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第一章5  爆ぜる感情

 空を裂き、飛来する音が響いた後に爆発する。それが花火。では、爆発音の後に飛来音が聞こえたならば──ずっと漂っていた花火の匂い。否、火薬の匂いの正体は大砲だった。

 いち早く爆音の正体を悟り、親子を守るべく立ち上がったところまでは満点をつけてやりたい。しかし、ヒロシの脳裏に映るのは瓦礫に潰されて全員圧死のバッドエンドだ。


 限界を訴える身体を引きずり、ヒロシは親子へと覆いかぶさる。それを文字通り後押しするかの如く、背後から爆音と爆風が押し寄せ、ヒロシの顔面を鉄格子へ叩きつけた。

 壁の崩れる音が轟音の残響と共に脳を揺らし、身を寄せ合う三人へ天井が崩落する。反射的に瞼を固く閉じて、熱を発する顔面を手で覆う。



 ──この世界に飛ばされる少し前、死んだ方がマシと思っていたことには多少の後悔がある。



 後悔だらけの人生だった。努力を嫌い、努力する人間を嫌い、そのくせ自分を認めないのは他人が悪い。それすらも自覚して開き直り、だらだらと時間を削った末に死を望んだ。

 死んだほうがマシだ、と。確かに口に出して願った。それなのに、望んだはずなのに、ヒロシはそれを恐れ、迎えようとしない。


「──エル!」


 耳鳴りのそのまた遠く、雪のような少女の声音だ。ヒロシは痛む頭を振って、意識を無理やりに覚醒させる。


 眼前に広がる光景は、いつまでたっても死が──瓦礫が降ってこない理由そのものだった。この部屋を牢屋として成立させていた堅牢な壁の大部分が抉られ、夜空が覗くその部屋は粗造りのバルコニーと化していく。

 その手前で、ヒロシとクラフトを守るように両手を突き出し、シエルは立っていた。その両手から放たれた光の膜がドーム状に広がり、崩落した天井が空中に留まっている。


「もうやめて! 死んじゃう!」


 クラフトは母親の足にしがみついて悲痛に叫ぶ。シエルは娘へ視線を向けることなく浮いた瓦礫を光の障壁で押し返し、そのまま前へと倒れていく。


「うお、ちょっと!」


 眼前の衝撃に促されて我に返ったヒロシは、重力に力なく従う身体の落下点へ滑り込み、鎖に繋がれた両手ですくうようにしてシエルを抱きとめた。

 こちらを向くシエルの鼻腔からどろりとした血が溢れ、真珠のようでさえあった眼球には血筋が浮かんでいる。蒼白く変色した唇は浅い呼吸を繰り返し、吸うと吐くのバランスが取れているようには見えない。


「おい、ちょ、これどゆこと⋯⋯!?」


 死を回避した光のバリアに、過呼吸で倒れるシエル──目まぐるしく展開されるパニック劇に脳が追い付かず、ヒロシの視線は母親の顔を心配げに覗きこむクラフトと顔面蒼白のシエルを往復する。

 眼下の青い双眸には涙が浮かび、ヒロシの腕の中の母親を必死に揺すっている。


「瓦礫が降ってくるまで時間が無くて、咄嗟に詠唱を省いたんだと思います⋯⋯」


 クラフトは涙を見せまいと大きく肩を震わせ、そう告げる。魔法という概念を知らないヒロシにとって、それが理解に直結する説明にはならない。しかし、もっと噛み砕いて教えてくれ、と目の前の少女へ言葉を投げる勇気はない。

 それに加えて、『教育を受ける機会に恵まれなかった』という根津の嘘があった上でこの説明なのだから、この世界において教育以前の常識なのだろう。だから、


「そうなんだ⋯⋯」


 無理やりに己を納得させ、ヒロシはゆっくりとシエルを地面へ。クラフトが先回りして地面に正座し、膝の上に母親の頭を乗せるように促す。

 シエルのうなじに手を添えて、垂れる首をクラフトの膝へ預ける。それと同時に三人を覆っていた光のドームが霧散し、冷たく鋭利な風が建物の内部の生物の耳を千切るべく、レンガの粉塵と共に顔を打ちつける。


