第一章6 負け戦
こちらが風下であったのだから、もう少し早く火薬の匂いに気付けたはず。だが、ゴブリンの場合は違う。ゴブリンの嗅覚は他の種族に比べて劣っているのだ。
それを知っているがゆえに、連中もこんな大胆な作戦に出たのだろう。
砦の中や周囲を警備していたゴブリンのほとんどが、丘の上の大砲群へ向けて走っていった。
戦士である自分も加勢するべきか──ゴブリンは兜を太い指で叩いて思案する。
それとも砦の被害状況を確認しに行くべきだろうか。
上の階には捕虜を入れる檻がある。もし、そこが壊れていたら大変だ。しかし、それらを見張っている屋上の弓兵が鐘を鳴らすはずだ。
弓兵が動く気配はないし、特に何もなかったのか──
違う。飛んできた砲弾が屋上の弓兵を吹き飛ばしていたとしたら、鐘を鳴らす者はいない。その可能性は大いにある。
ゴブリンはのっそりと立ち上がり、膝に抱いて叩いていた兜を装備する。腰布に括り付けた棍棒を手に取り、壁に沿って螺旋階段を登る。
壁から突き出すように造られた木の階段は、ゴブリンが乗ると大きく軋む。慎重に歩かなければ、折れて転落しかねない。
一階の天井であり二階の床でもある地面から頭を出すと、途端に寒風が押し寄せる。壁に穴が開いているようだ。
冷風に目を細めながらも、長机と無数に並んだ椅子の隙間をゴブリンの視線が抜ける。
見慣れた牢屋だが、その光景は決定的に違っていた。牢屋の扉が倒れて、その上に男が這いつくばっているのだ。
「あ⋯⋯」
顔を上げた少年と目が合い、少年は声を漏らす。
女が二人。男が、一人足りない。
◯
「あ⋯⋯」
ヒロシの視線が琥珀色の双眸と重なり、間抜けな声が漏れた。ヒロシと根津を牢屋へ叩きこんだゴブリンとは違う。
腰布以外に何も身に着けていなかったゴブリンとは別人──否、別ゴブリン。クラフト親子を連れてきた『武装ゴブリン』だ。
鎖帷子を着込み、ヴァイキングよろしく角の生えた兜を被っている。その腰元では棍棒と短剣が揺れ、その屈強な体格と相まって勝てる気がしない。
ヒロシがうっすらと想定していた中でも、特に最悪な予想が的中した。
今、思い返せば──石レンガで派手に金具を叩いて壊して気付かれないわけがない。
いったいどれほど気が動転していたのか、ヒロシは数分前の自分を呪う。
『己の力で扉が破れた』という微かに見えた希望が霧散し、一難去った事によってやって来た一難。
ヒロシは、新たなる絶望に口の中の水分を奪われながらも立ち上がり、親子へ視線を向けた。
──最悪の状況を前にして、美しい顔に明確な焦りを浮かべるクラフト。
その肩に支えられたシエルは、顔色が少し明るくなったようで、己にできることがないか周囲を見回している。
残酷なことに、未だに全身で荒い呼吸を重ねる彼女にできることはないだろう。
シエルは戦力にならず、それを支えるクラフトに期待するのは論外だ。消去法によって、迫り来るゴブリンを対処するのは、唯一動けるヒロシの仕事となる。
あの屈強なゴブリンを相手取るにあたって、ナイフのひとつでも欲しいところだが、彼の手のひらは血を流すばかりで何も握っていない。
「マジかよ⋯⋯」
掠れた息と共に漏れた言葉を皮切りに、止まっていた時が動き出す。
作戦を立てる間もなくゴブリンが奇声を発して棍棒を振り上げ、階段の残りを一気に駆け上がった。
石レンガを投げるか、少し先の椅子を手に取るかで脊椎がパニックを起こし、ヒロシの視線が地面と机を往復する。
「早く逃げて!」
混乱する脳内──そこからヒロシを救い出したのは、またしても少女の声音だ。
はっと顔を上げて、声の主を経由して迫る巨影へ視線は移動する。歯の根が合わず、天井が降ってきた時よりも激しい恐怖が彼の内蔵を撫でて回る。
他者の悪意によって、命の火が吹き消されようとして初めて感じる──本当の死の恐怖。
あの巨体から振り下ろされた棍棒を受け止める胆力も、筋力もヒロシには備わっていない。殺される、確実に殺される。
どう考えたって、逃げるべきだ。しかし、クラフトを一瞥したヒロシはそれと反対の行動をとった。
足元のレンガを拾い上げ、その姿勢のまま机の影に隠れるようにして走る。
