第7話
第7話
「貴様を拘束する!」
そう言われ、力尽くに抑えられ有無をいう事も叶わないまま、熾天使であるルシフェルは天界の奥にある牢に文字通り押し込まれた。
牢といっても、ルシフェルが押し込められた牢は他のモノとは違っていた。外観と内装こそは他の牢と同じ石壁と石床、鉄格子で出来ている牢で有るが、牢に掛けられている『呪い』(神術の行使に対する制限)は他の牢とは比べ物にならない程に強力なモノである為、熾天使であるルシフェルでさえ牢内での神術を行使する事が出来ず、脱走するどころか、水や火を生成する事が出来ない。
とはいえ、ルシフェルは脱走すれば本当の意味で創造主に愛想を尽かされると考えている為、脱走等を行おうとなどは考えていない為、この牢に施されている呪いは何の役にも立たないのであった。
牢に入れられたルシフェルは震える息使いで「ハァ‥‥‥」と息を吐き出し、牢の壁際にある固い地面に座り込み俯いた。
ハァ‥‥‥。ルシフェルは二度目となる大きなため息を付き自身の行動を思い出しながら両足についている神術行使を阻害する効果のある足枷と手枷を見て、悔い改める。
人間を‥‥‥主のお気に入りである人間を殺めてしまった。
生きる者の命を奪う事に対しての、後悔や罪悪感ではない。
ルシフェルの心に感じている感情は、『人間を殺してしまった』という事よりも、『主の最もお気に入りの者を殺してしまった』というモノで在り、人間に対して向けられた感情ではなく、主に向けられた感情で在る。
ハァ‥‥‥。三度目になる溜息を付き手枷が付いている両手を顔と髪の毛を、交互に撫でる様に擦り付け手枷の鎖をジャラジャラと音を立てさせた。重たく押し寄せてくる後悔の孤独な黒く腐った様な冷たい念の中に、鎖の音だけが温かさを、そして心の安定を与えてくれる音だとルシフェルは感じた。
目を深く閉じ、鎖の音と手、顔、頭の感覚だけを感じるように呼吸を整え意識を集中させる。
人間。創造主が、我々天使を補佐・援護する為に作り出した存在‥‥‥。天界での任務を行う天使の為に作り出された存在が、本来補佐をする対象を攻撃している。‥‥‥全知全能を己の二つ名とし、周囲の存在にもその様に言われている主は、この人間達の行き過ぎた行為を知っているのだろうか? いや、知っているに違いない。むしろ知らない訳がない。全知全能である主が知らない筈がない。
しかし‥‥‥と、ルシフェルは何もない牢でひたすら考え続ける。只々ひたすら考える。
手足の自由を奪われている状態で、尚且つ視覚や聴覚から得られる情報も余り無く、己が出来る事といえば、ただひたすらに頭を働かせて物事を考える事しかないからだ。
今一度、己に問おう。創造主で在る主は、本当に『全知全能』な存在なのであろうか?
もし、主が全知全能で有るのであれば、人間達が行っている不正や不利益についてのすべてを知っている筈だ。しかし、主はその様な行いをする人間達を罰する事なく寵愛を送り続ける。
‥‥‥。いや、この様な人間達の行為を咎めない事は自分達、天使が知らないだけでユクユクは天界全体に利益をもたらす行動だったのだろうか? ‥‥‥自分は主が考えている事などわかる筈もない存在。神の右に唯一立つ事の出来る存在であるとしても、やはり一天使の存在でしかなく主が考えている事の全体を理解する事は出来ない。
それでも‥‥‥。それでも今回の人間達が行ってきた行動は、私的な意見ではあるが今後の天界に何の利益をもたらす事は無い様な気がしてならない。
もし仮にとして人間達の行っている一見、意味の無い行動が主の計画で今後の天界に何か意味のある事だと仮定したとしても何故、主はその事を自分に報告して下さらないのだろうか?