「死に⋯⋯はしないよね?」


 寒風に晒されて噛み合わない歯を食いしばり、目を細めてヒロシは少女へ問う。


「それは大丈夫です。ただ⋯⋯」


 クラフトは言葉を区切り、シエルの額に浮かんだ汗を袖で拭う。シエルは浅く短い呼吸を繰り返し、「大丈夫⋯⋯」と娘の頬へ手を伸ばして微笑む。

 どんな名画へも収まらないであろう、美しい親子の絆だ。しかし、ヒロシは黙って見つめることしかできない。

 ほんの数分前、適当な理屈を並べて、自分可愛さに置き去りにしようとした親子へ、なんと声をかければ良いのか。


 自分のせいで致命的な後遺症を背負わせてしまったのではないか、とクラフトの沈黙が更なる不安を煽り──血を流して倒れる女性、という衝撃に上書きされていた悲劇が蘇る。


 本来であれば、親子の隣でヒロシと共に罪悪感と虚無感に蝕まれるべき男が、ここにはいない。

 ヒロシと共に逃亡を図り、見張りのゴブリンに腕を掴まれて屋上へ引き上げられ、見えなくなった末に天井ごと吹き飛んだ──


「根津⋯⋯」


 ついさっき呼べなかった親友の名を口に出し、ヒロシは己の全身から血の気が引いていくのが分かった。瓦礫の隅にはヒロシが唯一奪い返した、根津のスニーカーの片方が転がっている。

 彼の無意識が、己の精神が壊れないように自己防衛を働かせたゆえに、根津のことを意識の外へ置いていたのかもしれない。しかし、


「根津! おい根津!」


 半壊した天井の向こうへ向けて、ヒロシは何度も叫ぶ。今度はそうすることによって己の精神を守ろうとしているのだろう。が、古風で軽率な根津の声が応える気配はない。

 そんなヒロシを見つめるクラフトの視線は、病に侵された患者を見る医者のそれだ。


 ヒロシは砲弾が着弾した際、咄嗟に壁から飛び退いた。それに加えて、第一波は牢屋の壁が、第二波はシエルの障壁が相殺し、ヒロシの受けた衝撃は致命傷に至らなかった。

 当然の如く、着弾の瞬間に何も遮るモノのない、屋上にいた人間が──根津がどうなるかは考えずとも理解できる話だ。


 しかし、ヒロシがそれを理解している様子はない。あるいは、理解しないように目を背けているのか。クラフトはただ痛ましげに、眼前の少年を見つめることしかできない。


 ──壁が崩れて、こちらからはもう登れない。屋上へ登り、親友の安否を確かめる手立ては螺旋階段だけだ。


 深夜にコンビニのポテチとカップラーメンを馬鹿食いしながらゲームして。電車を乗り継いでアニメのイベントに行って。ドリンクバーで粘りながらロリ巨乳は是か非かファミレスで語り合って──

 ヒロシは、一気に込み上げる親友との思い出と吐き気を飲み込んで立ち上がる。今こんなことを考えていても何も変わらない。それならば、思考など放っておいて体を動かすべきだ。


 石レンガのひとつを拾い上げ、衝撃で歪んだ扉へと目を向ける。扉は破壊できなくとも、歪んだ隙間から蝶番らしき金具を叩き壊せば同じことだ。


「ちょっと待ってろ。今行く!」


 親友へ向けた叫びを阻むかの如く、風は彼をさらに強く打つ。

 自分の行動の何が神の怒りに触れたのか、ヒロシにはわからない。良い意味でも悪い意味でも、自分は人畜無害な人間であったはず──


 びちゃり。


 ヒロシの叫びに応えるように、それは滴り落ちる。


「は⋯⋯?」


 理解が追いつかず、呆然として力の抜けた手からレンガが滑り落ちる。

 赤黒く、どろりとした、液体──


「ふ⋯⋯、うぁぁぁぁぁ!!」


 見間違えようもない。寒風に晒されたからか、少し粘度の高い鮮血が天井から親子の真横へ落ちる。水滴はやがて滝のように連なり、かつて牢屋だったバルコニーへ血の池が広がっていく。