机を挟んでゴブリンと向き合う形のヒロシは、石材を頭上に掲げて威嚇。琥珀色の双眸を睨みつけて自分へと意識を向けさせる。
「こいよ……!」
右へ左へ反復横跳びステップを踏み、フェイントをかけて煽る。が、ゴブリンは潰れた鼻を鳴らして、手の中で棍棒を踊らせ──握り直した刹那、振り下ろされた棍棒が長机を真っ二つに叩き割った。
「いやいや⋯⋯」
見せつけられる圧倒的な戦闘能力の差、高まってきた士気がどんどん下がっていく。
背中には刺すような油汗が滲み、目尻が痙攣する。が、ヒロシは逃げようとしない。
「そんなもんかよ。俺の頭はここだ! 間違えてんじゃねえ!!」
恐怖を振り払うようにヒロシは叫び、ゴブリンへ中指を立てる。己の頭をそのまま指で示して挑発し、ゴブリンの意識を更に自分自身へと向ける。
叩き割った机を踏んで、ゴブリンはこちらへと歩き出す。重く足を踏み鳴らし、必要以上に机の天板を破壊して歩く。
牢屋から出てみれば、意外とこの空間は広い。どうとでも逃げられるはずである。
しかし、威勢良く回る舌に反して、恐怖に震える足は後ろへ下がることしかしない。これが武者震いでないのは明らかだ。
八重歯を覗かせたゴブリンは邪悪な笑みを浮かべ、第一の獲物へと近づいていく。
──俺を中心に捉えた視界に、クラフト達は入っていない。この調子だ。
追い詰められていく弱者を見下ろすゴブリンの向こう、鉄格子の内には支え合う親子が見える。怪物の意識はヒロシへと向いていて、静かに動けば二人は逃げられそうだ。
「早く⋯⋯早く逃げろ!」
どうかゴブリンが日本語を認識しませんように、それだけを祈ってヒロシは声を張り上げた。
己を閉じ込めていた鉄格子が、迫る悪意から二人を身を守る障壁のようだった。あれほど居心地が悪くて憎らしかった鉄格子が、今だけは頼もしく思える。
ヒロシの叫びがゴブリンの鼓膜を揺らし切ったであろう時間が経過しても、ゴブリンがその内容を理解したようには見えない。
醜悪な笑みを浮かべたままに棍棒を頭上に掲げ、ヒロシを壁へ壁へと追いやっていく。
日本語が理解できないゴブリンにとっては、命乞いの叫びのように聞こえているのだろうか。
それならば、ヒロシの企みは彼の思い描く理想へと近づきつつある。
「今しかない、早く行け!」
悪意に満ちた双眸から目を逸らさず、クラフトが応える隙を与えないようヒロシはまくし立てる。回転する舌は乾き、苦味という形で味覚すら恐怖を訴えていた。
少し踏み込まれれば掴まれそうな距離だが、ゴブリンはそれをしない。狩りのような楽しさを見出しているのだろう。
ヒロシは舌打ちを飲み込んで、破った扉から怪物を引き離すようにして更に後退る。
「でも、貴方を置いては──」
「うるせえ!」
噛み切った口端から流れる血を吐き、クラフトの言葉を断ち切ってヒロシは吠えた。
言葉を遮ってまで自分が何を言いたいのか、彼自身ですらわかっていない。
ただ、ヒロシは彼女達の方を見やることなく声を張り続ける。ゴブリンの意識が親子へと向かないようにするためだ。
「早く行け。生きろ、そなたは美しい! ──なんだっていいだろ、早く行けよ!!」
ヒロシが早口でまくし立てると同時に、彼の背が壁へと辿り着いた。ワイシャツ越しに伝わる低音が、跳ねる鼓動に拍車をかけている。
迫る苔色の巨人。開いた瞳孔には青ざめた己の顔が映っていた。
利き手の石レンガを強く握り、ゴブリンが棍棒を振り上げたタイミングで石材を用いたアッパーを叩きこむ。
希望的な未来を脳内で何度も再生し、それを実現すべく棍棒の初動を見逃さないように目を見開く。その刹那──内臓への衝撃。
「ぅ、ッお!?」
肺が圧迫され、酸素という酸素が口から吐き出されていく。痛みを超えた熱が全身を駆け巡り、目の前で爆竹の如き目眩が炸裂する。
本来であれば背面から逃げる衝撃も、壁に追い詰められた状態ではその全てが身体へと叩き込まれる。
ここで、ヒロシは己の決定的なミスに気付く。
ヒロシの意識が棍棒の一撃へと集まっていることを悟ったゴブリンは、警戒の対象を動かさぬままに、最短距離で己の膝を獲物のみぞおちへと叩き込んだのだ。
その場に両膝をつき、意識とは関係なしに身体が前のめりに倒れる。