ルシフェルは更に考え続ける。
もし人間達が行っている行動が正しいのであれば、その行動に不満を持っている天使達に、その行動の意味を提示して下さらないのだろうか? せめて自分だけにも教えて下さってもいいだろうに‥‥‥。
そんなにも、私は主の考えを聞くに値しない存在なのでしょうか‥‥‥?
足枷と手枷をはめられた状態ではあったが、ルシフェルは固い地面に座り込んでいた重い腰を一旦持ち上げると今度は正座をして、祈り姿勢を取る。そして窓すら無い壁の方を向き祈りを捧げだした。
あぁ、主よ。我が疑問に答えて頂きたく思います。貴方は一体何を考えられて、何を行いたいのでしょうか? 貴方が見つめている未来は、どの様な形をしているのでしょうか?
主よ、お教えください。我々天使は貴方の為に何を行って、どんな結果を貴方に届ければ良いのでしょうか?
あぁ、主よ‥‥‥。どうか人間達だけでは無く、我々天使の事も気にかけて下さい。この様な考えは図々しく、主である貴方に仕える一天使として求めすぎている事はわかっているつもりですが、どうか今一度でいいのです。今一度、我々の事を‥‥‥我々天使に愛を分けて下さい‥‥‥。どうか、人間達に向けている愛の内の一部でいいのです‥‥‥。その少しの愛があれば、我々天使達は救われるのです。幸福を得られるのです‥‥‥。
あぁ、主よ‥‥‥。どうか‥‥‥、どうか‥‥‥。
祈りの最中ルシフェルの瞳から大粒の涙が流れた。その涙は止まる事を知らないのか、ルシフェルが祈りの邪魔だと止めようとしてもその涙は止まらず、勢いを増して流れてくる。
この感情は悲しさから来ているモノなのか、それとも数えるのも煩わしい程の昔から仕えているのにも関わらず、ヒョッコリと登場した人間に寵愛を取られたことに対しての己自身への遣る瀬無さなのか‥‥‥。
情けない‥‥‥。本当に情けない。成す業なく人間達に奪われてしまった、主からの寵愛と熾天使としての威厳。実際には主からは直接の言葉が無い為、今現在の自分の評価がどの様に評価されているのかは分からないが‥‥‥。しかし、今回の件で自分自身の評価は‥‥‥。いや、今回行った自分の行動で『天使自体』の評価が地に落ちてしまったら‥‥‥。可能性は無きにしも非ず‥‥‥その可能性は大であるか‥‥‥。
ルシフェルは何回目か分からない自問自答を繰り返し、何度目か分からない自身が行った事への後悔の念を抱く。
しかし、同時にルシフェルは己が行った事への正当性も、後悔と同じ分だけ考える。無念の死を遂げ、それと同時に片方の手だけを切り落とされ、ぞんざいに扱われた同胞。そして、意味もなく、熾天使であり味方である自分に刃を向け実際に攻撃してきた人間達。すべては同胞に対する弔いと、自身の身を守る為の正当な行為。
自分に落ち度はない! すべては、自分達天使に不敬を働いた人間達が悪いのだ!
‥‥‥そうか! 事の悪しき根源は人間なのだ! これは判明している! 人間が天使を‥‥‥私を貶めたのだ! これも知っている‥‥‥。という事は即ち、人間は常に悪の元凶を持ち込んでいる‥‥‥。全て、すべて人間が悪いのではないか!
そこまで考えて、ルシフェルは大きく息を吸い込み、大きく息を吐いた。
息を吸い込んだ時には、人間への怒り。息を吐いた時にも、人間への怒りと恨み。
あぁ、早く牢から出たい。牢から出たら直ぐに、今回の事の証拠を集め、主に抗議して人間達を排除しよう。主は人間達を気に入っているが、人間達の事だ。主にある事ない事を吹き込んで、天使の評判を地に貶め、逆に人間達自身は主に媚び、行ってもいない事、思ってもいない事を吹き込んでいるのだ。絶対にそうだ! それ以外に此処までぞんざいに扱われるなんて有り得ないでは無いか!