 これがどんな感情なのか──今の彼にはわからない。反射的な防衛本能が、眼前の現実からヒロシを引き離すべく『叫べ』と命令を下す。

 地面を這う鮮血に、クラフトは小さく息を呑んで、膝に抱いた母親と共にゆっくりと後ずさる。


「ぁ、ああ⋯⋯」


 何を思ったのか、ヒロシは垂れる鮮血へ手を伸ばし、両手で受け止めようとする。指の隙間から零れ落ちる命。親友の成れの果て。

 指を撫ぜて手の甲を伝って滴る『死』に、意識が段々とクリアになっていく。死への恐怖。そして、怒り。


 唯一の親友が──根津がこうなったのは、飛んできた砲弾のせい。崩れた壁の向こうに見える、奇声を上げて進撃する腐敗した苔色たち。その進路の先には車輪のついた大砲群がその口から煙を吐いている。

 それらが砲弾を放った。何故かはわからない。そんなことは関係ない。砲弾を放ち、親友の命を奪った。それだけで十分だ。


 ヒロシは、血液に濡れて滑る手で再び石材を拾い上げ、遥か遠くに見える大砲群を見やる。

 鎖に繋がれているがゆえに、両手でレンガを投げる。叫んでは投げる。語彙の限りの呪いを口にしながら、ヒロシは石を投げた。

 放り出された石材は、物理法則に従って壁のすぐ向こうへと落下していく。彼の憎悪の先へはとても届きそうにない。

 知らぬ間に噛み切った口から血が流れ、それもろとも唾を飛ばして叫ぶ。


「俺は! 俺は⋯⋯!」


 震える手で、震える顎で、彼は叫び、石を投げる。血の滲み始めた指先が痛みを訴える。その痛みが彼を現実へと縛り付ける枷であり、最後の砦だった。


「俺は悪くない⋯⋯!」


 新たな玩具を得た猿が、同じ事を何度も繰り返すように──ヒロシは、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、その言葉を反芻して石を投げる。

 悪いのは全部周りだ。砲弾が飛んでくるなんて知るはずもない。誰が砲弾を放ったのかなんて知らない。ただ、それが根津の命を──


「俺は⋯⋯、俺が⋯⋯」



 根津を殺した。

 彼は気づいていた。否、自覚していた。そもそも、逃げ出そうなんて言い出さなければ、こんな結末を招くことはなかったことに。


「逃げるって口にする勇気もねぇくせに言い訳ばっか並べて⋯⋯」


 ヒロシは己の過ちを懺悔するように言葉を垂れ流す。本来の自分ならば、その薄っぺらなプライドが許さないであろう醜い姿で喚いた。


「あんたらを見捨てて逃げようとして、根津を無理やり付き合わせて、引っ張り上げられてく足を掴んでもやれなくて、挙句の果てに──」


 根津は吹っ飛ばされた。すべて自分のせいだ。


「俺はクズだ。無力だ。何もできねぇ。そのくせ何もしねぇ⋯⋯いや、何もしなけりゃこうはならなかった」


 あの時、足を掴めていれば。あの時、脱出の提案なんてしなければ。あの時、死なんて望まなければ。あの時、己に都合の良い来世なんて望まなければ──


「ヒロシ!!」


 少女の叫び声。それと同時に腰を締め付ける細い感覚。理解するまでほんの少し時間がかかった──いや、その行為そのものは認識できた。クラフトが腰に抱きついている。その意図を理解するまでに時間がかかったのだ。

 そして、その考えをヒロシが理解したとき、なんて強い子だろう──ただ、それだけが彼の思考を埋め尽くす。


 たった十歳の少女が、すがることのできない母親を看病しながら、見ず知らずの男にまで気が回せるものだろうか。自分だって辛いはずなのに、自分だって泣き叫びたいはずなのに。泣いて喚いて、訳も分からずに暴れるものではないのだろうか。

