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第一章7  泥色の凱歌

 ゆらり、ゆらり。ゆらぁり、ゆらり。


 瞼を閉じても、目を見開いても、彼の目に映る景色は変わらない。暗く、静かで何もない。背を下にして沈んでいるような感覚に襲われる。それと同時に何か柔らかいモノに寝転がっているようにも思える。

 全身が羽毛で包まれたかのように温かい。それと同時に、爪が剥がれそうなほどの冷たさが押し寄せてくる。

 光は無い。届かないのか、それとも存在しないのかは理解できない。ただ、単純に暗いのではなく光が無いのだ。光を捉える術を失ったとも考えられる。


 口を開き、声を出そうとする──息が漏れるだけで音が出ない。

 それに加えて息が吸えない。しかし、苦しくはない。むしろ心地良い。


 ヒロシの語彙において、この空間に最も適している表現は海の底だろう。光が届かなくて、息が吸えない。本当に水中ならば音は伝わるのが自然か⋯⋯。

 いずれにしても、ここがどこなのか、何なのかはさっぱり分からない。が、不思議と不安はない。

 旅行から帰ってきた夜の自室の布団──それに近い安心感が、彼の脳を撫ぜて狂わせていた。


 もう、これ以上落ちることのない最底辺。努力したって、しなくたって何も変わらない空間。浮き上がることも、さらに沈むこともない。

 安らかだ。なんだか眠い。今ならば、いつまででも寝れる。文字通り土に帰って、泥のように眠るのだ。


 起きたくない。目を開けたくない。瞼を閉じているときの方が、この空間を明るく、暖かく、柔らかく感じる。


 暗闇を見るのが怖いのだ。目を開いても暗く、どうせ独りならば──能動的に独りでいたい。閉じこもっていたい。独りにさせられたんじゃない、自らの手で独りでいることを選んだのだ。

 しかし、本当に自分は一人なのだろうか。すべきことが残っているのではないか。そんな思考がヒロシの脳裏から離れなかった。

 

 閉じているはずの瞼、その遠くに何かが見える。ぼんやりと光っている。

 ──誰もいないリビングで一人、湯を注いだカップ麺がふやけるのを待つ自分。陽が沈みかけて暗くなってきたが、灯りをつけるには夕陽が明るすぎる。

 食事する自分の周りだけが暗く、一歩外へ出れば明るい──こんな状況ですら、ヒロシへと向けられた皮肉のように思える。


 こんな世界に送り込まれて、ドブ臭い牢屋で死を迎える始末。やはり、神様に嫌われているのだろう。しかし、そんなに自分が悪いことをしたようにはどうも思えない。

 はみ出し者を──学校という狭い社会にて、社会不適合者を演じないと自身の存在価値を証明できない臆病者とは違う。

 集団に迎合して、己の個性や感情を殺すことだって立派な社会性だ。


 それでも、ヒロシはその上で他人から距離を取ることを選択したのだから自業自得である。それに関して後悔はない。


 強いて挙げるのなら、もっと家族と仲良くすれば良かった。たった二人しかいない、生まれた瞬間からの理解者なのに。

 全員で食卓を囲む。たったそれだけのことがあと何回できるかも分からない。こんな状況では、もう二度とそれも叶わないだろう。

 別に、嫌いなわけじゃなかったのに、己のワガママによって──


 ゆらり、ゆらり、沈む。ゆらり、ゆらぁり。


 ──左手を母親の右手と繋ぎ、右手は父親の左手と。両親は互いに少し腰を屈めて、歩き始めたばかりのような少年と歩く。

 確か、これはクリスマスのことだ。ヒロシの父が大切にしていたハーレーを売って、中古の車を買って食事に出かけた。彼の家には、サンタさんの概念が無かったから、クリスマスとは皆で食事をしてプレゼントを買ってもらえる日だった。


