前奏
――前奏――
怪しい気配を纏った森の奥に、巨大な古城が一つ建っていた。
夜鳴き鴉が窓辺にとまり、部屋の主に朝を告げる。部屋の中は豪華な装飾が施されていて、、この城の主かもしくはそれに近しい者が住んでいることは一目瞭然だ。
その部屋の中心に一際華美な造りのベッドがあり、誰かが眠っているのか、白い毛布の膨らみが中にいる者が呼吸しているのを表すように、ゆっくりと上下している。
しかしこの部屋の主も、さすがに鴉の声が煩わしくなったのか、むくりと起き上がりそのまま窓の取っ手に手を掛け、バッと窓を開け放った。窓辺の夜鳴き鴉は窓枠に押し出される形で、森の方へと帰って行った。
窓を開いたのは、さしずめ童話の中の王子様、といったような美しい容姿をした青年だった。青年は開いた窓から外を眺める。彼が吐いたため息は、何かを憂いてのものなのか、それともただ単に自分の中の睡魔と格闘しているだけなのか。
それからもう一度深いため息を吐き、腕で少し弾みを付けるようにして窓辺から離れた。
再び彼がベッドへ潜り込もうとすると、扉が厳格な重苦しい音を立てノックされた。その音を聞いた途端、青年は文字通りベッドから跳び起きる。それからその足音が去って行ったのを確認すると、急いで何かの呪文を唱えた。すると彼の手が淡い光を放ち、その光はたちまちの内に青年を包みこんでいった。次に彼が光の中から現れた時には、この部屋の装飾に勝るとも劣らないような豪華絢爛な衣装へと様変わりしていた。
なぜ彼が突然正装へと衣装を変えたのか。原因はやはりあのノックだ。
あのノックは彼の父、もう少しだけわかりやすいように名を呼ぶのであれば『大魔王』のものだ。つまりこの青年は大魔王の息子、『魔王』なのだ。そしてその大魔王が魔王の部屋をノックしたということは、何か重大な話があるということに他ならない。大魔王がこの方法で魔王を呼び出すときは大抵が由々しい事態であることが多い。最後に魔王がこのノックを聞いたのは母の死を知らされた時なので、十数年はこの呼び出し方法は使われていないということになる。そういうこともあり、魔王はひどく焦っていたのだ。
「父上、ただいま参上致しました。」
魔王は父の座っている玉座の前にうやうやしく跪く。
その声は彼の容姿からはあまり想像がつかない、少し低めな、落ち着いた、やけに頭に残るしっかりとした声だった。
玉座に座った大魔王は最後に魔王が見た時とは打って変わって、明らかにひどく憔悴していた。
父が母の死を知らせた時の様子よりも明らかに元気が無いのを見て取り、魔王の頭の中には最悪の考えがぐるぐると巡り始める。
なんだ、今日の父上の様子は? いつも威厳に溢れ、どんなときでも平常心を保っているような方なのに……まさか、この城に、いや、この世界に何か大きな災いが降りかかろうとしているのでは!?
そんな風に考えた魔王が、自分の考えの真偽を確かめようと下げていた視線を父の方を向け、口を開こうと息を吸った。
しかしその声は大魔王の吐いた、まるで全身の息を全て吐き出したのでは無いかというようなため息によって、遮られてしまった。それから大魔王は決心を固めたように息を吸い込む。
「…………お前を、人間界に送ることが……決まった。」
重い口をやっと開いたにしては、飛び出してきたその言葉は、何が来るのかと怯えつつ身構えていた魔王にとって、一端の安心を得るには充分だった。そして、その安心した魔王を再度驚かせるのにも充分だった。
「にん、げんかい……?」
呆けたような表情で、魔王は父の言葉をただ反芻した。
……人間界。昔読んだおとぎ話の中でよく出てきたような気がする。幼心にあの『科学』や『機械』と言った摩訶不思議な存在には心惹かれていた。……しかし、そこに送る? あんな不可解な世界が本当に存在していると、父上はそう仰りたいわけなのか?
魔王がその紅い目をまんまるく見開き、驚愕したような表情で父のことを見上げていると、その様子を見た大魔王は一度小さく頷いた後でもう一度話を始めた。
「そうだ。昔お前に話して聞かせたことがあっただろう?