たかが人間を一人殺しただけで! 大事な仲間を殺し、天界を危険に晒した人間を一人処分したのだ! これは正当な公務を行ったではないか! どこにも落ち度のない仕事をしたのにも拘らず、罰を受けなければならないこの理不尽!
これまでいくつもの時間を主に使え、主と共に過ごしてきた。その様な主が、創造されたばかりの人間を特別な思いで可愛がり、その上、永遠の様に感じるような時を過ごしてきた我々天使達をぞんざいに扱うなど考える事が出来ない!
手枷付きの両手で祈る様に、両手を自身の目の前に出していた手を再び頭部に移動させ、己を傷つける様に激しく攻撃的な髪を掻き毟る様な動きに変化させた。事実、ルシフェルの服や足元には綺麗な髪の毛が、一部毛根付きで地面に落ちている。
そうだ‥‥‥。主を変えてしまったのは人間達だ‥‥‥。そうでなければ説明がつかない‥‥‥。あぁ、自身が造像し、絶対的な信頼を空いている未熟な存在に騙され、向けるべき愛さえも人間達に操られている可哀そうな主‥‥‥。主には救いが必要なのです。今こそ、長年使えてきた我々天使の助けが、いや天使では無く主の右に立つ事の許された熾天使で有る私、ルシフェルが主を必ず救って差し上げます。
あぁ、可哀そうな主。私が、必ず救って差し上げます。たとえ主が溺愛している人間を、根こそぎ滅ぼすことになったとしても。主を惑わせる存在は必要ない。
主に必要な存在は我々天使だ。人間の様に誰かを陥れる様なこともせず、天界に対して不利益になることは行わず、常に利益を追い求め鍛錬を欠かす事のない我々天使が。
可哀そうな主よ。私は一刻も早く此処を出て主の元に行き、すべての事実を伝え人間達から解放して差し上げます。あぁ、可哀そうな主よ。今すぐにでも主は私を呼び、人間達から解放されたいので在りましょう。主は全知全能で有るが故に、主自身が作り上げた人間達の愚かさや卑しさが分かっている筈です。主よ、早く私を求めて下さい。私は何時でも主の事を誰よりも思って居るのです。
主よ。私が主を助け出した暁には、貴方の寵愛を満遍なく頂戴いたします。
貴方にたっぷりと愛して頂きます‥‥‥。
ニヤニヤ、不気味な笑みを浮かべた後、ルシフェルは自身の手枷のついている両手を頭に付け擦り始めた。その手は優しく時に激しく、例えるならば自身の頭を撫でているかの様な手つき‥‥‥。次第に頭を擦っていた両手はルシフェルの右頬に移り、優しく時に激しく凝る事を繰り返す。しかし、激しいといっても先ほどの様な自身を傷つける様な手つきでは無く、溢れんばかりの激しい愛を伝える様な手つきで右頬、左頬、再度に頭を撫で終わると同時に、ルシフェルは気味の悪い笑い声とも、唸り声とも聞こえる声を上げる。
スタ、スタ、スタと重い足を引きずりながら、不気味な唸り声が微かに響く薄暗い廊下を歩く天使が一人いた。天使の目的は、約一ヶ月前に牢に入れられた熾天使‥‥‥ルシフェルを牢から連れ出し、主の元に連れていく事であった。
天使の名はサリエル。主の前に出る事を許された、数少ない天使内の一人で在る。その薄暗い廊下を歩くサリエルの放つ雰囲気はとても重く、近寄りがたい後ろ姿をしていた。
何故、貴方はこの様な事を‥‥‥。どんな理由があったとしても、主のお気に入りを殺す事は誰が考えても禁忌である事は分かるでしょうに。‥‥‥理由を知らない訳では無いが、いくら何でも今回の事に関しては、主のお気に入りを殺した貴方が悪いとしか言いようが無いです。