 ──変身ベルトだっけ、買ってもらったやつ。あれ、どこやったっけな。


 もっと、他人を大事にすれば良かった。人生の中で、現役女子高生と恋ができるのは今だけなのだ。それならば、その一瞬をもっと噛み締めて生き急げば良かった。

 他人を、友達を、たった一人の親友を──


 ゆらり、ゆららり、ゆらぁり。誰かの声がする。


 懐かしい男の声だ。

 その声は沈むヒロシの襟首を掴み、離れ行く意識をこの世界へ縛り付ける枷となったのだった。



 〇



 男の咆哮。ひどく無様でお世辞にも格好がついているとは言い難く、ヒーローには程遠い奇声だ。

 それを合図にヒロシの身体が放り出され、固い地面の感触を全身で味わう。頬を打つ『痛み』が、彼の神経という神経を奮い立たせ、脱色された世界に色が戻ってくる。


「──殿! 起きるのでござる!」


 鼓膜の更に奥深くで男の声が反響し、不快な耳鳴りへと形を変えた。完全に聞き取ることは難しい。

 呼吸を諦めていた肺へと酸素が流れ込み、収縮した気管が再起動する。空気を取り入れたいはずなのに、彼の身体は咳き込み続けた。


「ねッ、づ⋯⋯?」


 地面に這いつくばり過呼吸寸前のヒロシは、色の戻った世界から真っ先に飛び込んできた情報を口に出す。

 その正面では、新たなる障害がゴブリンへと襲い掛かっていた──


「くたばれぇ!!」


 その坊主頭は、ヒロシと同じ薄っぺらな夏服を身に纏っているが、その衣は上下ともに鮮血に染まっていた。

 己の両手に繋がれた鎖を太い苔色の首へとかけ、全体重を以てゴブリンの息の根を止めにかかる。が、足の裏に付着した血液によって滑り、片方だけ脱げたスニーカーが更に摩擦を奪うことで、上手く踏ん張れないようだ。


「くっそ⋯⋯! ヒロシ殿ッ!」


 ヒロシの名を叫び、助けを求める全身真っ赤のラストサムライ──根津は赤黒く染まった額に汗を浮かべ、どうにかその場に留まろうと鎖を握る。

 ゴブリンは暴れ、背にしがみつく根津を引きずり降ろそうと腕を振り回す。その度に手錠の輪が食い込み、青紫に変色した手首を痛めつけた。


 ゴブリンは助けを求めるかのように、眼前の空間を何度も両手で掴もうとする。自然、その両手が何かを掴むことはなく、耳障りな奇声を上げることもできずに口端に泡を溜めた。

 血管が浮き始めた琥珀色の双眸の淵には涙液が浮かび、ガチガチと八重歯を鳴らして憎しみを噛む。


 ヒロシが首を絞められてから意識が飛ぶまで、そう長い時間はかかっていない。その前例に当てはめれば──ゴブリンの意識はそろそろ失われてもいい頃だ。

 しかし、強靭なゴブリンの首に対するのは、貧弱な人間一人の腕力。対照実験にすらなっていないこの状況では、冷静さを欠いた根津の思考も相まって、この一瞬が永遠のものに感じられる。


「そろそろ──ヤバいでござる!」


 難易度マックスのロデオマシーンの上で声を張る根津。ついさっきまで血の海の中で気を失っていた彼の体力は限界に達しつつある。

 根津のシャツにこびりついた血は冷風に晒されてどす黒く固まり、体温と機動力を同時に奪っていた。一方で、手錠に圧迫される手首は先へと血が巡らず、こちらも冷たくなり始めている。


 これまで何度か『満身創痍』を表現に用いてきたが──それらが甘っちょろく、幸せなものに感じてられてしまう。その言葉が地面で伸びているヒロシのための言葉であるような気すらしてくるほどに、根津の目に映るヒロシはボロボロだ。

 何故、ヒロシがこんな有様になっているのか、今の根津にそんなことを考えられる余裕は無い。振り落とされないよう、一刻も早くこの怪物を行動不能にしなくては。

 根津の手首は限界だ。しかし、ここで自分が手を離せば、己の眼前でヒロシが殺される。

 

「立つのでござるッ! ヒロシ殿!」


 そんな根津の叫びは、ヒロシの鼓膜を確かに揺らした。

 死んだと、己のせいで死んだと思っていた親友が、今まさにヒロシを助けるべく戦っている。


「──ッああああ!」


 肋骨を突き破り、内側から飛び出してきそうな心臓を撫でつける。肘をつき、膝を立てて、地面に溜まった血泥に滑って再び大の字で地を這う。

 身体が動かない。末端の痺れが収まらず、早鐘を打つ心臓に合わせて視界が明滅する。

 ──これは、二度目のチャンスだ。あのとき助けられなかった親友を救うチャンスなのだ。この機を逃せば全てが終わる。動け、動け、動け!


