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第一章8  終わる悪意と始まる旅

 その一瞬の間にヒロシを襲った感覚は数え切れない。

 ひとまずの勝利に安堵する根津の表情を染め上げていく恐怖。その視線の先から迫る、ヒロシを道連れにせんとする斬撃──ゴブリンの奇声を聞き、完全に意識を奪えていなかったことを悟ったときには既に遅かった。


 雄叫びと共にゴブリンはどす黒い血を鼻腔から吹き出し、鋭く振られた短剣の切っ先がヒロシの脚へと迫る。


「──ッせい!」


 破壊された壁から侵入する風すら静止しそうなほどに、ゆっくりと時間が流れる。正面、ヒロシのシャツを乱暴に掴んだ根津は、叩きつけるようにして背後の牢屋へと引き寄せる。

 ヒロシの額が鉄格子に打ち負け、鈍い音が響く。その直後、


「っあああ! 痛えぇ!!」


 ヒロシは激痛に表情を歪めて絶叫する。顔面を強打したためではなく、ゴブリンの振った短剣がヒロシの太腿の裏を掠めたのだ。

 掠めた、とは言っても、指先を紙で切っただけでも悶絶級だというのに、研がれた短剣で太腿を切り裂かれればその痛みは表現しきれない。


「ふッ!」


 薄皮を裂かれた箇所を押さえ、膝を折ってその場に崩れ落ちるヒロシ。彼の安全を横目に確認し、巨大な手に握られた短剣を根津が蹴り上げる。

 靴の脱げた軸足が、地に溜まった血液に滑らされながらも、そのつま先はゴブリンの手首を捉え、蹴られた短剣はくるくると砦の外へ飛んでいった。


 宵闇の中に消えていく短剣を追う琥珀色の双眸は虚ろで、最後の切り札を見事に外した巨体が項垂れる。

 地を這うゴブリンは、己の鋭利な八重歯で唇を噛み続けることによって遠のきつつある意識を保つ。眼前の獲物を絶対に逃さないために、すっかり力の入らない両足を尻尾の如く引きずり、重い身体を両手で支えながらゴブリンは這う。


「ああ⋯⋯くそっ! いってぇ」


 ゴブリンの進行方向の先にいるのは、己の左脚を握って無理矢理な止血を試みるヒロシだ。頭に血が昇ったゴブリンの視界は狭く、負傷したヒロシを仕留めることだけで思考が埋め尽くされていた。

 ヒロシは空いた右手で鉄格子を掴み、身体を起こして立ち上がる。その間にもゴブリンは、彼へと向かってナメクジの如く地面を全身で撫ぜて移動していく。


 その動線を遮るように立つのは、全身血まみれの坊主頭──根津である。

 べっとりと肌に付着した血液が固まることで、怒りに隆起する血管や骨の筋がより際立って見える。そんな彼の手は鋭利に砕けた石材を握っていた。


「お仲間には感謝申し上げるでござる」


 一度言葉を区切り、根津の視線は砦の遥か彼方、新鮮な硝煙を吐く砲台群へと向けられる。先ほどの衝撃が、何者かによって放たれた砲弾によるものであることを彼は理解し、


「拙者を引き上げ終わると同時に、拙者を牢屋へと引き戻すべく内側へ放り投げられたのが幸いだった。お仲間が盾になって、致命傷は避けられたでござるからな」


 言い終わり、根津は石材を握る力を強めた。

 意識を取り戻して間もない根津の脳内では不協和音が鳴り響き、肩で息をする苔色の巨体を見下ろす視線は熱された剣尖の如く、熱く鋭い。

 それらの情報だけでも、根津がこの怪物をどうするのか誰にでも察せる。殺すのだ。


 白金髪の少女とその母親がどうなったのか、今現在の根津が知る由はない。が、それは後回しだ。今は眼前の問題──ゴブリンをどうするかが先決である。

 己の背後でえっちらおっちら立ち上がるヒロシ、彼をこんな有様にしたのはこの怪物だ。ヒロシと根津を牢屋へと叩き込み、挙げ句の果てに親友を傷つけた。


「申し訳ないでござるが⋯⋯」


 怒りと憎しみ、そして己の感情を全て飲み込みそうな恐怖に震える利き手を撫で、赤黒く乾いた唇を湿らせて言葉を区切る。その視線の先には──全身全霊を賭けて放った一撃をかわされ、絶望の中を這う苔色の怪物がいる。


