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第0話 カタストロフィ追憶

TS(性転換)ネタの新連載です。

完結目指して頑張りますので、応援いただければ幸いです。



「なぁ、やらないか?」


 声は決して大きくはなかったけれど、ガランとした室内にやたらと響いた。

 生活感のない部屋だった。県下一の進学校と名高い高校にほど近いマンションの5階。その一室。

 遠くから道路を走る車の音に混じって、件の学校の生徒のものと思しき声援が聞こえてくる。青春の声だ。

 翻って室内……こちらは引っ越してきたばかりのように見える。

 その証拠に、そこかしこに荷ほどきされていない段ボールが転がっていた。

 倦怠にして殺風景な世界に、窓の外から陽光が差し込んで陰を作っている。

 極端なまでのコントラストが、ある種の違和感もしくは不気味さを演出していた。

 ただそこにいるだけで心が不安に侵食されていく、そういう部屋だった。


「今、なんて言った?」


 声に遅れてゴクリと唾を飲み込む音。こちらもやけに大きく聞こえる。

 無理もない。この部屋には今ふたりの人間しかおらず、互いの距離は至近。

 他に音を立てているのは壁にかけられた無機質な時計くらいのもの。


「なぁ……もう一度言ってくれ」


 おそるおそる、あるいは『聞き間違いであってくれ』と言外に匂わせる細い声が続いた。

『本気か?』『正気か?』などと迷いが垣間見える。しかし――拒絶100%ではない。

 だから、もう一度。念を押すように、もう一度。退路を断つために、もう一度。


「だから、セックスしよーぜ」


『セックス』という単語を耳にした瞬間、隣からあからさまなほどの動揺を感じた。

『気持ちはわかる』と他人事のように心の中で独り言ちる。

 と、同時に――


「隙あり!」


 足を引っかけて転ばせる。ドシンと重量のある音。『いてて』と零れたボヤキ。

 有無を言わせないまま馬乗りになる。一瞬で縮まった目と目の距離が――再び開く。

『チッ』と舌打ちひとつ。後ずさる身体を追い詰め、壁にもたれかかったところに腕をついて逃げ場を塞いだ。


『ドン』と。

 これぞ壁ドン。


 ビクリと跳ねる身体。宙を忙しなく彷徨う視線。明らかに混乱している。

 艶やかな黒髪が顔にかかり、毛先が皮膚をくすぐる感触が更なる動揺を生んだ。

 俄かに紅潮した顔、ジワリと浮かび上がる汗。夏の暑さのせいではない。昂りを覚えている。

 口調とは裏腹なその姿に微かな満足感を覚え、ニヤリと歪な笑みを浮かべた。


 すかさず空いている一方の手を胸元に伸ばす。

 不器用に上着のボタンを外していくと、年齢に比して豊かに盛り上がった胸元が露わになった。

 ホックを外すと、内側から解放された膨らみが大きく弾んだ。

 大胆かつ柔らかな曲線を描く肢体を見せつけるように、しなやかな白い指が這いまわる。

 正面から視線を感じた。やはり脈アリだ。耳元に唇を寄せて囁く。


「いいだろ? 前から『ヤりたい』って言ってたじゃねーか」


「いや待て、待ってくれ……あの時の話を今するのは反則だろう?」


 弁解じみた声に思わず頷いた。言わんとするところは理解できる。

 男子中学生がふたりで集まれば、自然と話題はそっちの方面に暴走する。

 女子が傍に居なければ、なおさらだ。暴走は加速する。

 思春期の少年少女の頭の中身なんて、そんなものだ。

 だから、別に自分たちが特別おかしいわけではない。


「ヤりたくねーのか?」


 覆いかぶさって言葉をかぶせる。互いの距離はゼロ。薄い夏服の布地越しに体温を感じる。

 熱が混じった吐息が、ふたりの肌を撫でる。頭の中を支配する熱。胸の奥から湧き上がってくる熱。

 焙られた視線が絡み合う。喉が渇く。唇が渇く。心が渇いている。潤んだ舌が唇をペロリと舐めた。

 この渇きを癒すためには――強い交わりが必要だ。カラダもココロも、確かな繋がりを求めている。


「ちょっと落ち着け。冷静になってだな……」


「なれるかよ、バーカ」


『冷静になれ』という、シチュエーションにそぐわないフレーズに思わず言葉を荒げる。

 ふたりを取り巻く状況は以前と比べて劇的に変化してしまった。何もかもが今更で、もう戻れない。

 とてもではないが平静ではいられない。頭の中はとっくの昔に灼きつくされている。

 おかしくなりそうなのだ。それを分かっているくせに、こういうセリフを吐かれると……イライラする。

 さらに距離を詰める。肌と肌が重なりを深め、融け合うような一体感が広がっていく。


「ダメだ。やはりこういうことはちゃんと考えないと。一時の感情に身を任せて自分を傷つけるのは……」


 この期に及んで常識あるいは一般論を持ち出されて、少し呆れた。

 