 その瞬間、獲物を振り払うべく暴れ狂っていたゴブリンの動きが止まる。「やった⋯⋯!?」と歓喜の声と共に、根津の手の力が緩まる──


「まだだ!!」


 這ったまま首だけを上げて叫ぶヒロシ。その怒号の意図に根津が気付いたころにはもう遅かった。

 己の首元の鎖を掴んだゴブリンは、背後の根津を逃がさぬまま全力で後方へと地面を蹴った。すぐに訪れる鉄格子──衝撃。


「ッぐ⋯⋯!」


 ゴブリンの背と鉄格子とで逃げ場のない衝撃が根津の身体をサンドし、肺という風船に針を突き立てる様を幻視する。

 鞭の如く前後に振られる根津の首。衝撃と共に口端を噛み切り、掠れた吐息と共に微量の血がスプラッシュ。


「てめえッ!!」


 その様を下から目にしたヒロシには、ゴブリンの一撃によって根津の内臓が破裂し、激しく吐息したように見えていた。

 散乱した石材の一つを手に取り、地面を叩くようにして立ち上がる。


 再び背後の根津を鉄格子へと叩きつけようと、前へ体重を移したゴブリンの鼻頭に石レンガが炸裂する。軟骨の砕ける音、濁点に濁点を重ねたようなゴブリンの叫びが鼓膜を引っ掻いてやまない。


 痛みに顔を伏せようとしたゴブリン──


「行けえッ! ヒロシ殿!!」


 それを阻むのは首へとかけた鎖を全力で引く坊主頭だ。

 再び全体重をかけられた首の骨が悲鳴を上げ、ゴブリンの顔面が上を向く。


「じゃあな!」


 ゴブリンの膝を足場に飛び上がり、空中で石レンガを両手に握り直す。一直線に伸びた背骨、真上から衝撃を加えれば致命傷は免れない。


 歯を食いしばるヒロシ。砕き潰された鼻に石レンガのトドメを叩きこもうとした刹那──ヒロシの視線と、死の恐怖に見開いた琥珀色の双眸が重なる。


「⋯⋯っ」


 重力に任せて、苔色の顔面へと石材を叩きつければ勝負ありだ。彼の頭はそれを理解している。眼前の怪物は憎むべき対象であり、殺意をぶつけるに値する。


 それなのに──


 震える唇、口端に浮かんだ血泡、大きく開いた瞳孔、ヒロシが叩き潰した丸鼻、目尻から垂れる涙液。ほんの一瞬の間にヒロシの脳へと流れ込む情報の数々、それらは全て死を拒む感情に由来するモノだった。

 ゴブリンが人型であることも相まって、今から行使しようとしていることに、ヒロシの全神経が抗い、倫理観が泥のように纏わりつく。


 ぐしゃり。


 無情に時は流れ、ヒロシの身体は物理法則に従った。

 振り下ろした石材が前歯のほとんどを砕き、ゴブリンの口腔が血で満たされる。ヒロシや根津に流れている血液よりも、少し黒が強い赤色だ。


 やっと首が絞まったのか、背骨が折れたのかは分からない。が、琥珀色の中に浮かぶ黒色の瞳が各々違う方向を向き、両膝が折れて巨体が地面へと傾く。


「おっとと」


 ゴブリンの首にかかった手錠の鎖がはずれ、根津はバランスを崩して蹈鞴を踏む。鉄格子を掴んで体を支え、肩で息をするヒロシと目が合う。


「ふぅ⋯⋯」


「ふぅ、じゃねえよ。死んだかと思ったろうが」


 その言葉を発すると同時に、ヒロシの身体を突き動かしていた感情が解ける。体内の熱を逃がすように吐息し、ヒロシは深く瞑目する。


「マジで良かった⋯⋯。本当に良かった⋯⋯」


 己の眼前に、親友が存在していること。その事実をただひたすらに噛み締め、ヒロシは緩む口角と涙のこみ上げてきた目頭を両手で覆う。


「ご心配をおかけしたでござる。ヒロシ殿」


 お互いに生きてて本当に良かったと二人は肩を組み、なんとか零さずに繋ぎとめた生命を掲げて安堵──


「──ッ!」


 目を見開き、その双眸に焦燥と恐怖を宿した根津は声にならない叫びを上げる。

 根津の視線の先はヒロシの足元、地面に伸びていたはずのゴブリンへと向けられていた。


「ヴァァァァァアアッ!!」


 半身を起こした怪物が奇声を発すると共に、ヒロシへと斬撃が襲いかかる。

 地獄への道連れと言わんばかりの怪物の悪意を表現するのは、今の今まで何故か使われず、完全にその存在を忘れていた腰元の短剣だ。 

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