「これも自業自得でござる。来世では徳を積むと良いでござろう」


 そう言って根津は、震えながら石材を握る右手を反対の手で押さえつけた。軽いはずの石レンガの破片がどんどんと重くなっていくのを感じる。

 不規則になっていく呼吸を整え、両手で石製の凶器を握りしめる。手の震えが歯の根に伝達され、間もなく膝頭も震えていく。

 形だけの懺悔を喉の奥で吐息のように呟き、両手を振り上げる──


「待て!!」


 唐突な背後からの怒鳴り声。それを受けて、振り下ろされた石材が苔色の首筋の直前で急停止する。

 その声の主はヒロシだ。この怪物の最大の被害者であるヒロシが、根津の行為に待ったをかけたのだ。


「ヒロシ殿⋯⋯?」


「いいからそれを置け、早く!」


 恐怖に気が狂ったのか──そんなことを思いつつ根津は、ヒロシに示された通りに石を投げ捨てる。細かな塵が舞い、鋭利だった石材がただの石ころへと成り下がった。

 ヒロシは痛む左腿を押さえ、もどかしそうに数歩前に出て根津の隣に並ぶ。根津が疑問を口にしようと引き結んだ唇を開く前に、


「よく見ろ」


 と眼下のゴブリンを示す。

 獲物へと這おうとする両手は地面に溜まった血液で滑り、灰色の上にどす黒い赤色を撒き散らすだけで一向に前へ進んでいない。

 ただ腕をバタつかせているだけの怪物は、ひっくり返された昆虫のそれだった。


「殺すな。お前が⋯⋯俺たちが手を下さなくても、そいつは勝手にくたばる」


 もちろん、同じ人型をした生物を殺すことへのためらいが一番大きいが、それ以上にさっきの視線が忘れられないのだ。

 例えるならば──保健所の檻に入れられた犬のような、純粋に死を恐れる琥珀色が脳裏にこびりついて離れないのだ。

 それゆえに、無意識のうちに躊躇していたから、先ほどの一撃でゴブリンの意識を奪いそこねたのかもしれない。あるいは、この怪物は殺すに値する生物で、行使する勇気がヒロシに無いだけかもしれない。しかし、


「いくら元の世界じゃないからって、『殺し』が許されるワケないだろ。それをやったら⋯⋯こいつらと一緒だ」


 この怪物は既に虫の息だ。ここでトドメを刺してもヒロシ達には得がない。刺さなくても損はない。それならば、


「時間の無駄だ。行こうぜ、クラフトとシエルを追いかけよう」


「⋯⋯そうでござるな。拙者としたことが、かたじけない」


 根津はヒロシの手を取り、二人は固く握手する。そのまま互いに肩を抱き──


「無事で良かった」


「そちらこそ無事で何より。さ、行くでござる」


 ほんの数秒の間──二人は、破壊された壁から遠く外を見た。何故か、もう二度と見られない景色のような気がしたから。


 宵の黒、そこに幾筋もの煙が立ち上り、根本には砲台群がある。その周囲では、兵士と思われる人々が苔色の怪物達を相手に殺し合いを演じていた。

 金属製の網に捉えられた一人のゴブリンを無数の兵士が取り囲み、槍を何度も突き刺している。何度も、何度も、何度も何度も何度も。


 群がる兵士達へと突撃する別のゴブリンは、その手に持った棘付きの鉄球を横一文字に振り、兵士たちは風に吹かれる蟻の如く吹き飛ばされていった。

 鎧が歪み、肌が裂け、骨が砕かれる。血肉が飛び散り、宙を舞う生首は断末魔を叫んだ表情のままだ。


「⋯⋯っ」


 二人は息を呑む。繰り広げられる惨状を目にしていた時間は、おそらく一分にも満たない。しかし、今は何もかもが悠久を生きていた。

 その光景は、この世界に飛ばされてから二人が漠然と描いていた『強さ』の概念を根本から狂わせるものだった。


 この世界では、強くなければ生きていけない。そんなことはこれまでの経験から嫌というほどに得てきたことだ。もしそれがゲーム的経験値ならば、二人はそこそこの強さまで成り上がっているだろう。

 強くなるということは、誰か他者を傷つけることなのだろうか。強くなったら、あれらと同じになることだろうか。それならば、強さなどいらないのではないか。


 二人は噛み締めるように深く瞑目した。己の脳内を整理しようとしているのか、死にゆく者達へ黙祷を捧げているのかは分からない。ただ眼を瞑り、そして開く。


「⋯⋯行くぞ」


「合点」


 ヒロシは支えにしていた壁から手を離し、ゆっくりと歩き出す。まだまだ痛みは治まらず、酸欠による頭痛と手足の痺れは消えていない。が、根津に気を使わせたくないヒロシは、奥歯が砕け散りそうなほどに歯を食いしばって歩く。