貴方がすべて悪い‥‥‥。そう心で思う反面、サリエルはもう一方でルシフェルの行った行動に対して同情し、またその行動に対しての正当性を感じていた。
天界を危険に晒す数々の行為。一歩間違えれば、天界をそのまま魔物たちに占領されて居たかも知れない行為。人間達からも満足な説明もないままである。また家族同然である天使、それもルシフェル自身が特に気に入っていた天使二人が、人間に殺され天使達の一部をぞんざいに扱い、唾を吐きつけた‥‥‥。この段階ですら人間達はルシフェル、いや天使達に殺されても文句は言えないであろう。
そして、天使の長で在るルシフェル本人に対する攻撃。これに関しては、幾ら創造主のお気に入りである人間だとしても殺されても仕方がない。ルシフェルは正当な自己防衛を行ったに過ぎないのである。これは誰が見ても明らかな事であり、何人たりともルシフェルを責める事は出来ない。
‥‥‥しかし、幾らルシフェルに何の落ち度がなかったとしても、最近の創造主の人間への特別な思いが創造主の判断を狂わる。
ギリッ! とサリエルは奥歯を噛みしめて音を鳴らす。
何故? 何故に人間共の失態を、天界の行く末を全ての天使以上に考え常に天界の為を思い行動し考えてきたモノをこの様な形で捕らえ、この様な処遇に処さねばなら無い?
それは余りにも、酷すぎる。残酷だ。
暗い雰囲気でスタ、スタと歩いていたサリエルの足が止まった。何故だか滝の様に出る冷や汗を拭いながら、サリエルは牢の鍵に向けて神術を使い解錠する。
薄暗い牢の中を、サリエルは己の神術で作り出した光源で照らしルシフェルがいる牢の中を照らした。
気が付けば、先ほどまで薄っすらと聞こえていた唸り声は消え辺り一帯はシンと静まり返っていた。
「ルシフェル様、迎えに参りました。主が貴方を呼んでおります」
サリエルは唸り声が止んだ事に違和感を覚えながらも、自身の友である熾天使の姿を見つけ声を掛けた‥‥‥。
「それは本当か?」
「ッ!?」
サリエルの声に反応し、サリエルに聞き返しの言葉を放ったと同時にサリエルの方を向いたルシフェルで在ったが、そのルシフェルを見たサリエルは驚きと恐怖のあまり、声にならない声を出し硬直した。
「主が私をご所望‥‥‥。主が! やっと私を必要としてくださった。あぁ主よ、今すぐ貴方を開放して差し上げます」
余りの恐怖で硬直しているサリエルを、ゆらりと若干肩を擦らせながら躱していくルシフェル。そんなルシフェルの後姿を、青ざめた顔でサリエルは少しの間で在るが動けないまま固まっていた。
‥‥‥サリエルは感じ、そして見た。いや違う。感じてしまい、見てしまったと言った方が正しいのかもしれない。
『主』という単語を聞いた瞬間のルシフェルの雰囲気が何とも例える事の出来ない、ヌチャ! とした空気を醸し出した。そして、瞳孔が開きっぱなしになった何所に焦点を当て、何処を見ているのかも分からない狂気の目。言葉を悪く表現をするならば、何処かイッている目。極めつけに、石造りの床に散乱している大量の髪の毛‥‥‥。
全身の毛という毛が逆立つ感覚と、全ての臓物をネットリと舐め回されたかの様な気持ち悪さをサリエルは同時に感じた。
この牢で貴方は一体何を‥‥‥?
サリエルはハッと意識を自身の世界から現実世界に取り戻し、気持ち悪さを振り切る様に頭を横に振りルシフェルを追いかける。
しかし、依然としてサリエルから気持ち悪さが抜ける事は無かった。