 ヒロシの奇行が止まり、己に意識が向いたことを悟ったクラフトは大きく息を吸う。開いたヒロシの瞳孔を真っ直ぐに見上げ、


「貴方が⋯⋯何を思おうと、この世界は変わらない。過去は変えられない。変えられるのは自分自身と未来だけです。己の罪に、過去へ忠を尽くしなさい!」


 元々、彼女の声はそう大きくはない。今だって、決して大音量ではない。しかし、その声音はヒロシの鼓膜を強く叩き、狂気へ逃げようとしたヒロシを現実へ引きずり戻した。

 ヒロシが彼女と同じ年の頃に、こんな振る舞いができたようには思えない。今でさえ、ヒロシは泣き喚いているのに。


 ──ただ、この子を守らなくてはならない。この子を救わなくてはならない。


 心臓が跳ねる。胸が熱く、痛い。憎しみに蝕まれた思考が解き放たれ、眼前の少女を守れと心が叫ぶ。


「君は、一体⋯⋯」


 口を開いたものの、何を言いたいか纏まらずに口を開いて硬直するヒロシを、クラフトが首を振って制する。膝元で本来の呼吸を取り戻した母親の頬を、彼女は厳かに撫でて、


「また⋯⋯砲弾が飛んでくるかもしれません。扉を破ってください。私の力では無理です」


 クラフトは、淡々とした口振りを装いながらも早口で告げる。ワンテンポ遅れてヒロシは彼女の言葉を理解し、己が立たされた状況を再認識する。

 瓦礫と粉塵の山から、根津のスニーカーの片割れを拾い上げ、瞑目して大きく息を吐く。祈るように尻側のポケットへとねじ込み、ヒロシは散乱した石材の一つを手に取る。


「シエル、肩を貸せば立てますか?」


「──ええ、手間を……かけます」


 色の戻ったシエルの頬から手を離し、クラフトはゆっくりと彼女の身体を起こす。鎖で両手を繋がれているがゆえに悪戦苦闘しながらシエルの肩を支え、二人は立ち上がる。


 そんな二人を背に、ヒロシは一心不乱に扉と檻とを繋ぐ金具を叩く。手の平にこびりついた血液は、石材の粉塵によって黒い泥のようになっている。

 それゆえに手中で滑る石材を何度も持ち替え、砕けては新たな石を拾い、また叩く。


 金具を鉄格子へと固定するボルトが歪み、根元から折れた。生じた隙間に指先を滑らせ、


「いち、にの⋯⋯」


 血が滲み、激痛に震える指先を気遣って躊躇しているのか──号令の最後を口にできない。が、そんなことを言っているヒマはない。ヒロシは大きく息を吸い、力強く吐き、


「さん!」


 激痛と共に手前へ引き、金具が一気に剥がれる。折れたボルトが地面に落ちて耳障りな音を立てる。

 達成感もそこそこ、すぐに下の金具へ取り掛かろうとしたところで、指先の限界と扉を支える金具類の限界を同時に悟る。

 

「よっし、下がってろ」


 と言葉を発した後で、女性陣は最初から壁際へ下がっていたことに気付く。ここに来て、己のダサさ具合を噛み締めつつヒロシは数歩下がって扉へと突撃。

 メキメキと音を立てて、下の金具を支点に錠前もろとも扉が前へ倒れる。バランスを崩したヒロシも扉と共に地面へ。


「よくやりました。では、進みましょう」


 扉の上でうつ伏せの形のヒロシは、背後からの言葉に弱々しく手を上げて応える。そんなクラフトの称賛と共に、ヒロシは全身にみなぎっていた力が抜けていくのを感じた。



 ──空回りだっていい、脳味噌を回し続けろ。俺がこの子を守らなくては。



 頬に倒れた扉の温度を感じながら、ヒロシはそんな思考を己へ語って聞かせる。

 扉を破ることによってほんの少しの安堵を感じていた彼らの元へ、重い足音が近づいていることに──彼らはまだ気づかない。

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