あの頃からお前は可愛かった。本当に聡明で物覚えも早くて……」
父親が、日課ともいえる自分に対する愛情語りを始めようとし出したので、魔王はそれを阻止するように父親の言葉を遮り、人間界についての説明を続けるように促す。
「それで……人間界というのは……」
その言葉に大魔王は思い出したように話を続ける。
「ああ、そうだったな。お前の話になるとついつい熱が入ってしまっていかんな。
人間界というのはだ、そもそも魔力という概念が存在しておらず、魔物もおらん。
簡単に言えば、非力な人間という生き物が作り上げた、我々には理解しえない世界だ。」
父親の口からそこまで辛辣な意見を聞いてしまうと、幼い頃からの憧れが壊されてしまったような気がして、魔王は少しだけ残念そうな顔をしながら、その今の自分の尺度では理解し得ない世界の話に耳を傾けていた。人間界の話を父親から聞くという状況に、幼い頃を思い出しながら……
あの頃は良かった。魔法が使えないからといって、叱られることも無く、魔法を練習する必要も無かったのだから、それに比べて今は……
そんな風に考えを滑らせていると、大魔王は先程よりももっと言いだしずらそうな顔をして苦々しげに話を続けた。
「……それでな、何故お前を人間界に送ることが決まったのかというとだ……
本当を言えば私だってお前を手の届かない場所に送り込むことなど、身を引き裂かれる程辛い。しかしお前は、魔王。ゆくゆくは私の後を継ぎ大魔王となる身だ。だがお前は、いや責めているわけではないし、寧ろ好きなことを全力でやっているお前はとても立派だし可愛らしいと思っているのだが、いかんせんお前は魔力や魔法の力が弱い。それなのに歌や最近の流行り物ばかりを嗜んでいる。いや本当にな、先程も言ったがそれはとても良いことだし、私はそれでいいと思っているんだが……ここだけの話、長老連中がうるさくてな。
そこで、だ。お前は人間界に行き、そこでその世界を征服してきてほしい。
もちろん反対もしたんだが逆に私が甘やかし過ぎるのが悪いと怒られてしまった……」
なるほど、と魔王は父親の話を聞いて思った。確かに自分は魔法が苦手、というか生まれつき魔法に関しては適性が無かったと言っても過言では無いだろう。
しかし、その分というかその埋め合わせのように魔王は歌が凄く上手かった。それは大魔王は言うまでも無く、先程名前の出た長老達までも認める程の歌声だったのだ。
が、しかし、今はそんなことをぐだぐだと考えている暇は無い。先述したように魔王は魔法に関してはからっきしだ。そんな魔王が一人で人間界に乗り込んでいっていったい何が出来ると言うのだろうか。
と、最初は魔王もそう考えた。だが先程の父親の話を思い出してみると、人間界というのは『魔力は存在せず、魔物もいない世界』なのだ。つまり人間界には魔力など存在しないナメクジレベルの人間達しかいないのだから、周りと比べて少し見劣りはするものの、一応基礎の魔法は使える自分であれば征服くらい容易いのではないか、と。
「分かりました。必ずや最良の結果を父上にご覧に入れましょう。」
芝居がかっていると言って良い程にわざとらしく放たれたその言葉からは、魔王の自信とやる気を窺うことが出来た。それを聞いた大魔王は嬉しそうに、しかしまたどこか寂しそうに、頷いた。
「そうか、それでこそ我が息子だ。
私も昔は人間界を征服しに行ったのだから、お前ならば心配は要らないと思う。私も若い頃などはむこうで第六天魔王と呼ばれ、人間達から恐れられていたのだ。まあ征服一歩手前で帰ってきてしっまたがな。……これは内緒だぞ。」
大魔王は少し恥ずかしそうにそう言う。魔王は普段は誰にも見せることの無い父親の表情を若干驚きつつ、その言葉に困惑しつつ頷く。
「…………では、名残惜しいが、今からお前を人間界に送る。準備は良いな?」
こんなにも名残惜しそうな声はここ以外のどこでだって聞くことができないような、そんな声を出しながら、大魔王は重い腰をゆっくりと上げる。
魔王としては、久しぶりに自分の魔法が人よりも優れているという場所に行けるというわくわく感で、あまり親子の別れを哀しく装うつもりは無いようで、大きく頷き、父親に続いて立ち上がった。
大魔王が魔王の額に手を翳すと、魔王の足もとで魔力を帯びた陣が光を纏い現れる。
それから魔王も聞いたことが無いような、不思議な呪文を唱え始めた。
大魔王の口から呪文が紡ぎ出されると同時に、魔王はまるで世界の中心から掻き回されているような激しい目眩に襲われる。そんな暴力的なまでの目眩はやがて止み、魔王は一度、意識を失った。