重力に従うヒロシの額を苔色の手のひらが受け止めた。震える瞼を開くと、首骨を砕かんと接近するゴブリンの膝頭──
「ッだらぁ!!」
咄嗟に持ち上げた右肘で意地の防御。限界を訴える腕骨の悲鳴と、揺れる鎖の音を耳元で聞き、ヒロシの身体は破壊された長机へと飛ばされる。
飛び散った木屑を全身で雑巾がけし、反対の壁に激突して止まる。
「なんでそこまで⋯⋯」
母を抱く掠れた少女の声音。そんな雪の如く消え入るような独白がヒロシへ届くことはない。
そして、もし、その問いにヒロシが答えられるのだとすれば──『贖罪』の一言で充分だろう。
○
異世界──己が住む世界とは異なる世界。普通に考えればそこで思考は止まったはずなのだ。しかし、ヒロシは勝手に異世界と桃源郷を重ねていたのかもしれない。
もちろん、彼の眼前に広がる光景が、彼の思い描いた桃源郷かと言われれば否だ。断じて否だ。
追い詰められていつ殺されるかわからない自分。恐怖に身を寄せ合って震える母と子。砲弾に吹き飛ばされて血塊となった親友。
──力があるのならばいざ知らず、それを持たない自分に何ができるのか。結論、何もできない。
画面の向こうで死にゆく命は他人事。誰が死のうが、誰の家が焼けようが、誰が誰と不倫しようと関係ない。
ただただのんべんだらりと甘い汁を吸って、でかい口を叩くクセにそれに見合った努力はしない。一人前に飯だけは喰って、現実から逃げる努力ばかりを彼は重ねた。
勉強なんて将来何の役にも立たない云々とほざきつつも、自分からそれを差し引いたら何も残らないことが分かっていたから手放せなくなった。
──どうすりゃいいってんだよ。
「明日死ぬかもしれない」という質問は「目の前に百万円落ちてました」と何も変わらない──非論理的なタラレバだ。
明日死ぬからなんだ、今まで何もしてこなかった人間が急に変われるわけがない。だから、人間はみな後悔するんだろう。
──魔王退治でもしろってのか。
誰かがやらなきゃいけないことなら、誰かがやればいい。
自分は関係ない。むしろ、関わって状況を悪化させるくらいなら傍観していた方が遥かに建設的だ。
でも、それでも──
「目の前の親子すら守れなくて⋯⋯」
口の中に広がる鉄の味をもう一度吐き出し、血だらけでさぞ醜かろう前歯を舌先で湿らせる。
「目の前の女の子を置いて逃げて⋯⋯」
椅子の足を支えにふらふらと立ち、涙の浮かんだ目を見開いて怪物を睨みつける。
「ヘラヘラ生きていけるわけ──ねぇだろうが!」
胃液を鼻腔からぶちまけ、ヒロシの身体そのものが彼の行動の全てを制止した。
破裂しそうなほどに心臓が跳ねる。ガタガタと嗤う膝を無理矢理に従わせ、ヒロシはゴブリンへ向けて走り出した。
剣の切っ先に見立てて椅子を構え、ヒロシは声を張り上げる。
ヒロシの咆哮に応じるのは、鋭く振られた棍棒の一撃だ。見計らったように棍棒の横薙ぎをスライディングで避け、衝撃の余韻が前髪を揺らす。
「元陸上部ナメんな!」
横に流れるゴブリンの膝裏を狙って椅子を振る。荒々しい膝カックンを図ったが、前へとよろめいただけで理想とした決定打にはなっていない。
スライディングの勢いが死に、振り返るゴブリンを寝転がって見上げる形のヒロシ。怒りに呼吸を荒げて、奇声と共に苔色が得物を振り下ろす。
考えるより先に体が地面を転がり、スイカ割りを回避。
うぉう!? と無様に漏れた声が断末魔でなくて本当に良かった、と平和な思考を振り払いつつ素早くその場に立ち上がる。
「行けよ⋯⋯。クラフト!」
今度は椅子で武装し、再びゴブリンとヒロシが向き合う。咄嗟に右へ転がったことで、ゴブリンは牢屋へと背を向けている。
不安定な息を整える間もなく、ゴブリンが棍棒を大きく振りかぶる。それと同時に、ヒロシは巨体の懐へと滑り込む。
予想外の獲物の行動、ゴブリンは反射的に棍棒を振り下ろす。が、完全に振りかぶられることなく放たれた一撃は浅く、軽い。
椅子の背もたれを肩で支えて衝撃を受け──椅子を捨てながら棍棒を握る巨腕に、両手の鎖をかける。
捕まえた腕を軸に、逆上がりの要領で苔色の顎を蹴り上げ、太い指から棍棒を奪いにかかる。
