はというと、愛想を振りまきつつ割とあっさり彼らをいなしていく。
生徒たちも晶を不快に思う様子はない。教室とは異なる程よい距離感は割と好ましい。
部室棟の1フロア当たりの面積はそれほど広くもない。さほど時を置くこともなく目的地に到着してしまった。
目の前のドアの向こうから――人の気配がする。
――いる。
確信した。
ゴクリと唾を飲み込んでトントンとノック。
「オレだ。晶だ。孝弘いるか?」
「……ああ、鍵は開いている。入ってくれ」
返事が戻ってくるまでに一瞬の間があった。
あちらもそれなりに思うところがあるのだろう。
緊張しているのが自分だけでないと知れて、少しだけ心が軽くなった。
ノブを回して押し込むと、ギギギと唸りながらドアが開いていく。
少しずつ広がっていく隙間から覗く部屋の中は、何とも殺風景なものだった。
机がひとつに椅子がふたつ。奥にはカーテンの引かれていない窓。
年季の入った本棚にはぎっしりと本が埋まっている。背表紙は色あせて見えた。
床はきれいに掃き清められており、落とし物らしきものは見当たらない。
余計なものは何もない。几帳面な孝弘らしいと感心させられる。
机を挟んで向かい合う形に配置された椅子、そのひとつに腰を下ろしている男子。
編入してから今まですれ違い続けてきた目の前の男こそ、晶の幼馴染である『高坂 孝弘』だ。
小さな机に大きな身体。教室と違って人目がないせいか、僅かに余裕を感じる姿勢。目の前には閉じられているノートパソコン。
腕を組んで晶を見つめてくる顔は怜悧と言うよりも『知性の奥に精悍が見え隠れする』とでも表現した方が相応しい。
たった1年、されど1年。長い付き合いだった親友は、この短期間のうちに大きく成長していた。中身がどうなっているかは……わからない。
「久しぶりだな」
「ああ」
「教室ではずっと一緒なのにな」
「……」
皮肉を込めてチクリとひと言くれてやると、孝弘はたちまち口を引き結んだ。眉間にしわが寄る。
もともと多弁な男ではない。晶たちに対してさえ御覧の有様だから、他の人間相手の場合は推して知るべし。
だけど……黙っていては始まらない。わざわざ呼び出した意味がない。覚悟完了。あとは前進あるのみ。
「座っていいか、そこ」
「ああ。あまりきれいではないが」
「そうか? ちゃんと掃除されてるように見えるぜ」
「まぁ、一応はな」
促された晶は椅子を引いて腰を下ろす。ごく自然にお尻のあたりでスカートを抑えた。
真正面の男は背が高く、顔を会わせようとすると少し晶が上を向かなければならない。
首が痛くなりそうなので頬杖ついて上体を支える。すると――孝弘がそっと目を逸らせた。
何事かと見下ろしてみれば……机の上で晶の豊かな胸元が撓み、丸みと柔らかさが強調される形になっていた。
――別にいいんだがなぁ。
理由がわかればどうということもない。特に気にした様子を見せることなく、体勢を変えることもしない。
しばらく無言で仏頂な横面を見つめていると、孝弘は再び晶に視線を向けた。何やら諦めたらしい。
ニヤリと口角を釣り上げて眼差しを受け止めると、幼馴染はゴホゴホと急に咳き込み始めた。
「どうした、風邪か?」
「晶……お前な……」
「掃除はしっかりしてるんだろ? 別に埃っぽくもない」
挑発的に付け足すと孝弘は再び沈黙。ツッコんでほしかった。
互いに口を開くことなく、ただ徒らに時が流れていく。
冷房の入っていない部屋に男と女がふたりきり。
伊織すら怯ませる孝弘の威容は、しかし晶にとっては大した意味を持たない。
成長による変貌には驚かされたが……姿かたちが変われども幼馴染であることに変わりはないから。
――いや、そうでもないか……
間近で見つめ合うと変わったものもあると気付かされる。
どうにも距離感というか間合いが上手く測れない。
TSしてから顔を会わせたことはあったはず。
でも……あまり面と向かい合って話したことはなかったように記憶している。
単純に身長差の問題というわけではないようだが、違和感の原因がイマイチよくわからない。胸の奥がモヤモヤする。
ふたり揃って口を噤んだまま、汗が肌を流れてしたたり落ち、木製の机を濡らす。
「なぁ、孝弘」「晶、その……」
同時に口を開いて、また閉じる。
お互いに間が悪い。
「……晶、お前の方から頼む」
先に立ち直った孝弘が促してくる。
レディファーストか。親友の気遣いに感心した。
厳つさを増した見た目によらず、中身は穏やかな性質を強く残している。
――こういうところは変わらないな。
ふわりと懐かしい思い出が脳裏をかすめた。
しかし、今はその暖かさに浸るタイミングではない。
「ああ、その……あのな……」
先に話せと言われて口を開きかけたものの、言葉が上手く出てこない。
散々繰り返したイメトレもシミュレーションも全く役に立ってくれない。
女優として活動してきた経験もどこへやら。今の晶はただのポンコツ美少女だった。
――覚悟決めてきただろ、オレ!
心の中で叱咤する。
何のためにわざわざこの街に戻ってきたのか。
何のために自分を知る数少ない人間がいるこの学校を選んだのか。
――何のためにッ!
声はつまったまま。口の中はカラカラで、心臓はバクバク。
呼吸は浅く、全身が燃えるように熱い。視界は歪んで定まらない。
極度なまでに高まった緊張が、晶を肉体的にも精神的にも蝕んでいく。
ギリリと歯噛みして頭を振る。艶やかな黒髪が弧を描いた。
「……ッ!」
ガタリと椅子が音を鳴らした。晶が立ち上がったのだ。
こうして相対すると、今度は孝弘が晶を見上げる形になる。
ギュッと握りしめられた晶の手も、桜色に艶めく唇も震えている。
孝弘は……ただ待ち続けている。じっと晶を見つめたまま。
そして――
「すまなかった、孝弘!」
晶はまっすぐに頭を下げた。
肩口からサラリと流れた髪が机に落ちる。
陽光を反射して煌めく黒い流れは幻想的なまでに美しく、しかし眼前の孝弘は微動だにしない。
表情を変えることなく定位置からずれた眼鏡を中指で直し、無言で晶の言葉を待っている。
「あの時は……オレが本当に悪かった!」
孝弘は――幼馴染の懺悔に耳を傾けていた。
口を引き締めたまま、レンズの奥で僅かに目を細めた。