 一方の根津は、地面に伏したまま浅い呼吸を重ねるゴブリンの正面に屈む。恐る恐る苔色の顎を伝う革のベルトを緩め、ヴァイキング兜を頭部から奪う。

 血管の浮いたゴブリンの双眸は恨めしそうに根津の背を睨んでいるが、身体がその感情に従うことはない。

 立ち上がり、兜の角を持って己の寂しい頭へと被せながら倒された扉を踏み、小走りで牢屋から出る。そんな根津を怪訝そうな目で眺め、ヒロシはゆっくりと歩きながら口を開く。


「いや、どうすんのそれ。被るの? いやもう被ってるけど」


 ああそうか、と根津は一人呟いて兜を少し上へずらす。ゴブリンの血で染まった彼の額には浅い傷口があり、表面が痛々しく固まった血に覆われている。


「おい大丈夫かよ。めっちゃ痛そうじゃん」


「それを今のヒロシ殿が言うのでござるか?」


 そう言われてみれば確かに、とヒロシは己の満身創痍っぷりを再確認する。苦笑いで応じる根津は「破片の一つが当たったのでござるよ」と頷いた。

 こんな状況であっても、こんな状況であるからこそ、二人はいつもの軽口を交換し合った。互いの表情は笑みを作っているが、それはどことなく苦味を帯びている。


 おぼつかない足取りで正面を歩くヒロシを、速足で追い越した根津は螺旋階段を数段下って階下を偵察し、「クリア」と呟いて手招きする。

 小さく顎を引いて応じたヒロシは、投げつけたまま放置されていたスニーカーの片割れを拾い、地面から角の生えた頭を出す根津へと放る。


「ここにあったのでござるか。拙者てっきり、初期装備欠損スタートかと身構えたでござるよ。いやぁ、よかった」


 思い返してみれば──これを投げつけることによってゴブリンの気を引き、クラフトたちは脱出に成功したのだから、最大の功労者は根津(のスニーカー)かもしれない。


「よくやった根津(のスニーカー)」


「何故、のスニーカーって付けるんでござるか」


 空元気の根津に続いて壁伝いに階段を降りる。体重を預ける壁材は冷え切っており、指先が凍てつきそうだ。

 壁から丸太が突き出しただけのように見える階段は、一歩下りる度に軋んで木の粉を散らす。それが不安で壁に手を付かざるを得ないのだから複雑な気分である。


 今更ながら電気が存在するはずもなく、薄暗い室内を照らすのは壁面に点々と設置された松明の明かりだけだ。

 階段を下りた先を見下ろすと、松明の炎が階段を駆け下り、忙しくなく動き回っている。


「ヒロシ殿ー! リュックあったでござるよ」


 いち早く駆け下りた根津が、歩みの鈍いヒロシに代わって周囲を偵察しているのだ。松明を振る根津の周囲が不規則に照らされ、壁に映る影が角の生えた巨大な化物に見えた。

 机の上の燭台に火を移した根津は、物色されて散乱した教科書類をせっせと拾い集めている。


「物、壊されてないよな?」


「今のところは、おそらく大丈夫でござる──あ、ヒロシ殿の英語破れてる」


 普段から教科書達に愛情を以て接してきたワケではないが、こうして傷つけられると何とも言えない喪失感が沸いてくるものだ。

 

「元の世界でまた使うから捨てるなよ。戻れるかは知らんけど」


 階段を下り終えたヒロシは、やっとこさ机へと辿り着く。

 何となく流行に乗って購入した四角いアウトドア系のリュックサック──無事。筆箱の中のシャープペンシルは数本折れている。教科書は英語のみ被害甚大で、体育着は洗濯中につき自宅だ。


「着替え持ってくれば良かった⋯⋯」


 今朝の自分に『晩飯の後に異世界召喚されるから着替えとナイフ持っておけよ』と伝えられないものだろうか。いや、無理か。

 そんなヒロシの隣では、眼鏡を取り戻した根津がごそごそと体操着に着替えている。今にも雪が降りだしそうなこの気温の中、半袖短パンである。


「お前⋯⋯死ぬ気か」


 季節感のない坊主頭を見やり、そして気付く──


「武器、無くね?」

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