暴れるゴブリンと不格好ながらも渡り合うヒロシの立ち回りに、ほんの少しの希望が見えたのか、クラフトとシエルは渋い顔で頷き合って意思を確認し、
「⋯⋯どうか無事で」
祈るように言い残して、親子は静かに動き出した。
一方、腕へと絡みついて何度も顎を蹴り上げるヒロシと、それを振り回すゴブリン。
スタイリッシュとは言い難い戦場を、親子は避けて螺旋階段へと急ぐ。
目が回り、三半規管が危うくなってきたところでヒロシの背が壁へと叩きつけられた。
酸欠で痛む脳に構うことなく、肺から酸素が絞り出され、ヒロシは棍棒と共に放り投げられる。
吹き飛ばされながら身体を捻って壁面に着地し、衝撃を相殺。
なんか俺、覚醒したんじゃね──そのまま落下して全身を打撲することで、それが錯覚であると痛感する。
背後を進み、出口へと差し掛かった親子に気付いたゴブリンは琥珀色の双眸をギョロつかせて焦燥を叫んだ。痛む顎を指で支えて首を鳴らし、親子の背を追いかける。
追跡者に気付き、後ろを振り返るクラフトの視線──空色の双眸が地面に伸びたヒロシの視線と重なり、彼の身体を叩き起こす。
──守れ、守れ、守れ、守れ。
「大丈夫だ、走れ!」
這うようにして立ち上がり、親子を追うゴブリンの背へ尻ポケットに突っ込んでいた根津のスニーカーを投げる。
「こっちだ!」
肩に当たって落ちるスニーカーに続けて、開戦後から行方不明だった石レンガを拾って投げる。
鈍い音を立ててゴブリンの後頭部へとぶつかり、低く唸ってこちらへと苔色の巨影が向き直った。
「お前の相手は俺だ。殺してみろよ、くそったれ」
今の自分にこれは振れない、瞬間的に悟ったヒロシは重い棍棒をよっこいせと部屋の隅へ。
ゴブリンが、逃げる親子とヒロシを天秤に掛ける前に、さきほど捨てた椅子を向き直ったゴブリンの顔へ投げる。
それなりの時間稼ぎになるかと期待して投げた椅子は軽々と粉砕され、ただの木片と化した。その隙に飛び前転でゴブリンの脇の下をくぐり抜け──られれば良かった。
「ぅ、あ……!」
調子に乗って不必要なアクションをとったのが間違いだった。
空中で捕まったヒロシは首を絞められ、身体が宙に浮く。
首吊りにならないようゴブリンの手首を掴んで重力に抗うが、首骨の間隔を広げられそうなほどの握力に絞められれば大差はない。
首を絞めたままゴブリンは、砲弾によって破壊された牢屋へとヒロシを運ぶ。散々、自分の邪魔をして己の顎を蹴り上げた相手だ。窒息させて、首の骨をへし折り、砦の外へ放り出して──死してなおトドメを刺すのだろう。
血流が止まり、ヒロシの顔が赤くなっていく。何度もゴブリンの腹を蹴り、手首を殴るが、ゴブリンは八重歯を見せて嗤ったまま前へと歩く。
砕けた天井から滴る冷え切った血液がヒロシの頬を撫でる。薄いシャツに潜り込む冷気が濃くなり、走馬灯を見る間もなく、落下死の会場へと到着してしまった。
これは、もう死ぬ。どうしようもない。が、クラフトとシエルの背はもう見えない。
与えられた仕事は果たした。少女を、クラフトを守った。母を、シエルを守った。親子を守り切ったのだ。
「俺の……勝ちだ。ざまーみろ、ばーか」
痺れる四肢、己の首を絞める苔色に抗う力は残っていない。メインミッションを果たさず、サブミッションだけの攻略だ。
なんともまあ、初期設定から崩壊したゲームバランスだった。
垂れる両手。鎖の音が響く。遠のく意識、眼球が脈打っている気がする。
いつ死のうか、いつこんな世界から出ていってやろうか、そんなことを考える日々だった。だから、いまさら死なんて怖くない──と言うと嘘になる。怖すぎる。吐きそうだ。
──我が生涯に無数の悔いあり。
最期は美少女に看取られて逝きたかった。が、それ以上の後悔をしなくて良かった。
自責の念に蝕まれて自滅していく自分の姿を、ヒロシはまるで過去の出来事のように鮮明に想像できた。だから、逃げなかった。
最後にヒーローできた。それならば、来世では異世界チートハーレムを望んだっていいだろう。
願わくば、褐色系ロリ奴隷エルフがパーティーに──
「ちぇすとぉぉぉおおおおお!!」
死を覚悟したヒロシ。 そんな空気をぶち壊しにする意味不明の雄叫びと共に、切り札は姿を現したのだった。