「お前さぁ」


 唇から溢れる言葉が止まった。

 ギィ……と、ドアの開く音がしたから。

 そう言えば鍵をかけていなかったな。

 脳裏にわずかに残った理性が、そんなことを思い出した。


 スタスタと廊下を歩く音がこちらに向かっている。

『これはマズい』と焦る心と、『それがどうした』と強がる心が混ざり合って、その瞬間を待つ。

 部屋を覗き込む人影。小柄だ。女性だ。見知った顔だ。大切な幼馴染だ。大切な幼馴染だった。

 カサリと床を擦る音がした。ドサリと質量が床に落ちる音がした。


 闖入者の瞳は大きく見開かれ……すぐに細くなり、冷たくなり、平らかになり。

 今となってはもう何の感情も浮かんでいない。少なくとも表面上はそのように見える。

 ……きっと内面はマグマのようにドロドロで、そして爆発寸前。

 長い付き合いからの経験則だ。確信がある。


「最低」


 彼女の口から零れたのは、ただひと言。それだけ言い置いて人影は姿を消した。

 廊下を遠ざかる足音は来た時よりも小走りで、冷静さに隠された苛立ちを反映して荒々しい。

 バタンと乱暴にドアが閉ざされる音が殊更に大きく響き、重苦しい静寂が再び部屋を支配する。


「さて……」


 邪魔が入ってしまったが予定に変更はない。

 このまま――


「違う、待ってくれ!」


 突き飛ばされて尻もちをついた。

 立ち去った人影を追いかけて、足音が遠ざかっていく。

 引き留める暇もなく、ふたりの距離は開いていく。

 荒涼とした部屋の中に、ひとり取り残された。


「は、ははは…………」


 おかしかった。笑えてきた。

 何をやっているんだ。何なんだ。何なんだ。何なんだ。

 どいつもこいつも自分を見捨ててどこかに行ってしまう。

 どいつもこいつも自分を裏切ってどこかに行ってしまう。

 どうしてこうなった? どうしてこんなことをしてしまった?


「あ、はは、ははははは……」


 腹を抱えて床に転がった。

 長らく掃除していない部屋に溜まっていた埃が舞い上がり、身体が汚れていく。

 笑いが止まらない。涙が止まらない。訳がわからない。

 否、わかっている。壊れてしまった。壊してしまった。何もかも。

 大切にしていたはずのもの。かけがえのないもの。

 何もかもなくなってしまった。すべて失ってしまった。


「はは、あはは、ははははは……」


 笑いすぎてお腹が痛い。

 息ができなくて頭が痛い。

 生きていくには――心が痛い。


 故障したプレイヤーのようにいつまでも鳴りやまない耳障りな音。

 それが自分の口から零れ落ちているという事実が辛すぎる。

 世界から切り離されて閉ざされた部屋は居心地が悪すぎる。

 いや――居場所なんて、とっくの昔になくなっているのだと気付かされる。


「何やってんだ……」


 覆水は盆に返らず、吐いた唾は飲み込めない。

 そして……時計の針は戻せない。

 長針は『カチ、カチ』と規則正しく時を刻み続けている。


「どうすんだよ……どうすりゃよかったんだよ!?」


 吐き出す言葉は呪詛に似ていた。

 誰を恨めばよいのかわからない呪いは、行き場を失って自身に戻ってきた。

 燻っていた狂熱が奔流となって脳裏を焦がす。正気ではいられなかった。

 おかしくなってしまった頭で『ここにはいられない』と理解した。

 フラフラと立ち上がって部屋を後にする。朦朧とした意識で、覚束ない足取りで。

 戻ってくることは――ないだろう。本能的に直感していた。


 マンションを後にして見上げた空はやけに高くて青かった。夏真っ盛りの快晴だった。

 透きとおるような、雲ひとつない青い空を見上げて――頬を一筋の涙が流れた。

 熱く激しく、そしてやけに悲しい感触を鮮明に覚えている。


 それが最後の記憶。

 決して忘れることのできない、始まりの記憶。


 すべてに絶望し、何もかも投げ捨てた。

 思考を放棄して、ただひたすらに逃げた。

 逃げて逃げて、どこまでも逃げ続けて、そして――



 ★



 カーテンの隙間から差し込む光を目蓋越しに受けて、晶の意識が闇から浮上する。

 真新しいベッドに横たわっている自分の身体と脳が接続し、先ほどの映像が夢であることを理解する。

 ……かつて見た光景は、1年の時を経ても色褪せることなく記憶に刻み込まれたまま。


――久しぶりに見たな……


「帰ってきたからかなぁ、この街に」


『ふわぁ』とあくびをひとつ。うっすら開いた眦に水滴が浮かぶ。

 霞がかった視界を意に介することなく、ベッドから身体を起こし枕元を手で探る。


「ん~」


 指先に感触。

 軽く力を込めて引っ張り出したのは――文明の利器、スマートフォン。

 無機質なディスプレイは、黒い瞳の少女を写していた。

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